8章 織り成された虹 7-24
「ルシカ……!」
テロンは歯を食い縛り、脇腹を押さえていた手を離した。血に染まったこぶしを握り締め、厳しい面持ちで眼下の光景に眼を向ける。
視界いっぱいに広がっているのは、濃縮され際限なく高められた魔力の発する溶岩のごとき紅蓮の光。広範囲に抜け落ちた大地の下には、覗き込んでいるだけで気が遠くなりそうなほどに眩い輝きが満たされている。まさに爆発寸前の噴火口を覗き込んでいるかのように、本能的な恐怖を覚えずにはおれぬほどの凄まじい光景だ。
だが、テロンにとって目を逸らすことのできぬ理由があった。彼の最愛の妻ルシカが捕らわれているのだ。
黒い甲冑に身を包んだ大男が、僅かに残った足場の先端に立ち、大地に開いた大穴へ向けて腕を突き出している。その腕先に揺れているのは、他でもないルシカだ。男の手に喉を絞められ、縊り殺されそうになりながらも必死で爆発寸前の魔力の渦を押さえ込んでいる。
手を離されればルシカは渦に呑まれてしまい、制御を失った魔力が全てを破壊するだろう。だが、このままではルシカの生命を絶たれてしまう。結果は同じだ。
「ちっくしょうッ! こうもレヴィアタンが暴れてちゃ、ここいら全部が崩れちまうぜ!」
リューナの苛立たしげな声が聞こえ、彼の気配が傍らに戻ってきた。魔導と剣で戦う青年は、次々と崩落してゆく結晶の壁の下敷きになりかけていた仲間の幼女と子龍を、安全な場所まで移動させていたのだ。
合流した彼らに向けられたレヴィアタンの攻撃を咄嗟に受け止めたテロンは、あまりの衝撃の凄まじさに爆ぜ割れた結晶壁に埋め込まれ、脇腹に裂傷を負っていた。流血は止まらない。だが、致命傷ではない。今はとにかく、そんな瑣末なことに構ってはいられなかった。
「うわっ、そ、その傷――」
テロンの腹の傷に気づいたのだろう、リューナが声をあげかけた。だが、すぐにテロンの表情と視線の先に気づき、口を閉ざしたようだ。
レヴィアタンはこの瞬間にも暴れ続けている。時折狙いすませた鉄槌のような攻撃が降りかかってくるので、油断していると命を失う羽目になる。
周囲の気配に警戒しつつも眼下の状況を見つめるテロンの視界に、大きな影が割り込んでくる。次々に崩落してゆく結晶の床で足場を失った『月狼王』が、彼らの立っている場所へ向けて跳躍してきたのだ。
「リューナ! かあさまが……かあさまがっ!」
背に乗った少女が泣きながら何かを叫んでいるが、もうテロンの耳には届かなかった。それほどまでに集中していたのだ。テロンは奥歯を噛みしめ、目を鋭く狭めた。
「ここは頼む!」
叫ぶと同時にテロンは結晶の壁を蹴った。何もない空中へ一気に飛び出す。
「ちょっ、待ってくれ! 傷に『治癒』を――」
青年のあげた声が瞬時に遠ざかる。テロンは全身に纏った『聖光気』の輝きを強めた。
ルシカを救うためには一瞬の隙しかない――彗星のように落ちゆくテロンは『気』を練り上げていた。腕先に収束させ、渾身の力を籠めた『聖光弾』を撃ち出す。テロンが見極めた僅かな隙――満足げに嗤いながら、魔導士の首をへし折ってとどめを刺そうとするラムダの愉悦の瞬間に。
「これで全てが終わる。我は神々の抗争に終焉を齎すもの。思い上がりに相応しい終焉を、傀儡には消滅を。神も世界も、我もおまえも……全てが『無』へと消え去るのだ! しねぇぇぇぇぇぇッ!」
呪詛のような言葉と咆哮が、ふいに途切れる。ずどん! と腹の底にまで響く重々しい衝撃と光が、大男の横っ面を引っぱたいたのだ。悲鳴を上げる間もなく、次の瞬間には凄まじい速さで繰り出された蹴撃が大男の体躯を結晶の足場に激しく叩きつけていた。
ビシリ! 僅かに残っていた結晶の床がヒビを生じる。
テロンは男の腕からルシカの体を奪い返していた。血走った目に憤怒の炎をたぎらせながら追いすがるラムダの背を足場に、力いっぱいに跳躍する。まだ崩れていない対岸の足場に降り立ち、すぐに膝を落としてルシカの様子を確かめる。
「……ルシカ! ルシカ、無事か?」
ようやく腕の中に取り戻した愛妻の頬に手を添え、小さな顔を覗き込む。ルシカの頬は血の気を失い、肌はどきりとするほどに冷たくなっていた。細い首には締め上げてられていた痕が血色の痣となって刻まれている。呼吸は浅く、今にも途切れてしまいそうだ。
「ルシ――」
あまりの痛ましさに目を見開くテロンに向け、ルシカが震える目蓋を押し上げた。魔導の光が明滅する彼女の瞳に、心からの安堵のいろが浮かぶ。ひゅうひゅうと苦しそうな息を繰り返しながらも、ルシカは口を開いた。
「テロン……なんと……か、やってみ……るか、ら――」
立たせて。彼女はそう言っていた。ルシカの生命の灯火が消えかかっているのを感じ、刹那、テロンは深い苦悩に包まれた。一瞬の間にさまざまな感情が胸を突き上げる。悲しみ、苦しみ、愛、信頼、そして覚悟――テロンは口もとを引き結び、今にも倒れてしまいそうな彼女の細い体をしっかりと腕に抱き、立ち上がった。
魔導の準備動作ができるよう、ルシカの姿勢を整えてやる。
「俺が支える、君の思うままやってくれ」
姿勢を変えるとき、テロンとルシカの視線が交わった。互いの眼差しを映した瞳には、言葉はなくともそれぞれの想いが込められていた。
ルシカが瞳を微笑ませた。深い愛と揺るぎない決意、そして彼へ向けた感謝を湛えて。
『万色』の魔導士は決然と表情を引きしめ、意志の力で苦しげな呼吸を整えて穏やかなものにした。半ば閉ざした瞳のオレンジ色の虹彩に、恒星さながらの力強い輝きが数多現れる。
おもむろに眼を見開き、ルシカは腕を虚空へ向けて伸ばした。然るべき魔導の準備動作によって集中力を高め、事象を望むかたちに具現化させてゆくために。
かつては幻精界の全土へ向けて魔力を送り出していた恵みと繁栄の象徴、中心の地アウラセンタリア。いまはグツグツと煮え滾る溶岩だまりのごとく、爆発と破滅の兆しを内包して渦を巻く底なしの赤い海原のようだ。
「復活と安寧を――本来あるべき流れを取り戻し、世界に永久の恵みを!」
舞うかのごとき複雑な手指の動きとともに、ルシカの喉から力ある言葉『真言語』が発せられた。周囲の恐るべき光景に彼女の声が響き渡ると同時に、息を呑むほどに美しい魔法陣が空中に現れる。
駆け奔る魔導の光は金色の糸さながらに虚空を繋ぎ、事象の秘密を紡いでゆく。一字一句が魔法陣ともいわれる『真言語』が魔導の真理を書き連ねてゆくにつれ、空中に具現化された美しい魔法陣はその構造をさらに複雑なものにした。幾重にも重ねあわされ、織り成されてゆく。
テロンはゴクリと唾を呑んだ。
なんという大きさだ――今までにルシカが織り成した魔法陣のどれよりも巨大で、遥かに強大であった。魔法の理に疎いはずのテロンの感覚にも、尋常ではない魔導の形成する力場の凄まじさがびりびりと伝わってくる。
ついにルシカの魔法陣が完成した。まるで王都の三百年祭のとき、豪華絢爛な数瞬の夢の光景のごとく夜空いっぱいに咲き広がった花火のようだ。ただし魔法陣はすぐに消えてしまうことがない。支えなど何もない空中に固定され、堂々と輝き続けている。
「魔力の渦が……!」
破壊の兆しに膨れ上がりかけていたアウラセンタリアの色合いが変化していた。禍々しげな血色の輝きが、透き通ったオレンジ色に変わったのだ。中央から細く幾筋もの光の束が魔法陣の中心を貫いて空の高みを目指し、まるで逆向きに流れる滝のように立ち昇ってゆく。色はさらにオレンジから緑や青へと変化し、上空高い位置で放射状に分かたれ、様々な方向へと向かって流れはじめた。
ルシカの魔導の力が、幻精界の各場所へ向けて溜まっていた魔力を送り出しているのだ。
少しずつ、だが確実に、爆発寸前まで高められていた圧力が抜けていく。けれど危機は去っていない。まだ僅かも力を緩めることができぬほどに、アウラセンタリアは危険な状態になっていた。
魔導の技によって形成された、魔力の流れを制御する力場を支える魔法陣。その術者であるルシカの魔力と気力、そして体力がどこまでもつか……ルシカの細い体の震えと乱れる鼓動に、テロンは祈るような思いを込めて彼女を抱きしめ、支え続けた。
それでも徐々に終息してゆく――そう思えたのも束の間。ぐらぐらと大地が大きく揺れはじめた。
テロンは両脚に力を籠めてその場に踏みとどまり、状況を見定めようと素早く視線を巡らせた。レヴィアタンではない。先ほどまで暴れ続けていた始原の魔獣ですらも、今は圧倒的な光景と魔導の技に魅入られたかのように身動きを止めていたのだから。
「……う」
ルシカが苦しげな息を吐いた。魔導の輝きの宿る瞳の奥に、焦燥と絶望の影が掠め過ぎる。彼女を抱きしめているテロンの腕にも、びくりと撥ねる鼓動が伝わってきた。
「テロン……遅すぎ……かもしれな……わ。このままでは……間に合わな……」
テロンはルシカが言わんとしていることを瞬時に理解した。足もとの遥か下から、突き上げるような振動が伝わってくるのを感じたのだ。
「事態は刻々と変わる。大地の下から、幻精界を巡る魔力が噴き上がってきたからか」
草原に吹く風の強さに変化があるように、魔力の流れも常に一定というわけではない。ついに穴の開いたアウラセンタリアの圧力が抜けはじめた影響で、何処かで滞っていた流れが一気に押し寄せたのかもしれなかった。もしくは、どこか幻精界の要所が崩れ落ちたか――。
「……くぅ……う……!」
ルシカの息遣いが、さらに苦しいものに変わってゆく。身体の震えが大きくなり、瞳に灯っていた魔導の煌めきが徐々に失われてゆく。それでも瞳に力を篭め、必死で魔法陣を維持し続けようとしている。
「ルシカ……!」
魔導の力を持たぬテロンには、どうすることもできなかった。魔法の行使を中断させるわけにはいかない。ルシカの魔導が制御を失えば世界の全てが終わってしまう。ただ祈るように抱きしめ、支えることしかできない。
彼女の生命を脅かすほどの力を遣っても抑えきれぬほどの驚異が、世界の終焉が、眼前にあるというのに――。
幻精界の要たる『光の都』と『影の都』。
かつてその狭間に存在し、双つの都を繋いでいた幻精界の中心――アウラセンタリアの地が本来の在り様を変えられたことで、世界は確固たる繋がりを失っていた。
各属性領域はその位置を大きく違え、環境の激変によって壊滅的な打撃を受けている。天を巡りし『光の都』トゥーリエもアウラセンタリアという礎を失ったことで停滞し、地に墜ちたも同然の状態であった。
その中心たる『金色の宮殿』内の一室では――。
火がついたかのごとく激しく泣きはじめた赤児の様子に、世話を任されているイシェルドゥたちが不安と困惑の面持ちを見合わせていた。
「この泣きようは尋常ではありませぬ。しかし、お体に異常は見られませぬ」
「空腹は満たされているはず。いったいどうなされたのでしょう」
問われたエトワは顔を上げた。赤児の様子を見守り続けていた彼にも、突然の状態の変化の原因はわからなかった。傍らにいたイシェルドゥが、慄くように思念を震わせる。
「もしや……もしやとは思いますが。母君と父君の身に、何か……」
「暁の魔導士たちの身に? そのようなことが」
エトワは遠くアウラセンタリアの地があるはずの方向に眼を向けた。瞳に宿っている信頼の光は揺るぎないが、友たちのもとへすぐにでも駆けつけたいという焦燥があった。
「おそらくは本能的に母を求めているのでしょう」
黄金色の壁面を流れ落ちていた滝が割れ、数多の光の粒とともにファリエトーラが現れた。
「魔導の力は現生界の五種族が神々より賜った大いなる叡智。我らの魔法とは似て非なるもの。けれど魔導の干渉にて変化した魔力を読み解くことは我らにもできまする」
超然たる容貌を揺らめかせながら、光の領域の統治者は滔々とした輝きを宿す眼差しを周囲に巡らせた。その輝きにあふれた視線が、激しく波打つように泣き続ける嬰児に留まる。優美な唇をゆっくりと開き、彼女は静かに言葉を発した。
「我々の世界のみならず全ての世界に影響を与え得るほどに強大な魔導の力が、この幻精界全体へ向けて急速に広がりつつあります」
「強大な魔導の……力? 暁の魔導士のものでしょうか」
「いいえ、そうではありませぬ」
エトワの問いに、ファリエトーラは華奢な首をきっぱりと横に振った。
「では誰のものだと仰るのですか。まさか――!」
エトワにもその源がはっきりと感じとれるほどに、周囲の魔導の力がさらに強まった。純然たる魔力で成り立っている幻精界の住人である彼らが本能的な畏怖を感じるほどに。
光の領域の守護者だけは僅かも動じることなく、全てを理解しているかのような微笑みを浮かべたまま静かに立っていた。子を生したことのある母親のようにあたたかな目で赤児を見つめたあと、その視線を不安と焦燥を募らせる彼らに向け、ファリエトーラはゆっくりと言葉を続けた。
「彼の地とここと、双つの次元転移の力が共鳴するように互いを急速に強め合っています。すぐに幻精界そのものを呑み込むことでしょう。けれど懼れる必要はありませぬ。驟雨のあと空に架かる虹のごとく、在るべきかたちで円環は閉じられようとしているのですから」
「かあさまぁっ、とうさまあぁぁっ!!」
「よせトルテ! 落ちるぞッ!」
彼女の両親の立っている場所まで、彼らの位置からはかなりの高さがある。加えて、幻精界の中心に開いた大穴の対岸だ。
リューナは腕を伸ばし、衝動に駆られて飛び出しかけるトルテの腰を必死に抱き留めていた。両親のことが絡むと、いつでも冷静であるはずの幼なじみは、彼以上に周囲が見えなくなってしまう傾向にある。
「このままでは、かあさまの命がもちません! あの場所では、とうさまも一緒に呑み込まれてしまいます! リューナお願い、行かせてっ!」
「なんだって!?」
命が――? トルテの言葉に弾かれ、リューナは慌てて眼下の光景を見直した。魔導の瞳に意識を集中させると、今まで気づかなかった光景が見えてきた。
今さらながらに危機的な状況に気づき、ぞくりと背筋が冷たくなる。遥か下の奥深くから湧き上がってくる魔力の量は尋常ではない。いや、湧き上がってくるなんてものではない。爆発か噴火と形容できるほどの凄まじいエネルギーが噴出しかけている。
「ヤバすぎるだろ、これは――」
さすがのリューナも言葉を失ってしまう。
現状を把握すると同時に、リューナは計り知れぬほどの憤りと悔しさを感じ、目の前が真っ白になった。ますます剣呑な輝きに満ちてゆくなか、トルテの両親――ソサリア王国の護り手とも呼ばれた英雄ふたりの姿さえ、いまにも消し飛ばされそうなほどに儚い存在にみえる。
「チックショウ! なんでこんなことになっちまったんだよ! 俺にできることはないのか、何か……ないのか?」
落ち着け、落ち着くんだ――こみあがってくる苦いかたまりを飲み下し、リューナが周囲に眼を向けたそのとき。
「おのれらあぁぁぁぁッ!!」
凄まじい殺気! 腹の底から発せられた呪詛のような咆哮とともに、黒い影が襲い掛かってきた。ふたりの死角になっていた位置だ。危ういところで視界に捉え、素早く構えたリューナの剣がその重い一撃を振り払った。
凄まじい金属音が響き渡る。驚いたトルテの短い悲鳴がそれに重なった。
後方に突き戻され、足場の悪い斜面をさらに割り砕きながら、ぞわり、と黒い影が起き上がる。
ラムダだ。いまだ黒い重厚な鎧に身を包んでいるが、あちこちがへこんでいる。体力も限界に近いようだ。ぜいぜいと耳障りな呼吸を繰り返しながら、禍々しい輝きを放つ剣を足もとに突き立て、ふらつく体躯を支えている――ぶっ倒れる寸前の肉体を、気力だけで立たせているのだ。
「あんた、しつっこいぜ……!」
相手の状態はまるで敗残兵のような有様だったが、眼光は今も尋常ならざる輝きを宿し、噴き出す焔のごとく激しく燃え盛っていた。凄絶なまでの笑みに唇を引き攣らせ、血走った眼で彼らを――いや、リューナの背後にかばわれたトルテを凝視している。
「おまえら魔導士とやらは実にクソ忌々しいッ! 我が意志をこうまで何度も阻んでくるとは。かくなるうえは……」
血反吐を撒き散らすかのごとく、ラムダが吼える。たわめた全身の鋼のごとき筋肉に、力が篭もる。
「そいつを……小娘を寄越せえええぇぇぇぇぇッ!」
「ふざけんな! トルテはゼッテェに渡さねぇッ!」
凄まじい勢いで再び突進してきた大男の黒剣を力任せに弾き返し、リューナは強引に距離を開いた。背後の安全な位置にトルテを押し遣る。
「り、リューナ! そのひと普通じゃありませんっ」
「心配すんなトルテ、すぐに終わる!」
「またか……また我が前に立ちはだかる……黒髪の魔導使いがああぁぁぁッ!」
ギャリィィンッ! 耳障りな甲高い音ともに幾度目かの火花が散る。剣撃による衝撃波が、足もとや周囲の結晶壁を一瞬で塵芥に変えた。
破片が結晶の壁面を滑り落ちてゆく。不確かなものとなった足場に、ぐらり、とラムダが姿勢を崩す。
リューナはその隙を逃さなかった。
「うおおぉぉぉぉッ!」
自身の剣の角度を変え、身を沈めるように素早く一歩を踏み込む。勢い余った黒鎧の男がつんのめるように前進し、両者の立ち位置が入れ替わった瞬間。
バギイィィィンッ!! 先ほどまでの衝撃を遥かに上回る凄まじい衝撃波が吹き荒れ、雷鳴のごとき破壊音が周囲を圧する。リューナの一撃がラムダの背鎧を打ち砕いたのだ。同時に繰り出された魔導の輝きが爆発し、大男の体躯に直撃する。
ラムダは文字通り吹き飛び、爆ぜ割れた結晶の斜面を転がり落ちていった。突き出ていた結晶のひとつに激突する。ぐらぐらと揺れる首を持ち上げ、リューナとトルテの姿を凄まじい形相で睨み上げた。重厚な黒鎧は完全に割り砕かれ、筋肉の発達した上体が露わになっている。『電撃の矢』による裂傷と火傷によってかなりの損傷を受けているのが見て取れた。
「鎧で魔法的な攻撃を遮断し、自身は物理攻撃を受け付けない存在ってわけだ。実体があるくせに、反則だぜ」
そう言って目をすがめるリューナの剣は魔法の輝きを放っていなかった。魔法を放ったのは彼自身の手――一瞬で具現化された魔導の技である。
「地下牢での遣り取りで気づいたんだ。さぁ、どうする? その魔法傷、今度は大穴になるぜ!」
「この腹の傷跡のことか? よく見ろ、今の貴様の攻撃だけで受けた傷ではないわ! これは古傷――魔導への憎悪の消えぬ証、復讐を忘れぬ為の焼印なのだ」
「魔導……? 復讐だって? 魔導士に対して異様なまでの執着心といい、なにがあんたをそこまで追い詰めているんだ? 答えろッ!」
「ふ、ふ、おまえの知ったことではない」
ラムダは血の滲む唇を歪めて嗤い、次いで激しい嫌悪を顔に表した。
「黒髪をした魔導士はどいつもこいつも、あれこれ詮索するのが好みとみえる! おまえらのように要らぬことに首を突っ込みたがる輩と深く交わるから、この幻精界までもが薄気味悪い色に染まりゆくのだ。なにが友愛だ、変化だ……」
リューナは剣を構え、相手の動きに精神を集中させた。ラムダが片腕を背後に回し、腰に留めつけてあった長細いものを握り締めたからだ。
「要らぬ……要らぬ……いらぬ! この眼で世界の破滅を見届ける事が叶わずとも、『名無き神』の思い通りにはさせんぞおぉぉぉッ!」
叫ぶと同時に、ラムダが壁面になにかを突き立てた。
あの矢か! ――瞬時に見極めたリューナは、傍に立っていたトルテの体をかっさらうようにして跳躍した。
「きゃあああッ!」
トルテの悲鳴がリューナの耳を打つ。けれどそれよりも凄まじい轟音が空間を圧すると同時に、足もとが文字通り消し飛んでいた。
虚無そのもの、喪失の感触。黒い稲妻のように禍々しい閃光が虚空を切り裂く。あとには何も残らなかった。空虚な闇に変じたその場所は、『無の神』の領域に繋がっているのかもしれない。吐き気をもよおすほどに異質な気配が引き裂かれた虚空からじっとこちらを窺っている気がして、思わずリューナは腕のなかの大切な存在を抱きしめた。
そのとき、眼下で膨れ上がっていた魔力の渦がついに爆発した……!
目の前が一瞬で深紅に染まる。息することも叶わぬほどの圧力に全身が軋み、トルテは悲鳴をあげた。魔力の渦の爆発に呑まれたのだ。
もはや上に弾き飛ばされたのか下に落ちているのかすらわからない。母が、父がどうなってしまったのか、リューナやピュイ、ナルニエ、スマイリーは……? なにもかもが衝撃と喪失の渦に呑まれてしまい、取り返しのつかぬことになってしまったという思いがトルテの心をべっとりと塗りつぶしてゆく。
そんな……そんなのイヤ! 助けて、おかあさま、ルシカおかあさま!
類稀なる魔導の力を受け継いだ少女は、心の内で絶叫した。万能なる力と深遠なる知識を併せ持つ母は、少女にとって最高の憧れであり、拠り所であった。
少女は自覚していた。自分の意識の一番深い部分が魔導の先達である母ルシカを求めていることを。絶大なる信頼とともに、どんなに努力しても母と同じ高みまで到達できないという焦がれる想いがあることも。
まだ幼く経験が不足しているだけ――トルテはこれまでずっと、そう自分に言い聞かせてきた。けれどそうではなかった。この幻精界で出逢った若い頃の母は、すでに想像もつかぬほどの高みに到達していた……。
視覚や聴覚までも奪われたなかで、熱くて塩辛いしずくがトルテの両目にあふれる。たまらなくなって、少女は魔導の瞳を閉ざした。
どこかで同じ自分が泣いている。心の奥深くに沈みこんだ自分の幻影だろうか。こんなにも苦しいのだ、まぼろしに惑わされていまうのも無理からぬことかもしれない。いまにもぺしゃんこになってしまいそうなのだから……。
「トルテ!」
自分の名を呼ばれたような気がして、少女は重い目蓋をあげた。周囲は押しつぶされそうなほどに濃厚な魔力の気配に満たされている。名を呼んだ青年は、すぐ目の前にいた。彼自身も堪えがたい圧力に翻弄されているはずなのに、きっぱりと目を見開き、この上なく真剣な眼差しを真っ直ぐにトルテに向けていたのだ。
「トルテ、あきらめんなッ! まだみんな生きてる。周りを感じてみろ、あきらめちゃダメだ!」
「いき……て……る?」
トルテは目を瞬いた。自分を見つめ続けている深海色の瞳なかに、自分の泣き顔が映っている。もう一度青年に名を呼ばれたとき、トルテはふいに自分たちを取り巻く奇妙な気配に気づいた。
不思議な力を感じる。まるであたしが……もうひとりいるみたい……?
「おまえのことはゼッテェに護るから! 俺が、絶対に!」
大声で叫びながら、リューナがトルテをしっかりと自分の胸に抱きしめる。その青年っぽく荒々しい腕の温もりには、ひたすらにトルテの無事を願う気持ちと覚悟、そして言い尽くせぬほどの愛しさが感じられた。
どんなに絶望的な状況のなかでも、リューナの心は真っ直ぐだ。その力強さと温もりが少女の心に小さな灯を点けた。感覚が平らかに研ぎ澄まされ、精神が落ち着きを取り戻した。灯は希望となり、急速に大きく成長してゆく。
そう。いまならやれるかもしれない。さきほどから感じていた奇妙な気配がトルテの想いにぴたりと寄り添った。不思議な充足感に次いで浮上してきたのは、護りたい、一緒にいたい、みんな無事で生きていて欲しいという強い想いだ。
意思の力で事象のありようを決することができる、それが魔導――母の言葉が耳奥でこだまする。自分の力に限界を作らないで。限界を定めてしまったら、そこで終わりなの。可能性はいくらでもあるんだから――。
夕映えに照らされ澄み渡った泉のようなトルテの大きなオレンジ色の瞳に、煌めく無数の白い星が出現する。光あふれる魔導の輝きが、少女の周囲に出現した。
「みんなを護りたい、無事でいて欲しい」
――リューナがあたしを護ってくれるように。
「あたしはあたしにしかできないことがある、なんとかなるって信じています」
――母が微笑みながら教えてくれたように。どんなときもあきらめることのない父のように。
護る魔法。癒しの魔法。制御する魔法。移送の魔法。封じる魔法。どれを遣うか迷うのならば、ぜんぶぜんぶ遣ってしまえばいい。心残りが怖いならば、ぜんぶやっておけばいい。後悔だけは……したくない!
トルテはリューナの腕をそっとほどき、彼に向けて微笑んでみせた。リューナは驚いたように目を見張ったが、トルテの心の変化を正しく読み取ってくれたのだろう、すぐに笑って頷いてくれた――ニヤッとした口の端を引き上げる、トルテに安心を与えてくれるいつもの余裕げな笑顔で。
トルテは両腕を大きく広げた。踊るように軽快に、けれどこの上ない正確さで腕先を虚空へと滑らせ、複雑な印を次々とを刻み、魔導の理を紡いでゆく。圧迫感は消え去っていた。
「あたしの力は複合魔導――。ハイラプラスさん。全てをあるがままに受け入れる覚悟、あたしの為すべきこと。そのために必要な第一歩を、あたし、もう迷いませんッ!!」
組み上がってゆくのは、様々な色合いに光り輝く立体魔法陣だ。
複数の同時展開ではない。すべての魔法がひとつの強大な魔法陣のもとに融合されている。次元転移の力は、かつてトルテ本人が自覚できぬまま生命の危機に直面したときに魔導の力が発動させていたものだが、いまはトルテの意思により確固たる魔法陣として具現化されていた。
強大な魔導が周囲で荒れ狂っていた魔力を束ね、鎮めてゆく。
まるでトルテもうひとり分の魔導の力が集まったかのように、輝かしく純粋な力が彼女に寄り添っている。母ルシカの存在が魔導行使の核となり、類稀なる血を受け継いだ現在の少女と嬰児、ふたつの力が出逢ったのだ。
幻精界の中心たるアウラセンタリアから爆発的に噴き上がり、周囲を圧していた荒ぶる魔力のもつ血色の色彩が変化した。次元を超越した虹色の架け橋となって、魔導の力に導かれた魔力が幻精界を渡ってゆく。世界のほころびを正しく縫い合わせ、隅々までを満たし潤してゆくために。
世界は再生する。
けれどそのために母ルシカの運命が変わってしまったことに、彼らは気づいてはいなかった。ただひとり、ふたりを除いて。