9章 過去と今をつなぐもの 7-25
類稀なる魔導の技によって織り成された虹色の魔力は、幻精界の全土を覆いつくしていた。
見る影もなく変容していた光景を、本来在るべき姿へと戻し導いてゆく――。
凍土と化していた水の領域では、氷の柱となった大樹のすべてが一斉に崩れ落ちた。蒸気と化して白い雪砂が消え失せたあとに、しっとりと濡れたやわらかな大地が現れる。
水の流れが形成され、滝は巨大な水音を轟かせながら瀑布となり、大気は潤いに満ちた。大地に新たな樹々が次々と芽吹きはじめる。そこかしこで生まれた小さな緑は現生界ではありえぬほどの勢いで成長し、大樹となり、虹の架かる空へ向け枝葉を伸ばしていった。
常闇に浸されていた礫岩の大地にも生命力あふれる双葉が次々と現れ、吹き渡る春風のごとく急速に広がっていた。草花のたゆたう生き生きとした萌黄色の海がよみがえる。
障壁となっていた隙間のない緑の領域にも清々しい風が吹き込み、巻き絡まっていた茨や蔓がリボンの解ける光景さながらに森を拓いてゆく。
餓えに耐え切れず倒れていた幻獣たちは立ち上がり、あるいは地下の巣穴から這い出してきて、満たされた穏やかな眼差しを向けていた――虹色の光が収束する幻精界の中心の地、アウラセンタリアへ。
その方向には、どれほどに距離を隔てていてもなおそれと見極められるほどに眩い、白の輝きが燦然と煌めいていた。
光というものは集められるほどに限りなく白へと近づいてゆく。さまざまな種類の魔力で成り立つ生命そのものが強大な力を具現化させるとき、白の光を放つ所以である。
類稀なき魔導によって織り成された虹の光源は、そのように輝いているのであった。
トルテはゆっくりと目を開いた。
焦点が定まらず、色のついた影が動いていると判別できるだけの、ひどくぼやけた視界……全身の力が全部どこかへ流れ出てしまったみたいに、膝も首も、手足すらも、思うようには動いてくれなかった。
圧し掛かるような疲労感と痺れのあまり、ぐったりと目蓋を再び閉じかけたとき……「トルテ」と強く呼ばれたような気がした。
懇願のように、大切なものを呼び戻そうとしているかのように、必死に何度も繰り返される呼び声――。
トルテは沈みゆく意識に抗い、もう一度目を開いた。はっきりとしない視界のなか、声の主を求めて瞳に力を篭める。
やわらかな白い輝きに周囲を満たされている気がする。あたたかく大きな手が、頬に添えられているのを感じる。力強い腕が、しっかりと肩を抱き支えてくれていた。その感触は心地よく、トルテに安心感をあたえている。
「りゅ……な?」
徐々にはっきりとしてきた視界のなか、ようやく相手の顔が見えた。深海色の瞳をした目をいっぱいに見開き、揺れる眼差しで彼女を必死に覗き込んでいる幼なじみの青年の顔が。
「――トルテ! どこか痛いか? 大丈夫か?」
急き込んだように訊ねてくるリューナに応えようと、トルテは口を開いた。
「よかっ……無事……で。それとも一緒に……冥界まで来ちゃ……たりします?」
「ばーか、なに、言ってんだよ! 寝ぼけてんじゃねぇぞ」
威勢の良い言葉とは裏腹に、黒髪の青年は顔をくしゃりと歪めた。トルテの額に自らの額を押し当てる。まるで今の表情を見られたくないとでもいうかのようにうつむき、そのまま少女の体を力いっぱいに抱きしめた。
「あ……リューナ?」
「ホントに死んじまったかと思っちまっただろ! すっげえ魔導を使って、そのまま意識失くしちまうんだから……!」
幼なじみの青年の肩は、震えていた。
苦しくなるほどにぎゅっと抱きしめられ、意識が薄れるまでの記憶をたどり、トルテはようやく思い至った――あまりに大規模な魔導の技を行使したため、トルテ自身の体内にあった魔力を一気に放出してしまったのだ。リューナの心配の度合いからして、まさに生命の危機に陥るぎりぎりの状態だったのだろう。
「そっか、あたし……」
つぶやくトルテの脳裏に、強大な魔導を行使したあとの母ルシカの姿が思い起こされた。いつもいつも生命維持の限界まで自身の魔力を酷使してきた母が、魔導を遣ったあとどのような状態にあったのかを体感したことで理解し、トルテはゆっくりと息を吐いた。
「ルシカかあさまは、いつもこんな感じだったのですね。……心配させてしまってごめんなさい、リューナ」
「まったくだぜ! 心配かけやがって」
リューナは微かに鼻を鳴らし、ますますトルテを強く抱きしめた。
「……よくおまえの親父は耐えられるなぁって、思っちまっただろ……」
耳の傍で、彼の小さな小さな声が聞こえた。
トルテは目を閉じ、頷いた。母が倒れるときにいつも駆け寄り、抱きとめていた父の姿を思い出す。腕のなかで母が再び目を開いたときの父の安堵の表情は、見ているこちらが胸を衝かれるほどだ。まさか自分がリューナにそんな思いをさせてしまったとは。
「でもよかった。おまえが無事なら、それでいい」
リューナはようやく落ち着いた声になって静かに言うと、腕の力を緩め、微笑みながらトルテの顔を間近に見つめた。
大切なものをいとおしげに撫でるように、そっとトルテの頬に触れる。深海色の瞳には、トルテ自身の顔が映りこんでいる。
「リューナ……」
リューナの顔がどんどん近づいてくるのに気づき、トルテは自分の頬が熱くなるのを感じた。訪れるであろうやわらかな衝撃を予感して、唇が自然に開く。
ふたりのそれが重なる瞬間――。
「おねえちゃんっ! よかったぁー」
ギクリと硬直したふたりに、ズドンと小さな衝撃が突き当たった。なにやらグルルと不平そうに鼻を鳴らす音とともに、軽いとはいえない重みがズシリと圧し掛かる。荒々しい鼻息とバサバサと動く翅は、主にリューナの背の上にあったが。
「ピュルティ!」
「ナルちゃん! ピュイ、スマイリーも!」
「あぁあっ、もう重てぇったら! おまえらジャマしやがって! どけよっ」
リューナが抗議の声をあげたが、腕の中のトルテの嬉しそうな笑顔を目にして、むっすりと押し黙る。『月狼王』のでっかい鼻面と古代龍のジャマな腹を片腕で押し退け、もう一度少女に向き直ったが……そのときすでにトルテは自分の脚で立ち上がり、幼女と笑顔で向き合っていた。
「無事だったのですね。本当に良かった、嬉しいです」
「うんっ。狼さんと一緒にいたし、でっかい蛇さんの攻撃からは青い目のひとが助けてくれたし、リューナおにいちゃんに言われてずっと離れたところにいたからねっ」
ナルニエは透き通った水宝玉色の瞳をキラキラさせて、白銀の髪を弾ませ、無邪気に言葉を続けた。
「でも、あちこち崩れるし見えなくなるし、あせっちゃった。けどもうだいじょうぶだよ。ねぇ、あのひとたちって、おねえちゃんの知り合いなんでしょ? 家族?」
「え?」
「あんましおしゃべりする時間もなかったけど、ナル見てて思った。トルテおねえちゃんのきれいな目の色って、女のひとのほうにそっくりだし、髪は青い目のひとのほうによく似てるもん」
「そっ、そっかな」
嬉しそうに赤くなったトルテの顔から、すぐに血の気が引いた。真っ青になってリューナの胸にしがみつく。
「リューナ! ……ルシカかあさまは? とうさまは無事なのですか!」
「それが……」
リューナは言いよどんだ。
「わかんねぇ、世界がすっかり変わっちまったんだ。気配を感じるような気はするんだけど――ほら、落ち着いて自分で周りを見てみろよ、トルテ」
まばゆく光り輝いている周囲に目を向け、明るさに慣らそうと目を狭め……トルテはようやく自分たちのいる場所を理解した。
まず視界に入ったのは、周囲をぐるりと囲うように頭上までそそり立っている、巨大な建造物群の光景であった。
凄まじいほどの規模だ。多結晶体のように複雑な輝きを放つ荘厳な建造物が幾百も、ドーナツ状にいま居る場所を取り囲んでいるのが見渡せる。それらが然るべき位置に配され、全体でひと綴りの宝飾品のように美しい眺めであった。
まるで台風の目の中心に立ち、周囲の雲の壁を内側から眺めているような壮大さだ。都市のあちこちにある尖塔部分は、そのひとつひとつが霊峰フルワムンデの威容を思い起こさせるほどの規模であった。
しかも驚くべきことに、都市そのものが光り輝いているのだ。建物ひとつひとつから滔々と流れ出づる光は、太陽を思わせるほどに強いものであったが、魔導の瞳を焼くほどではない。それどころか、体や心の苦痛を癒し、欠けたところを満たしてくれるような恵みの力を感じる。
その優しく尊い光を放出している外壁全体に、びっしりと複雑かつ優美な文様が刻まれているのが遠目にも感じられた。全体がひとつの巨大な魔法陣のようでもあり、同時にそれぞれが違う意味をもつ膨大な数の魔法陣であるようにも思われた。
「すごいわ……なんという建物の数なの。それにまるで……まるで、『千年王宮』がたくさん集まってるみたいに、守護や癒し、環境維持……凄い数の魔法が見えます」
「さっきまで霧みたいなのが凄かったんだぜ。いつの間にか晴れてる……確かに、王宮の魔法技術にクリソツだな」
改めて周囲を眺め渡し、リューナも目を見張っている。
「ルシカかあさまが言ってたわ。『千年王宮』は、幻精界の住人であった『夢見る彷徨人』のひとたちが造ったのだと。だから同じ技術が使われていても不思議ではないのかもしれませんけど……」
都市の中央は巨大な空間になっている。トルテたちが居るのはそこに配された水晶の回廊であるらしい。回廊もまた、中心にあるものをぐるりと取り囲んでいるのだ。
すべての中心にあるのは、光り輝く色つきの渦が螺旋のように天空を貫いている、凄まじい大きさの『柱』だ。都市は、その周囲をぐるりと取り囲んでいるのだった。
いや、『柱』と形容するのはあまりに見当違いな表現なのかもしれない。『それ』はひとつの領域であり、超常的な空間であるのだから。
「これが……本来のアウラセンタリア」
トルテは口のなかで呆然とつぶやき、魔力そのものが輝きを有した風のごとく噴き出し、緩やかに周囲を巡っている脅威的な光景を眺め渡した。
甘くしっとりとした濃密な大気――危険な気配は感じられない。霞か霧のような乳白色のもやが、周囲をゆるやかに流れている。まるで、この聖地めいた場所を守っているかのように神秘的で、周囲の都市も合わせると雲海に没した天空の城のごとく壮観で美しい眺めであった。
「すっげぇ……。トルテ、下も見てみろよ。この床、透明に近いだろ。下は真っ黒だけど、地面じゃないぜ。それにこの床、空間そのものに固定されてるみたいだ。どこにも支えがないのに、こうして宙に浮いてる」
「何もかもが、あたしたちの世界では考えられないことばかりですね」
トルテは畏れにも似た感嘆のため息をついた。吸い込まれてしまいそうなほどに脅威的な光景から視線を引き剥がし、リューナと顔を見合わせる。
「すっごいねぇ。深さ、どこまであるんだろ?」
「ピューイ」
ナルニエとピュイが、床にぺたんと両手をつけて下を覗き込んでいる。
「ねぇ、おねえちゃん。あそこ真っ暗なのに、明るいね」
「ナルちゃんの言いたいこと、わかります。闇なのに、輝きに満ち溢れているというか……」
「確かに、なんかすっげぇ力を感じるよな。上の光っている領域みたいに。下はもしかして、闇の領域だったりしてさ」
リューナとトルテも床にしゃがみ込み、遥か下に広がる闇の空間を眺め渡した。
距離感などまるで掴めない漆黒の闇は、見つめていると呑み込まれてしまいそうなほどに何もない空間に思えたが、トルテはその奥底に、堂々たる宮殿の姿を見たような気がした。
「リューナ、あそこはやはり、ラウミエールさんの――」
「その通りです。下は『影の都』ランティエ、上は『光の都』トゥーリエ。双つの都は対であり、ふたつでひとつともいえまする。片方なくしてはもう片方も存在できず、双方があってはじめてこの幻精界を平らかに、安寧のうちに存続させることができるのです」
涼やかな声がして、織り編まれた金紗が陽光に揺らめくごとく、光がひとの姿を成した。トルテとリューナからそれほど離れていない場所だ。
「双つの都は天と地に在り、幻精界の要たるアウラセンタリアに繋ぎ留められていると同時に、全土に存在しているといえます。世界を巡ることで暖かな昼光の恵みと夜闇の憩いの刻を与えながら、我らはすべてを見守ってきました。『白き闇の都』を箱船に、そなたらの次元を旅していたこともありまする」
現れたのは、ほっそりと背が高く、ひとには有り得ぬほどに整った姿かたちをした女性である。月の光を思わせる輝きを放つ豊かな髪、向こうが透けて見えるのではと思うほどに白い肌、落ち着いた印象の水宝玉色の瞳――トルテは思わず、自分たちにしがみついていた幼女、ナルニエに眼を向けた。
幻精界の住人であるという仲間の幼女は、水色の光に透ける瞳で、驚いたようにその人物を見つめている。
超然たる美貌の人物は、金紗の襞を重ねた衣を揺らめかせながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。優美な動きと身体の線からして、遥かに歳上の成熟した女性のように思われた。少しも臆するところのない、堂々とした所作――。
リューナが一歩、トルテやナルニエの前に進み出る。
「誰だ、あんた。この世界の住人なのか?」
物事が見掛け通りでないことを、彼は知っている。両足を開き、腰を沈めている。腕はいつでも剣を繰り出せるよう、隅々にまで力が篭められている。
だがトルテは、彼の腕にそっと手をかけ、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「待ってくださいリューナ。だいじょうぶみたいです」
自分たちの背後に控えている上位幻獣『月狼王』は、警戒もしていない。スマイリーの感覚を通じて、その人物が同じ幻精界の住人であることがわかる。
トルテがリューナの腕をそっと掴み、彼の顔を見上げると、戸惑ったような視線とぶつかった。けれどリューナはすぐに納得したように頷き、ふたりは揃って近づいてくる人物に向き直った。
「その身に纏っている雰囲気、あなたはもしかして、光の領域のかたではありませんか?」
「そう、光の領域の統治者であり、『光の都』トゥーリエと存在を同じくするもの。わらわの名はファリエトーラ。まずはあなたがたに、多大なる感謝を述べねばなりませぬ。世界を在るべき姿に戻してくれたこと、そしてわらわの大切な者をここまで連れてきてくれたのですから」
「大切な者?」
トルテが聞き返したとき、腰の後ろのあたりから小さな声が響いた。
「おか……、さん? おかあさん!」
ナルニエだ。幼女は逡巡することなく駆け出した。蒲公英色をしたワンピースの裾をひらめかせ、若緑色の糸で織られたケープの頭巾が元気に弾むほどの勢いで。
「お、おい! ナル?」
驚いたリューナの声があがる。伸ばされた腕は届かず、ナルニエはまっしぐらに女性のもとへ走っていった。
小さな体が飛び込んでくるのを、女性は身をかがめて受け止めた。衝撃でふたりの髪がさらりと揺れてひとつに合わさる。微笑みあった瞳の色さえも、同じものであるかのような印象を受ける。
トルテとリューナは互いの顔を見合わせた。
「ナルの、かあさんだって?」
「さっきから思っていたのですけれど、ふたりはとてもよく似ていますよね。種族特有の、という共通点でなければ、ナルちゃんのおかあさんで間違いなさそうですよ、リューナ」
囁きあっていたふたりの会話が届いたのであろう、娘の髪を撫でていた女性が顔を上げた。トルテを見て、ゆっくりと微笑む。頭上からの光がさらに明るくなったような気がした。
「そう、この子は現生界へわらわが残してきてしまった真実の愛の証、そして未来への大いなる希望。緩慢な停滞の時間を永遠に歩まねばならぬわらわたちにとって、未来へと進むための大いなる希望と可能性の象徴だったのです。けれどこちらの世界の危機を知らされたときに連れて還ることもできず、残された者たちへの別れも満足に伝えることができなかった……」
「おかあさんは悪くない。だってそうでしょ? 生き残っていたみんなはそう考えてたよ。魔力が足りなくなって、たくさんの時間が経って、みんな拡散してしまっても、誰も恨んでなんかいなかった。ナルだってひとりぼっちになっちゃっても、きっといつかなんとかなるって信じてたもん」
大きな瞳をさらに見開き、ナルニエが一生懸命に訴えた。ファリエトーラは愛おしげに我が子を抱きしめ、言葉を続けた。
「未来を夢見たことで、わらわたちは多くの犠牲を払いました。都は、その統治者たる存在と常にともに在らねばならなかったのです。ラウミエールに諭されるまで、それに気づくことができなかった。その結果、幻精界の住人たちの存続を脅かし、結果として現生界に大切な者たちを置き去りにすることになったのです」
「闇の領域の統治者ラウミエールさんが仰っていた、黄金の――。ううん、いまはそれより、母と父がどうなったのか、無事で居るのかが知りたいんです。この世界が元通りになったのでしたら、いったいどこに……」
「落ち着けトルテ。このひとに、トルテのとうさんとかあさんって言ったって、通じるわけないだろ。――俺たち以外に、一緒に戦っていた者がふたり居るんだ。どうなったのか教えてくれないか」
「暁の魔導士と青い瞳の護りびとは、無事ですよ」
光の領域の統治者たる女性は、リューナの言葉が終わる前にはっきりと答えた。
「え、でもどうし――」
「そなたのほうがわらわのことを憶えていないのは無理からぬこと。しかし、わらわのほうはそなたをよく知っています。それから、そなたの母と父のことも。心配は要りませぬ――我らの友人は無事です」
ファリエトーラは、娘であるナルニエの手を握って微笑みかけたあと、すっと背筋を伸ばして立ち上がった。優美な腕を持ち上げ、離れた場所を指し示す。
「アウラセンタリアの中心を御覧なさい」
「えっ」
その動きにつられるように首を巡らせ、トルテたちは見た。
視線の先にあったアウラセンタリアの光の渦のなか――そこに、何かが動いている。目を狭めるようにしてそれが何であるのかを見極め、トルテは思わず自分の胸を押さえた。
背の高い人影が歩み出てくるところだった。腕に抱えられているのは、ほっそりとした小柄な影だ。やわらかそうな金の髪がアウラセンタリアの光を受け、吹き出してくる魔力の風に揺られてふわりと広がっている。
「お、おとうさま……おかあさま!」
トルテは思わず叫んだ。水晶の回廊とアウラセンタリアの中心とは、虚空の隔たりがある。だが、ファリエトーラが両の腕を広げるように動かすと、通路と柱との間に光り輝く床が現れた。
テロンはすぐに、待ち受けていたファリエトーラたちに気づいたようだ。互いに駆け走るようにして合流すると、テロンはすぐに膝を落として腕のなかのルシカの様子をファリエトーラに見せた。
「ルシカの意識が戻らないんだ。悪意を持つ邪悪な気配が、彼女の生命を脅かしているように思えてならない。――これを見てくれ」
テロンの手がルシカの細い首筋にかかっていたやわらかな金の髪を払いのけると、赤黒く変色した痣のような痕跡が現れた。
すべらかな頬は血の気をなくし、僅かに開かれたくちびるから洩れる微かな呼吸も、ひどく苦しげなものであった。
母ルシカの様子をひと目見た瞬間、トルテは自身の呼吸が止まるほどの衝撃を受けた。両手で口を覆うようにして悲鳴をこらえる。このままでは――母は助からない。
魔導士たちの目には、怖ろしい事実が見えていた。生命維持に必要な魔力の残存量も、すでに危険な領域に達していたのだ。それどころか、本来ひとつの流れとして全身を巡っているはずの魔力が、ふたつに分離しかかっているように感じられる。
「首の痕は、襲ってきた男にやられたものだ。だが彼女の体の内部に巣食うこの気配は……ハーデロスの力が関係しているのではないか」
妻の様子を見つめるテロンの顔も蒼白だ。彼は魔力という生命の流れを『気』として理解することができる。
「そのようです。神界に属する力は本来、希われたときを除き、他の世界に自ら好んで影響を与えようとはしませぬ。けれど暁の魔導士の生命そのものに影響を及ぼしているこの力は……このままでは呼吸が閉ざされ、鼓動は停止し、死すべき定めに縛られし現生界のものにとって死という名の終焉を迎えましょう。けれど……そうはさせませぬ」
ファリエトーラはテロンの前に膝をつき、手を伸ばした。関節の動きを感じさせぬほどの優美な動きであったが、腕先は微かに震えていた。
「わらわの力で、何とかしましょう」
細く繊細な指先が動き、魔導の技によって織り成された魔法陣にも似た光が現れた。ルシカの喉と胸の上に、不可思議な文字がびっしりと書き綴られた紋様が描き出される。
文字はフルワムンデ遺跡の入り口にあったもののように思われたが、魔法陣そのものは魔導の技とも思われた。だが、注意深く見ていると、魔導の技に似てはいるが、幻精界の魔法には独自の理があるようだ。
「首のアザが消えていく……助かりそうだな!」
見守っていたリューナの希望に満ちた声で、トルテははっと我に返った。
ルシカの苦悶の表情が穏やかなものに変わり、呼吸が落ち着いたものに変化していた。ぐったりと弛緩したように仰け反りかかった首を、テロンがしっかりと支える。首に刻まれていた血色の痣は、跡形もなく消え失せていた。
「助かったん……ですね」
トルテは安堵のあまり、光の床にぺたんと座り込んだ。傍らのリューナが慌ててトルテの肩を支える。
ルシカの頬に手を触れてあたたかな体温が戻っているのを確認したのだろう、ほっとしたようにテロンの緊迫していた表情が緩む。妻の顔に伏せるようにして細やかな体を抱きしめ、それから顔を上げてファリエトーラに感謝の眼差しを向けた。
「ありがとう。本当に、感謝の言葉もないくらいだ。それに君たちも……無事で良かった」
「いいえ、本当に……本当に助かってよかったです」
テロンに視線を向けられ、トルテははにかんだ。いまの自分が、彼の娘の未来の姿であるとは気づかれていないだろうことはわかっていたけれど、照れたように顔が熱くなるのは止められなかった。
父はファリエトーラと名乗る不思議な女性とすでに知り合いだったらしい。真剣な表情で、なにやら話をはじめてしまった。
トルテはリューナとともに少し下がり、傍らの青年に話しかけた。
「ねぇ、リューナ。これでルシカかあさまの運命は変えられたのでしょうか?」
「そうじゃないのか? さっきの魔法でいのちを脅かしていたものが消えたんだろ。でもなにかが引っかかる……そういえば、レヴィアタンはどうしたんだ? あのラムダとか言う奴は魔力の爆発に呑まれて消えちまったんだろうか」
リューナがそう言ったとき、父テロンと話をしていたファリエトーラが、ふたりを振り返った。水宝玉色の瞳に煌めいた光を見て、ふたりはごくりと唾を飲んだ。
これで終わりではありませぬ――そう告げられたように思われたからである。