3章 湖底都市デイアロス 3-7
『大陸中央都市』ミディアルの西方、フェンリル山脈の麓に、ディーダ湖という名の大きな湖がある。一見ごく普通の湖だが、実は、その湖底には大規模な遺跡が存在するのだ。
かつて地上に在ったものが、何らかの原因で水の底に沈んだ、というわけではない。この都市遺跡は、「はじめから」湖の底に造られたのである。
それが『湖底都市』と呼ばれるゆえんだ。
古代に栄えたグローヴァー魔法王国中期に造られたデイアロスは、閉鎖的な人々が住む街だったこともあり、出入りの管理は厳重、かつ限定的で、滅びたあとに地上から都市内部への侵入口が発見されることがなかった。
今回ルシカが調べた文献も『真言語』の表記文字で綴られていたため、解読した者がいなかった。よって、正規の入り口が開かれるのは今回が初めてということになるかもしれない。
テロン、ルシカ、クルーガー、ティアヌ、リーファの五人と、街に置き去りにするわけにもいかなかったので結局ついてきてしまったマウの一行は、ディーダ湖の岸辺に立っていた。
「なんとまあ……すごい景色ですねぇ」
あまりに壮大、壮観な自然の広がりを目にしたティアヌが、感嘆の声をあげる。
南の隣国との国境も兼ねているフェンリル山脈を鏡のように映した水面は、風に波紋が広がるのみで、深く静かに澄み渡っている。屏風のごとき北壁の連なりと、山岳氷河を抱く幾つもの白き高峰が屹立している堂々たる光景が、天空と広大な湖の双方に広がる青の領域を分断していた。
そのような超自然を感じさせる光景の中心――湖の真ん中に、不思議な島が浮かんでいる。左右対称の、塚のように盛りあがっている不自然な島だ。岸辺からは遠くて詳細はわからないが、どうやら土が露出したままになっているようだ。
「かなり距離はありますが、手漕ぎの舟であっという間に渡れそうですけどねぇ」
「そうもいかないんだ。ここから見る限りは静かな水面だけど、あの島の周辺には奇妙な水流があるらしい」
ティアヌの感想がもっともなほどに落ち着いた光景なのだが、テロンがルシカから聞かされた話では、ディーダ湖の中央部は不気味な噂の耐えないほどに危険な領域であるらしかった。
周辺の地元住民の話でも、夜な夜な不気味な光がぼんやりと浮かんでいると恐れられており、島に渡らせてもらえないかと頼んだ一行には否定的な言葉ばかりが返ってきた。
テロンたちに、悪いことはいわないからやめておけと重々しく忠告する者もいたくらいだ。新しい舟を買っても余るほどの金貨と引き換えに、ようやく小舟を一艘譲ってもらうことができただけでも幸運だったのだろう。
「危険な水流には、理由があるのよ。そっちはあたしに任せてね」
ルシカが確信をこめた口調で言った。
「そういうことだ。行こう」
クルーガーが頷き、仲間たちに向けて出発を宣言する。
慣れない操舵と奇妙な水流で危うく引っくり返りそうになりながらも、魔導の力で渦巻く水を鎮め、一行は何とか島に上陸することができたのであった。
「なんだか気味の悪いところですねぇ……。このような自然の領域には必ず精霊たちがいるものなのですが、何も感じることができません」
一番に島に降り立ったティアヌが、いつもののんびりした口調で言いながらも眉をひそめ、周囲の不毛な光景を見回している。
ティアヌに続いて、リーファが身軽に岸へ飛び移った。
テロンが投げた船のロープをティアヌが受け取り、手近な岩に引っ掛けて固定する。船に残っていた仲間たちも次々と島の岸辺に降り立った。マウはクルーガーの鎧の肩に乗っかっている。
「ルシカ、大丈夫か?」
テロンはルシカの体を抱き上げ、最後に船から降りた。腕の中のルシカがぐったりしているので、心配のあまり何度も青ざめた顔を覗きこんでしまう。
奇妙な水流は、島に近づく者へ対する魔法の警告だった。解除にルシカの魔導の力が必要だったとはいえ、衰弱するほどに強力なものであったとは思えなかったのだが――。
「う……ん……どうも気持ち悪くて……ごめんね」
「まさか、船に酔ったのか?」
心底驚いたようなクルーガーの言葉に、魔導士にも弱いものがあったんですねぇと、変に感心しながらティアヌが首を傾げている。
だがテロンには、その理由がなんとなくわかる気がした。ルシカがまだ幼い頃、彼女の両親は船で亡くなっているのだ。当時三歳だった少女の心には、たとえ当人が覚えていなくとも、そのときの衝撃がはっきりと刻み付けられてしまったのかもしれない。
「この島は、どのくらいの広さがあるのだろう。見たところ何も見当たらないけれど、敵がすでに到着したあとかもしれない」
テロンはルシカの気を紛らわそうとして口を開いた。その言葉に、クルーガーが周囲をぐるりと眺め渡した。島の中央は盛り上がるように礫岩が積もっていて、反対側の岸辺までは見通せなかった。
「確かにそうだな。『破滅の剣』を手に入れようとしているエルフ族と黒装束の男たちは、すでにこの島に渡ったと考えられる。だが、周囲にはそれらしい気配がないようだ」
クルーガーが言った。船を借りるとき、その村の何人かが、昨夜遅く闇のなかで船が水面を割って進む微かな水音を聞いたというのだ。
「島自体は、それほど広くはないようです。おそらく端から端まで五百リールあるかどうか、というところでしょうか。湖の規模にしてみたら、ちっぽけなものですよねぇ」
魔法による技なのかエルフ族の鋭い感覚なのか、周囲の状況を探っていたティアヌが顔を上げて言った。
「こんなところに、本当に『湖底都市』とやらへの入り口があるのか?」
リーファが琥珀色の瞳を油断なく光らせ、周囲のごつごつした岩だらけの地面を見回しながら訊いた。警戒しているとはいえ、少女の口調からは、他人を撥ねつけるようなとげとげしさが抜けていた。態度も出逢った直後より、ずいぶんとやわらかなものになっている。
昨夜、テロンとルシカ、クルーガーの三人が宿に戻ったとき、ティアヌの胸の中で泣き疲れた様子のリーファが眠っていた。マウとリーファの規則正しい寝息の中から、ティアヌがにこにこしながらテロンたちを迎えたので、テロンはルシカと驚き顔を見合わせたのであった。
「島の中央に、入り口となる建物があるはずなの。坂になっているみたいだし、ここから見えないだけだと思うから……」
「大丈夫か、ルシカ」
「うん、もう平気よ。ありがとうテロン。行ける……よ、っとと」
ふにゃりとまだ歩みが不安定らしいルシカにテロンが手を貸し、一行は周囲を警戒しながら島の中央に向かって歩きはじめた。
雨や風に侵食されたのか、表面の岩は非常にもろくなっている。だが、崩れそうな箇所に注意しながら慎重に足を乗せて体重を移動させれば、頂上に着くのは難しいことではなかった。
「――何、これ?」
身が軽いこともあり、真っ先に斜面を登りきったリーファが向こう側を見て声をあげた。
「え、何ですか?」
裾の長い魔術師の服を着ているティアヌは歩きにくかったのか、一行からやや遅れていたが、リーファの言葉に好奇心が刺激されたのだろう、足を滑らせながらも急いで斜面を駆け登っていった。
呼吸を乱しながらリーファの横に立ち、同じように下を見たティアヌもまた驚きの声をあげる。
テロンたちもすぐに追いつき、眼下の光景を眺め下ろした。火口を連想させる、すり鉢状に窪んだ礫岩の底にあたる部分に、不思議な建造物があった。小屋ではない。むしろ、何気なく置かれた箱のようだと言ったほうが正確かもしれない。
注意しながら近づいてみると、表面は石でも木でもない、なめらかで硬い材質でできているらしいことがわかった。
「不思議な建物だな……入り口も窓も、柱や屋根すらない。とびきりでかい、ただの金属の箱みたいだ」
テロンの言葉に、クルーガーが反応した。
「魔法王国期の遺跡にしては珍しいなァ。美しさも機能的な趣向も感じられないぞ」
「王国中期は、魔導技術の躍進の時代なの。装飾や華美な細工を施すより、とことん実用的なものが流行っていたそうよ。ほら見て、クルーガー」
ルシカが進み出て、壁に向けて腕を伸ばした。細やかな指先で、触れるか触れないかの位置に浮かせたまま壁の表面をなでると、魔法語が手の動きに合わせてキラキラと瞬きながら現れた。
光るように浮かび上がった文字は、三呼吸分ほどの時間が経つと消え失せ、もとのすべらかな壁面に戻ってしまう。テロンは興味を惹かれ、自らも腕を伸ばしてルシカの動きを真似てみた。キラキラと美しい文字が浮かび上がる。目を凝らして見つめてみたが、彼に読める文字ではなかった。
テロンの隣では、クルーガーも同じように壁をなでさすっている。
「なるほど……これは面白い仕掛けだな。床も同じような素材だが、こちらには何も現れないんだな」
彼の言葉通り、床に触れても文字は現れない。端のほうは礫岩になかば埋もれてはいたが、平らでなめらかな表面は、箱状の建造物と同じ素材であるようだ。周囲の斜面から転げ落ちてきたのだろう、大量の石ころが転がっていた。
「環境維持の魔法は、建物と周辺にだけ残されているみたいね。もしかしたら、この島の岩土は自然に堆積したものなのかしら」
ルシカが首を傾げつつ、瞳を凝らしながら周囲を見渡す。テロンも彼女につられるように、不思議な建物の周辺に視線を向けた。
離れたところでは、先にたどり着いていたティアヌとリーファが歩き回っていた。
「わッ」
箱状の建造物に気を取られていたリーファが、石のひとつを踏んで転んだ。駆け寄ったティアヌが差し出した手を素直に掴み、立ち上がる。リーファの頬は僅かに赤く染まっていた。
「大丈夫ですか? リーファ。後ろの穴に落ちなくてよかったです」
ティアヌの言葉に、何のことかとリーファが後ろに目をやって――ゾッとした表情になった。そこには、ぽっかりと穴が開いていたのだ。ゴウゴウと虚ろな音が反響している。かなり深い縦穴のようだ。落ちたら無事では済まなかっただろう。
「気づかなかった……少し気が抜けているな、わたしは」
反省したように、リーファが表情を引きしめる。
「ルシカ、この縦穴は何ですか? まさかここから降りるんじゃないですよね?」
人ひとりが余裕で潜り込めそうな縦穴には、手がかり足がかりになるような突起もない。どこまで続いているのかわからない深さで、ただ、不気味にこもったような風の音が響いている。
箱状の建造物の表面に現れる魔法語に向き合い、注意深く読み調べていたルシカが振り返った。
「それは通風孔のひとつよ、ティアヌ。でも、もし今調べている入り口が使えないときには、そこから降りるしかないかも。『浮遊』の魔法が行使できれば、問題はないと思うけど……」
「それはできれば、遠慮したいところだな」
苦笑するようにクルーガーが言い、肩をすくめた。その肩の上で、マウが「むー」とありもしない眉をしかめている。金属鎧を着込んでいる彼にとって、あまり余裕があるとはいえない幅だったからだ。
ルシカは『万色の杖』を眼前に構え、しばらく何かを透かし見るようにじっと瞳を凝らしていたが、やがてにっこり笑って仲間たちを振り返った。
「うん、その心配はなし! ちゃんと今でも使えそう」
ルシカは、箱状の建造物の正面と思われる場所に立った。すっと腕を伸ばし、囁くように『真言語』で「開錠」の意味の言葉を唱える。
然るべき箇所をたどるように彼女がサッとなでると、唐突に、ぽっかりと四角い大きな穴が開いた。ルシカの背より大きなものだ。外部と気圧が少し異なっていたのか、ふわりと空気が動いて、ルシカのやわらかな金の髪を微かに揺らした。
「中は、部屋……みたいになっているな」
テロンは注意深く穴の内部を覗きこんだ。ルシカに視線で危険の有無を確かめ、彼女が頷いたので意を決して内部に入る。ルシカも逡巡なくテロンに続いた。
「大丈夫よ。危険はないわ」
その言葉に、仲間たちが全員その狭い空間に入る。
ルシカはその狭い空間の横の壁に、また手のひらを沿わせた。魔法語といくつか記号が現れ、ルシカが現れた文字をなぞるように指先を動かすと、青と緑に輝く魔法陣が壁一面に描かれた。
ヴンッ。何かの作動音がして、入ってきた四角い穴が瞬時に塞がった。溝ひとつないすべらかな壁面に戻ったので、閉じ込められたと思った全員が一瞬焦ったが、ただひとりルシカが平然としているのを見て、ふうと盛大な溜息をつく。
「次は、説明してもらえていると助かります。……心臓に良くないですよ」
ティアヌの言葉に、ルシカがすまなさそうな表情になる。
「うん、ごめんね……あたしにも実際どんなふうに作動するのかわからなくて」
その言葉が終わるか終わらないかのところで、ふわっと全員の体が浮きあがった。ぎょっとした顔を見合わせた一行だったが、その奇妙な感覚はすぐに消え失せた。
「昇降機、みたいなものか」
クルーガーが周囲に走る青と緑の微かな光を目で追いながらつぶやく。――その壁が、すぅっと色を消した。
「うわぁっ……」
ティアヌやリーファやマウ、そしてクルーガーまでもが感歎の声をあげだ。
不思議な壁の色はすっかり消え、箱部屋の周囲は水に包まれていた。どこまでも青く澄んだ、信じられぬほどに透明度の高い水だ。遥か頭上にある水面には、太陽がちらちらと揺れた像になって輝いている。
やがて、足もとに巨大な影が見えてきた。ぐんぐんと凄まじい速さで迫ってきている。……いや、そうではない。自分たちがその影に近づいているのだ!
高層の建造物が立ち並ぶ巨大都市――ここまで大規模なものだとは誰も考えていなかった。
テロンの手に、いつの間にかルシカの手が重ねられていた。彼女の無意識の行動だったのだろう。いつもは快活そうに煌めいている瞳が、いまは不安そうに揺らめいている。テロンはその手を、ぎゅっと握り返した。
湖の底へ、底へと……。
一行を乗せた昇降機は降下し続けた。




