6章 呪われし地へ 3-16
身の毛がよだつような断末魔の悲鳴をあげ、全長三リールはある植物が横倒しになった。
植物、とは分類されていても複数の足があり、しかも動く。地面はジメジメと湿っており、草もまばらにしか大地に根を張っていない。そんな状況下では、地面に倒れてもドサリ、ではなく、グシャリ、という不快な音になるのだった。
「痛……。あ~、俺ってドジだよなァ」
「のんびり言っている場合じゃないでしょう、クルーガー! 傷を診せて!」
ルシカがクルーガーの傍で、両膝をつくように屈み込んだ。
クルーガーは剣を地面に突き立て、片膝をつくようにして座り込んでいた。巨大な人喰い植物の触手に右腿を打たれ、衣服とともに皮膚が裂けてしまっているのだ。ルシカに向けて軽い口調で話していたが、クルーガーの顔色は真っ青になり、額に汗を浮かべている。
「毒か!」
テロンも気づき、急いで歩み寄った。治癒魔法のために無防備になるルシカと兄クルーガー、ふたりの様子を見守りつつ周囲を警戒する。
黒く変色した血を滴らせる傷口に、ルシカが触れるか触れないかぎりぎりの位置に片手をかざした。もう一方の手にある『万色の杖』を握りしめる。白い光が空中を駆け奔り、何もない空中に描かれた魔法陣が少女と傷ついた青年の周囲を取り囲んだ。
魔導の力場が生じ、ふわりと温かい風が流れる。裂けていた傷口が塞がり、腿の腫れが引いていく。鎧のない部分であり、流れた血や破れた衣服は戻らないので、ルシカは荷物の中から手頃な布を出した。処置を済ませて息をつき、クルーガーを上目遣いに見た。
「まったく、もう。らしくない無茶だったよ、クルーガー……。八本の触手を同時に相手にするなんて」
「わかったよ、今度は気をつけるからさ」
まあまあ、というように、クルーガーは両手をあげてルシカの前にかざした。冗談めかした態度に、ルシカが細い腰に手を当てて口を開きかける。だが、間延びした声に遮られてしまった。
「あのぉ……本当に大丈夫なんですか? 傷はすごかったですが――」
「ティアヌ、心配は要らない。それでもしばらくは、右脚に負担を掛けないようにしたほうがいいが。……それにしても、兄貴、ルシカに無茶とか言われるなんて余程だと思うぞ」
テロンの言葉に、ルシカがちょっぴり頬を膨らませる。テロンはそんな彼女に視線を向けたあと、表情を引きしめてクルーガーに向き直った。
「兄貴。王宮に戻ったときから、気にかかっていることがあるんじゃないのか?」
「さてと……」
その問いには答えず、クルーガーは立ち上がった。剣の汚れを払って鞘に収める。心の乱れを押さえ込むかのように、彼はゆっくりと周囲の光景を眺め渡した。
濃淡にばらつきのある霧が、見渡せる範囲を狭めている。目の届く範囲には陰鬱な湿地が広がっているばかりだ。乗ってきた馬はこの地域に入るとき、すでに放してあった。今頃は王宮の厩舎へ戻っているだろう。この場所には剣呑な植物や魔獣が徘徊しており、馬は格好の獲物になってしまうからだ。
『無踏の岬』と呼ばれる魔の領域、大湿地帯。気味の悪い色をした草がまばらに生えているだけの沼地がほとんどを占めている土地である。
「今はまだ雨が少ない時期だから、良かったな」
クルーガーの言葉に、テロンは頷いた。
「これが雨季なら、この『無踏の岬』の大湿地帯に入ることすらできなかっただろう」
「目指すのが島なら、外側から船で行くのはどうなのでしょう」
ティアヌが疑問に思っていたことを口にすると、ルシカが首を横に振った。
「それは実行不可能、かな。島の周囲に奇妙な海流があって、船は沈められ、運ばれて、『船の墓場』のコレクションにされてしまうわ。以前、黒装束の男たちが、海側から島に到達するための女神像を手に入れようとして、事件を起こしたこともあったくらい。まともには渡れない海域になっているの」
「『船の墓場』って、言葉通りのものなんですか?」
「そうよ。あ……見て! 霧が切れている……あそこ」
ルシカが指し示したのは、一行が目指している方向だった。うまい具合に霧が左右に流れ、数百リール先に、とうとう湿地帯が終わっている地点が見えたのだ。
ようやく『無踏の岬』の先端までたどり着いたのである。
泥の大地から岩場に近づくにつれ、急に潮の匂いが強くなってきた。ただし、どんよりと澱んだ鉄錆のような、死臭と腐臭を感じさせる匂いである。立ち込める霧も、べったりと重いものに変化している。
「岩の向こう、海が……海がありますよ! けれど、これは一体……」
この土地に関して知識のないティアヌが、岩場から先の光景を目にして立ち尽くした。話に聞いたことのあるテロンたちもまた、実際に目にした光景の凄まじさに驚き、思わず足を止めてしまう。
岩場の向こうに、黒々とした不穏な色合いの海が横たわっている。かろうじて進むことのできそうな足場は、海から突き出した岩と、朽ちるままに放置された無数の難破船、その成れ果てであったのだ。
沖へと続く先はさらに霧が濃く、不気味な灰色に塗り込まれたかのように見通せなくなっている。まだ天高く昇っているはずの太陽の位置すら把握できないほどに暗い。
「島まで渡っていけるはずだけれど……」
ルシカが不安そうに言った。足場となる岩場や浅瀬があるはずだったが、あまりに多くの難破船があるので、それらの甲板や内部を通り抜けるしかなさそうである。
難破船は、無事であった頃の全体の姿かたちの判るものから、竜骨しか残っておらぬもの、板だけが並ぶように岩場に引っ掛かったものまで様々であったが、どれもが死臭をまとわりつかせた墓標のようにひどく不吉な有様であった。
「先ほどのルシカの言葉、比喩でも何でもないんだな……。これでは通り抜けるだけでも苦労しそうだ」
クルーガーが唸るように言って、ため息をついた。
「あたしも実際に見たのは、これが初めてだけれど、何だろう……あちこちから、刺さるような冷たい視線のようなものを感じるの。気のせいかしら……」
細い腕をさすりながら周囲を見回すルシカに、テロンが声を掛ける。
「こんな場所に棲息している生き物ならば、警戒して襲い掛かってくるか、動くものなら何でも捕食してくる相手かもしれない。気をつけよう」
「生きたものですらないかもしれんぞ」
クルーガーが真面目な顔をして、言葉を返した。
寒気を押さえ込みながらも、一行は再び進みはじめた。海水に濡れた岩の表面はひどく滑りやすく、段差も傾斜も穏やかではない。テロンはルシカに手を貸し、幅の広い割れ目や大きな段差、朽ち掛けた板の上を渡るのを助けた。
「王宮を出発して二日……まだ『はぐれ島』の神殿に着かないのだな。いったいどれほどの魔獣を倒してきたのやら」
先頭をいくクルーガーが、苦い表情でつぶやく。
「個体数まで把握していませんが、遭遇して戦闘になった回数は、八十五回だったと思います」
耳の良いティアヌが、はっきりとした声で答えた。
「律儀だなァ……」
クルーガーは呆れを通り越し、感心したような声を出した。だがすぐに立ち止まり、前方を透かし見るように手をかざした。
「ルシカ。先ほど視線を感じると言っていたな。俺にも何かの気配が感じられる。だがどうやら、まともな生き物というわけではなさそうだぞ」
「ここから先は、大きな船ばかりだな……。兄貴が感じている気配、俺にもわかる。遺跡の奥で遭遇するような、死霊や亡霊の類ではないだろうか」
潮が満ちはじめたこともあり、岩場を通るルートの確保が難しくなりつつある。目の前に現れた大きな船の残骸を避けて通ることはできなさそうだ。
「少しでも早く先へ進みたいところだが……。この敵意や憎悪に満ちた気配は、黙って通してくれそうにもないだろうなァ」
「そうね……生きている者は歓迎されないと思う。戦闘になるかもしれないわ」
「そんな! 僕たちは、通り抜けるだけなのに」
ティアヌが口を挟んだ。
「船を荒らしにきたとか、財宝を狙いにきたというわけじゃないのに、襲ってくるんですか?」
「こちらの事情が、亡霊相手に通じるわけないだろう」
「そっか……待って!」
クルーガーの突っ込みを、ルシカが遮った。
「『降魔の結界』を張るのはどうかしら。弱い霊や中途半端な存在を寄せ付けない効果があるの」
「なんだ、それならそうと早く言ってくれよ」
「予備の魔石があるから、結界を張るのは問題ないんだけど……」
「他に問題があるのか?」
テロンが、ルシカの言葉に含まれた別の意味に気づいて先を促した。
「うん。通常の霊なら、あたしたちに近づけなくなる。でも、うんと力の強いやつは……そうはいかない。刺激して、逆に怒らせてしまうかもしれない」
「なるほど」
クルーガーは納得したように頷いた。けれど、すぐに口を開いて言葉を続ける。
「しかし、下っ端のやつを数多く相手にして時間を消費するくらいなら、一気に抜けてしまうというのも悪くない。どうせ下っ端たちを倒していれば、そのうち上位種も出てくるだろうし」
「魔石の結界というのは、すぐにできるものなんですか?」
ティアヌの問いに、ルシカは頷いた。背負っていた荷物の中から、指輪に仕立てあげられた魔石をひとつ取り出した。
「よし、じゃあそれでいこう」
クルーガーの決定に、ルシカは『万色の杖』を構えた。呼吸を整え、魔石の指輪を握ったほうの手に意識を集中させはじめる。
ルシカの集中を乱さないように数歩離れ、ふと足元に視線を落としたテロンは、地面に残された痕跡に気づいて屈み込んだ。
「足跡だ。俺たちより先に進んでいる者が、何人かいるみたいだな」
大湿地帯とは違い、岩場に溜まった砂は湿気を含んで引き締まることで、痕跡が容易に崩れないのだ。
「……それほど経ってはいないみたいだ。戦士がふたり、魔法を使う者がふたり。戦士の片方は相当な熟練者のようだ」
「よく足跡を見ただけでわかるわね」
魔石を用意し終わったルシカが、感心したような声を出しながらテロンの傍に寄ってきた。テロンは、ルシカにもわかるよう足跡のついた箇所を指し示しながら言葉を続けた。
「ソバッカ殿からいろいろ教えてもらったんだ。体重の移動や足の運び方、足跡の深さとかである程度は判断できる」
「僕たちと同じように『はぐれ島』へ向かっている冒険者たちでしょうか」
ふたりの肩越しに覗き込んだティアヌが、首をひねりながら訊く。
「おそらく、そうだろう」
答えたテロンは、周囲を見回しながら立ち上がった。
「好き好んでここを抜けようとする者はいないだろうし。……この先には呪われた地しかないからな」
「よし。先行している者たちがいるなら、俺たちも急ごう」
ルシカの作り出した結界の効力を実感しながら、テロンたちは難破船の上を進みはじめた。腐った板を踏み抜かぬよう気を使ったが、幸いにも亡霊たちと戦闘にはならず、白い影や黒いもやのような塊にドキリとさせられた程度で、かなりの距離を稼ぐことができた。
『船の墓場』に入ってから、どれほどの時間が経過したのだろう。浅瀬に延々と続いていた難破船の残骸がまばらになり……進行方向にはっきりと、巨大な島影が見えてきた。
ついに岩場を抜け、砂が広範囲にぎっしりと敷き詰められた海岸に到着したのである。
一行は立ち止まり、海にある島とは思えぬほどに起伏の激しい、まるで内陸部の山岳地帯を切り取ったような大地を凝視した。
「これが……『はぐれ島』。呪われし地なのね。魔導の気配と……それを歪めている別の力の気配が感じられる。何かしら」
「この島のどこかにある神殿に、ルレファンが……そしてリーファが、居るんですよね」
「間違いないと思うわ。脈打つような、祭器の魔力を感じるもの。方向もはっきりとわかるから、迷わないと思う」
「よし、今度こそあの男の企みを阻止してやろう!」
クルーガーが腕を回して気合いも十分だというように声を張りあげた。
テロンは何気なく足元に視線を落とし……ハッとなった。隠れる場所のない砂だらけの平地だというのに、先行していたはずの冒険者たちの足跡が、突然、ぷっつりと途絶えていたのだ。
丁度いま、彼らが立っている位置だ。ゾクリ、と強烈な感覚がテロンの背筋を駆け抜ける――。
「まずいッ、みんな伏せろッ!!」
叫ぶと同時にティアヌの腕を掴み、テロンは傍にいたルシカに覆いかぶさるようにして地面に伏せた。
直後、地面に伏せた彼らの背のすぐ上を、凄まじい勢いで何かが通り過ぎた。ルシカの手の中にあった魔石が、パンッ、と弾かれたように砕け散る。
「大物がおいでなすったか!」
テロンの声と同時に伏せていたクルーガーが、撥ねるように起き上がる。腰の長剣を抜き放った。魔力を帯びた刀身が、陰鬱な闇を退けるようにギラリとした輝きを放つ。
ヒョヒョヒョヒョヒョヒョ。
虚空に、霊の発する嗤い声が響き渡った。霧と砂ばかりの空間であるのに、あちこちに跳ね返り、増幅されたように幾重にも重なって強まり、圧倒的な力で襲いかかる。
「あ……耳が……痛いっ!」
ルシカが耳を押さえ、苦しそうにうずくまった。嗤い声には邪悪な効力が含まれているようだ。濃い魔力を体内に秘めているルシカが、一番強く影響を受けているようだ。
クルーガーが痛む内耳に顔をしかめながらも、気合い一閃、魔法剣で虚空を薙いだ。何かをかすめたような手応えがあり、クルーガーは空中を見た。
ウオオオオオオオオオ――!!!
苦悶の声が周囲の空気を激しく震わせた。頭上に何か得体の知れない気配が集まりはじめている。
「クッ!」
テロンは『聖光気』を発動させようとして構え、意識を集中させようとした。が、その瞬間、空気の塊のようなものに激しく胸を撃たれてしまう。不意を打たれたテロンは息を詰まらせかけたが、すぐに体勢を整え直した。
眼には捉えられないが、凄まじい悪意と憎悪が、敵意をもって集まりはじめているのが感じられる。しかも容赦なく、その数は増え続けているようだ……。




