2章 ふたりの王子 3-6
ルシカの声で一同の緊張が崩れ、張りつめていた雰囲気が元に戻った。彼女は繰った先の頁に挿んであった、一片の紙切れを指差している。
「ねぇ、クルーガー。これは何なの?」
「しおり、だな」
「うん。でも、そうじゃなくて、どうしてここに挿んであるのかしら。紙が新しい……こんな書物に物を挟みこむなんて、通常では考えられない」
「ヴァンドーナ殿は、ルシカに渡せばわかるはずだって言っていたぞ」
「おじいちゃんなら可能……か」
ふむ、とルシカはひとつ唸って、もう一度その頁の上にかがみこんだ。彼女の虹彩にキラリと強い光が閃いたような気がして、テロンは思わず声を掛けようとした。だが、ルシカの表情がみるみる厳しいものに変わってゆくのを見て、言葉を呑む。
「……これは……!」
「どうしたのですか? 何が、何が書いてあるのです?」
好奇心を押さえきれないのだろう、ティアヌが早口で問いかける。
ルシカはしばらくの間、食い入るように綴られている文字をたどり、本から目を離さなかった。やがてまぶたを閉じ、深い呼吸を繰り返した。
瞳を上げ、ルシカはゆっくりと口を開いた。
「間違いない……これはただの魔導書じゃない。『神の召喚』の魔法に関する記述が載っているわ」
目眩をこらえるかのように額を手で押さえ、彼女は言葉を続けた。
「ここに書かれていたのは『無の女神』の召喚方法……。現在では行使する手段の失われた魔法であり、実行することは絶対に不可能だった……はずなのに」
「絶対に不可能……なのに?」
先を促すように、リーファが上擦った声をあげる。「方法は幾つもある……まさにそうね」と、つぶやいたルシカは額から手を離し、オレンジ色の瞳をきっぱりと開いて皆を見回し、言った。
「今でも実行可能なものがあるの。その時期についてはまだ他でも詳しく調べなくては説明ができないけれど、本に記述があったから、必要な品については今すぐに説明できる。それこそが――」
「『赤眼の石』と『青眼の石』か!」
リーファの言葉に、ルシカが頷いた。
「そして『虚無の指輪』……」
眠るマウを見て、ティアヌが言葉を繋ぐ。
「もうひとつが『破滅の剣』というわけか」
テロンは厳しい表情で言葉を締めくくった。一連の騒動の動機と目的が、これで繋がったのだ。
「わたしの村が襲撃され、ふたつの石が奪われたとき、そのエルフが言ってたんだ。次は『虚無の指輪』だと。わたしはその言葉を手掛かりに、あの村までたどり着いた」
リーファが立ちあがって、こぶしを握りしめた。
「あいつはすでに方法を知っていたんだ! 今頃その『破滅の剣』とやらを探しに向かっているかもしれない」
「次に狙うのは古代五宝物か……連中も一筋縄ではいかないだろうが、俺たちも急いだほうがいいな」
腕組みをして話を聞いていたクルーガーが腕をほどき、低い声で言った。
テロンも同感だった。調べることを終えたら、すぐに出立しなくてはならないだろう。ルシカに視線を向けると、彼女もテロンを見つめていた。目が合うと大きな瞳に力を込めて頷き、彼と同じ考えであることを伝えてくる。
書物を閉じ、ルシカが立ち上がる。
「あたし、これからこの都市の図書館に行ってくる。連中のことや、『破滅の剣』の在りかを詳しく調べてくるね。王都のおじいちゃんたちにも連絡を入れて、時期についても同時に調べてもらうつも……り……」
ルシカの言葉が途切れ、華奢な体がふわりと倒れかけた。傍にいたテロンは驚くより先に腕を伸ばし、彼女の体を抱きとめる。
大陸でも扱える者が数えるほどしかいない魔導の力を宿す身にしては、ルシカの体はあっけないほどに軽い。すべらかな頬は血の気を失い、僅かに呼吸を乱していた。腕や肩は肌はひやりと冷たく、やはり魔導によって自身の魔力を消費していたのだとわかる。
「無理をするな、ルシカ」
とがめる響きを含めず、優しい口調のままテロンは彼女に告げた。ルシカは為さねばならぬことをしているだけだ。何よりも大切な彼女であったが、テロンもそのことは理解しているつもりだった。
「……うん、ごめんね、テロン」
ルシカもまた、テロンの気持ちも想いも痛いほどに理解しているのだろう。だが、彼女を取り巻く周囲の状況は、決して待ってはくれない。今すぐに行動しなくてはならないのだ。
テロンはルシカを抱き支える腕に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。双子の兄であるクルーガーに向け、テロンは言った。
「俺もルシカと一緒に都立図書館まで行ってくるよ。できるだけ早く戻るから、旅に必要なものを揃えておいてくれないか」
「俺も参加するつもりだと、ばれているようだな」
ふたりの遣り取りを黙って見つめていたクルーガーは、肩を持ち上げるようにして悪戯っぽくニヤリと微笑んだ。次いで真剣な表情に戻り、背筋を伸ばすようにして言った。
「こっちは任せておけ、テロン。……ルシカにはあまり無茶させるなよ」
「ああ。わかっているよ、兄貴」
テロンは兄に頷いて応え、ルシカの体をしっかりと抱き支えた。ルシカのほうはティアヌとリーファに「マウのことを頼むわね」と伝え、ふたりは連れ立って部屋をあとにした。
「図書館……どのようなところなのでしょうか」
ティアヌは残念そうにつぶやいた。気にはなったが、テロンやルシカと行動をともにできないのは雰囲気を読まずともわかっていた。
「さァて、と」
テロンとルシカの背を見送ったあと、クルーガーが立ち上がった。部屋では脱いでいた外套を肩に羽織りながら、部屋に残っているままのティアヌとリーファに声をかける。
「俺は旅に必要なものを用意してくる。テロンとルシカが戻ったらすぐに出発することになるから、そのつもりでいてくれ」
「あの、よろしければお手伝いしましょうか?」
部屋を出ようとするクルーガーの背に向けて声を掛け、ティアヌは立ち上がった。先ほどは聞くばかりだったので、買出しくらいは役に立ちたかったのだ。
「いや、たいした量ではないし。……この都市には詳しいのかい?」
「いえ、全く」
逆に問われてしまったティアヌは、素直に首を振って答えた。
「人間族の大きな都市に滞在するのは、実はここがはじめてのようなものですし。今までは通り過ぎるばかりでしたので」
「そうか。なら、あまり出歩かないほうがいいな。ミディアルは中心から次々と新しく広がり続けている大都市だから、通りがとても複雑なんだ。はぐれると、まず迷う」
クルーガーの言葉にティアヌはまたも残念でならなかったが、すぐに自身の方向感覚の無さを思い出し、素直に頷いた。彼らに出逢わなかったら、いまでも森で道に迷っていただろう。
「お嬢さんはどうするんだい?」
クルーガーはリーファに訊いた。少女が黙ったまま首を横に振る。「そうか」とクルーガーは頷き、挙げた片手をひらひらと振って扉を開け、出て行った。
「大丈夫ですか? リーファ、あまり顔色がよくありませんが」
クルーガーが部屋から出て行くのを見送ったあと、ティアヌは口数の少なくなった少女に話しかけた。リーファはちらり、とティアヌを見て、低めた声でつぶやくように言った。
「いろいろあったから、少し疲れているだけだ。ただ――」
リーファが口ごもる。
「ただ?」
遅くも早くもなく、丁度よい間を空けたティアヌが穏やかに訊き返す。
「ただ……父と母を思い出していた」
リーファは目を伏せたまま、故郷であったフェルマの村のことを話しはじめた。
「――フェルマの村は、ふたつの部族に分かれていた。『赤の部族』と『青の部族』。わたしが生まれる前から長い間ずっと、互いに争っていた。いつも諍いごとが絶えず、戦争では金で雇われて同じ部族でも互いに殺しあう。戦闘を好む民、呪われた民だと、他の余所者たちから蔑まれていることを……気にしてないわけではなかった」
同じ力をもつ勢力がふたつあれば、どちらかが相手より上位に、優位に立とうとするものだ。もとを糺せば同じ部族であったはずなのに。それを憂えてか私利私欲のためか、武力によって村を統一しようとした者もいたが、さらなる溝を増やしただけだった。
「父は赤の部族の長、母は青の部族の長だった」
リーファの両親ふたりは愛で結ばれ、ふたつの部族を統一しようとしたのだ。それはかつてない、今まで続いてきた争いの歴史から開放される素晴らしい方法となるはずであった。
だが、その道のりは厳しいものだった。互いの部族に結婚は認められず、ふたりの間に生まれた娘リーファもまた、命の危険にさらされるほどの抗争の渦中に叩き落されてしまったのだ。
「それでも、父と母は諦めなかった。ようやく、何年も何年も続けてきた父と母の説得が報われ、ふたつの部族を平和的に結びつける希望が……見えたところだった」
村では、ふたつの部族の話し合いが行われていた。その間、リーファの身は万一の決裂に備え、父と母によって森の中に隠されていた。だからひとり助かったのである。
強襲に、何の前触れもなかった。突然現れたエルフ族の男と黒装束の男たちが……全てを残虐に踏みにじり、消し去ってしまった。罵倒の飛び交っていた会話がようやっと穏やかな話し声に変わり、ぴりぴりとしていた雰囲気が緩んだタイミングだった……。
リーファは隠れていた場所から、村が血に染まるのを見ているしかなかった。「決して出てくるな、何があっても」、それが父と母との約束だった。
悲鳴を押し殺し、震える手で口をきつく押さえ続けた。全身を震わせ涙を流しながらも、彼女は父親と母親と交わした約束を守り通したのだ。
「連中が去り、隠れていた場所から這い出してみると……全てが無残な光景となって目の前に広がっていた」
そうして少女の目に映ったのは、変わり果てた父と母の姿だった。村には歴戦のつわものも、腕の立つ狩人も居た。敵も多く道連れになっていた。だが……村を護りきれなかったのだ。
地獄のような光景の中、リーファは独りで村中の弔いを済ませ、隠れ場所で聞いて耳に残っていた襲撃者たちの次の目的地――トット族の集落へ向かったのである。
「悔しかった……悲しかった……」
リーファはうつむいたまま語り終えた。
強く握られた小さなこぶしの上に、ポタポタと涙が水滴となって落ちる。ずっと村でも、そうやって声を殺し、静かに泣いてきたのだろう。物心つく前から、ずっと。
「……リーファ」
ティアヌは、少女の頭を自分の胸に引き寄せた。他に慰め方を知らなかったのだ。おそらく村では、大声で泣くこともできなかったはずだ。
「もう、泣いてもいいんですよ、思いっきり。リーファは頑張っています。今も、今までもずっと」
「……我慢しろって言われ続けていたんだ。ずっと、ずっと……もうすぐ全てが上手くいくから我慢してねって。もう……我慢、しなくていいの……?」
「ええ。もう、我慢しなくていいです。リーファはリーファです。どうかあなたの心に素直でいてください」
ティアヌは微笑みながらリーファの琥珀色の瞳をじっと見つめた。「ね?」と首を傾げるようにして。
真っ赤になった少女の目から、新たな涙があふれる。目の前に差し出された優しい胸にしがみつくようにして、物心ついてからはじめて大声で泣いたのだった。
「テロン」
ルシカが『万色の杖』を持っていないほうの手で傍らの金髪の青年の腕に触れ、彼の注意を促した。細い指先で、大通りの反対側の一点を指し示す。
「あれって、クルーガーじゃないかしら」
夕暮れが近づいていた。商店や酒場が立ち並び、夕刻からは都市ミディアルで一番の賑わいを見せる広い公道の反対側に、知り過ぎるほどによく知っている背の高い後姿があった。
テロンとルシカは図書館の別館になっている魔導研究棟で、『破滅の剣』の在りかを調べた帰りである。
『神の召喚』の魔法が発動可能になるタイミングについては、連絡のついた王都の図書館棟の文官たちが今も調べ続けている。明日には出掛けていたヴァンドーナも戻るというので、そのときには必ず答えが聞けるだろうということだった。
図書館での調べものが予定より手間取ってしまい、テロンとルシカは急ぎ足で宿に向かっていたわけだが――。
テロンは片眉を上げ、ルシカが示した人物を見た。見間違いようもない、見慣れすぎるほどに見慣れた後姿は、双子の兄のものだ。クルーガーが三人の男たちと何やら揉めているらしいことが見て取れる。騒ぎの中心には、呆れたような表情で腕組みをして立つ女性の姿もあった。
「クルーガー、何をやっているのかな……大丈夫かしら」
ルシカの声には僅かな不安が滲んでいる。相手は冒険者ではなく、酒に酔った街のごろつきのようだ。腕っぷしで負ける兄ではないが、身分を隠したまま面倒に巻き込まれると厄介なことになる。
テロンはすぐに歩き出した。
「行こう」
テロンやルシカに心配されるまでもなく、クルーガー自身も好きで騒ぎに首を突っ込んだわけではなかった。
喜んで揉め事に突っ込んでいく困った連中は、世の中にいるものだ。相手にしている三人の男のうちのひとりは、そんな困った輩であるらしく、やたらとクルーガーに絡んでくる。
宿を出たあと、クルーガーはひとりで街を歩いていた。旅に必要な品や保存食などを買い揃え、さて宿に戻ろうかと思ったとき、三人の男たちに囲まれているひとりの女性を見掛けたのだ。
燃えるような赤毛を肩上で切りそろえ、動きやすそうな皮鎧に身を包んだ、クルーガーと同年齢ほどの若い人間族の女性である。背は高く、翠色の瞳をしたなかなかの美女だ。つややかな肌は若々しく、細身ながらもあでやかな腰の線。冒険者稼業に身を置く戦士なのか、腰には実用本位の幅広の剣を吊っている。
「いいじゃねぇか、どうせ暇なんだろぉ。ちっと付き合えよ」
男のひとりが、ニタニタと嫌な感じの笑みを顔に張りつけ、赤毛の女性に顔を近づけていた。
「うるさいねぇ。こっちは忙しいんだ、あっちへ行きな」
その女性は背後の壁に背を預けて腕を組んだまま、怯えることなく言葉を返した。男の酒臭い息を不快に思っているのだろう、流麗な眉を跳ね上げている。ひどく迷惑そうだ。
「あぁん? つれねぇ口をきくんじゃねぇよ。そんなんじゃ、まともな男が寄りつかねぇぜ?」
夕刻前から酒でも飲んだのか、いい気分であるらしい男たちは笑っているばかりで引き下がろうともしない。
「そうらしいね。現に今も、ろくでもない男に寄りつかれてる」
不敵に微笑みながら言い返した女性の言葉に、男のひとりが顔を赤く染めて怒鳴った。
「な、なんだとぉ!」
「フン。女ひとりに、三人も居なきゃ声がかけられないなんざ、まともな男じゃないさ」
「こ、この女あぁッ!!」
男のひとりが逆上して、赤毛の女性に掴みかかった。女性の右手が、サッと剣の柄にのびる。
だが剣が抜き払われるより早く、両者の間に割って入った影があった。逆上した男の手は女性に届く前にパンッと小気味よい音を立てて払い除けられ、体勢を崩した男が傍の壁に衝突しかける。
「――ひとりの女性に、大の男が三人も寄ってたかってというのは、さすがに見過ごせないな」
クルーガーは男の手を払った腕もそのままに、夕空に翳る青い目で静かに男たちを睨みつけた。
「なんだァ? 色男は引っ込んでな」
後方にいた男がニヤニヤ笑いながら、クルーガーの顔から足先までを一瞥して顎を突き出した。
すらりとした体格、端正な顔立ち。クルーガーは優男に見られても無理のない容姿をしている。だが、剣技によって鍛え上げられた鋼のごとき筋肉、背丈も肩幅もそれに見合ったものなのだ。外套と鎧の下に隠されているだけである。
「そうもいかんな」
涼しげな目もとを変えることなく、クルーガーは薄く笑った。
「こりゃあ、おもしれぇ。俺たちとやりあおうってか!」
後方のもうひとりが、耳障りな笑い声をあげた。立て続けに、周囲の酔った男たちから下卑た野次があがる。
「ほれ、ケガしねぇうちに帰るんだな」
「そうはいかねえ。俺のプライドが許さねぇんだよ!」
手を払われた男が唸るように叫んだ。叫ぶと同時に素手でクルーガーの顎に向けて殴りかかる。
クルーガーはスッと体を傾けた。それだけの動きで易々と男の拳をかわし、同時にサッと出した自身の足で男の軸足を払った。
男が地面に顔から突っ込んだ。つぶれたような悲鳴があがる。
「おまえに、プライドがあるとは思えぬがな」
クルーガーは目を細め、男を見下ろしながら言った。
後方に立っていた男ふたりが前に出る。クルーガーの胸を狙って繰り出された拳は、開いた手のひらで簡単に受け止められた。
クルーガーは視線を逸らしもしなかった。続いて振りあげられた足を避けると同時に掴み、ぐいと引き上げた。蹴ってきた男のほうはそのまま後ろに倒れ、背中を強かに打ちつけてしまう。
クルーガーは立っていた位置をほとんど変えていない。そのことに気づいた男たちの顔に敗北の色が広がる。
「クッ……おぼえてろ!」
「迷惑な奴らが居るもんだなァ」
お決まりの台詞を吐いて逃げていった男たちに向け、呆れたようにクルーガーがつぶやく。咳払いをひとつして、赤毛の女性に顔を向けた。
「怪我はなかったかい?」
「どうもありがとう。助けたくれた礼は言うけどね」
目の前で起こった騒動に顔色ひとつ変えず、腕を組んだまま壁に背を預けていた赤毛の女性は、ようやく壁から背を離した。挑むような微笑をクルーガーに向けて口を開く。
「あんな奴ら、あたしひとりで十分だったよ。それにこの街では――」
女性の視線が鋭さを増し、一瞬、クルーガーの背後に向けられる。
「ハッ!」
短い掛け声とともに、女性の見事な腿が撥ね上がる。目の前に立つクルーガーに向けてではない。彼の背後に忍び寄ろうとしていた男の顎を強かに蹴り上げたのだ。
男はものも言わず、腕を振り上げたまま後ろに引っくり返った。石畳にガツンと痛そうな音が響く。
「――背後にも、気をつけなきゃね。敵は、正面から堂々とは限らないわよ」
赤毛の女性は何事もなかったかのように脚を下ろし、言葉を続けた。
「ち、ちきしょう!」
男たちは引っくり返った仲間を引きずるようにして、今度こそ逃げていった。
「なるほど、手助けは要らなかったかもしれないな」
クルーガーは目の前の女戦士の実力を認めた。流れるような動きと、脚を跳ね上げても全く崩れなかった全身のバランスの良さを見ればわかる。
「でもまあ、好意は受けても損にはならないさ」
赤毛の女性は面白がっているような視線でクルーガーを見つめた。暗くなり、代わりに灯された街灯に、翠の瞳の虹彩が煌めく。やがて「ふうん」と鼻を鳴らし、にこりと笑うと、そのままくるりと背を向けた。
「あなたの腕もなかなかのものだわ。育ちの良さそうな貴公子さん」
しなやかな片腕をあげて、女性はスタスタと歩いて行ってしまった。
「兄貴」
虚をつかれたような表情で女性の背を見送っていたクルーガーの背後から、聞き慣れた声が掛けられた。
「知り合いのひと?」
テロンとルシカだ。クルーガーは女性の消えた人混みに視線を向けていたが、やがて大きな溜息をついてふたりを振り返った。
「何でもない。……遅くなったな、戻ろうか」
「『破滅の剣』は、デイアロスにあるわ」
ルシカが口にした名前に、クルーガー、ティアヌ、リーファが一斉に首を捻った。ミディアル周辺はおろか、この大陸に存在する都市や集落の名前ではなかったからだ。
テロンは腕を組んで目を閉じ、自身の記憶を探った。ルシカと行動するようになり、彼の知識は相当に増えている。古代王国の文献が新たに解読されるたび、彼女は嬉しそうにテロン相手にいろいろな話をしてくれるからだ。彼女から聞き知った古代遺跡に、そのような名前の場所があったのだ。
幼少からの環境のせいもあって、ルシカの魔導と魔法、歴史の知識は、常人には計り知れないほどの幅と深さがある。閉鎖された環境だったから、一般的な常識には疎いところも少なからずあったが。
いつだったか、不思議でロマンチックだとルシカが興味深そうに語っていた都市の名――。
「神秘の景観を持つ古代都市、『湖底都市』デイアロスか」
テロンの言葉に、ルシカはその通りだと微笑みながら頷いた。




