1章 ソサリアの護り手たち 7-1
空高く昇った陽の光を浴びて白亜に輝くソサリアの『千年王宮』。その広く優美な王宮の最上階に並ぶ居室、そのひとつである王弟の寝室では――。
上掛けの擦れ合うささやかな音を聞き、テロンが目を覚ましていた。
彼の青い瞳は空の高い部分の色彩に近く、常日頃から穏やかな光を湛えている。夢から現実に戻って開かれたばかりであってもなお、その目に映し出される優しさに変わりはなかった。
彼は室内に満たされている陽光の眩しさに腕をかざし、その動きで隣に寄り添って眠る女性を起こしてしまったのではないかと心配になった。
そっと首を動かして顔を向けると、暖かな色彩の大きな瞳がゆっくりと瞬きをしながら彼を見つめているのに出会った。まるで昇ったばかりの太陽が地表を染めたときのようにあたたかく、澄み渡った美しいオレンジ色の瞳である。
「おはよう、ルシカ」
「おはよう、テロン」
ルシカがやわらかく微笑む。その唇はふっくらとして瑞々しく、なめらかな白磁の肌の中で好ましく目を惹いている。桜色に染まる頬から喉、肩へとかかる線は細くまろやかで、覆うもののない肌は光に溶けるように淡く輝いてみえた。
「起こしてしまったか、ルシカ」
「ううん。もう目は覚めていたの。まどろみながらずっと、あなたの寝顔を見ていたわ。あたしのほうこそ、起こしてしまったかもしれない、ごめんね」
「いや、そんなことはないさ。それにもうそろそろ、起きなければならない頃合だろうし」
テロンはゆっくりと周囲に視線を巡らせ、部屋に差し込む外からの光が織り成す影の傾き具合を確かめた。
掛け布団のやわらかな暗がりで絹のふれあうような音が耳に届いた。仰向いているテロンの上腕に、ゆったりとした心地よい重みがかかる。もう片方の手をそっとのばすと、ぬくもりをもつすべらかな肌に指が触れた。ふっくらと甘やかな丸みをなぞるように手のひらをすべらせるテロンの耳もとで、ルシカが微かな笑い声をたてた。
「うふ、くすぐったいわ、テロン」
「体が冷えているな、ルシカ。風邪をひいてしまいそうだ」
「だいじょうぶよ」
ルシカがいたずらっぽく微笑むと、やわらかな金の髪がひとすじ揺れ、すべらかな頬にかかった。
「ルシカのいう『大丈夫』だけは、心配だぞ」
テロンは微笑みを返しながら顔を寄せた。自分の額が彼女の額にコツンと当たる。そのまま頸を動かしてそっと愛妻の唇に口づけ、掛け布団を動かして彼女の肩を包み込んだ。そしてかばうように自分の腕を回し、細く小柄な体をそっと抱きしめる。
「ありがとう。あったかぁい」
ルシカは夫の逞しい胸に頬を寄せ、そのぬくもりに包まれて穏やかな息をついた。
テロンは腕の中のルシカの様子を確かめた。頬に赤みが差し、いきいきと快活そうに、健康そうにみえる。
昨夜遅くに外交の旅から戻ったばかりだったこともあり、今朝は陽が昇ったあとになってもゆっくりと休んでいたのだ。その甲斐があってよかった――すっかり回復したらしいルシカの笑顔に、テロンは安堵した。
魔法使いである彼女には、特別な休息が必要なのだ。このソサリア王宮になくてはならない一番の知恵者かつ宮廷魔導士であり、王弟であるテロンとともに王国を支え立つ護り手であった。
いにしえより続く血統を継ぎ、万能なる魔導の遣い手とされる『万色』の力持つ彼女は、この小さく華奢な体の内に、大陸において並ぶ者がないといわれるほどに凄まじい魔法の威力と可能性を有しているのだ。
だが同時に、魔力と呼ばれる生命の根源の消耗量も尋常ではなかった。ひとより遥かに濃く大量である魔力を生まれながらに持っていたとはいえ、彼女は仲間たちのために自身の生命の存続を脅かすほどに魔力を使い、死に瀕したことが過去に幾度もあった。
一度は本当に危ないところであり、彼女の祖父と、いにしえより伝えられていた魔法王国の宝物『万色の杖』によって落としかけた命を救われたこともある。仲間たちが世界を護るために必要な時間を稼ぎ、血路を開かんとして、彼女は生命そのものを犠牲にしようとしたのである。
彼女の優しさ、彼女の強さ。そして彼女の弱さ。そんな魔導士の少女の素顔をよく知り、なによりも大切に思い、この上もなく愛しているからこそ、テロンの心配は尽きないのであった。
「ルシカを心配する想いは、きっと皆同じなんだろう。兄貴もウルも、王宮の図書館棟の皆も仲間たちも。そして……」
テロンは腕の中のぬくもりと鼓動を感じながら思いを巡らせた。数週間前に出掛けていった娘トルテも、出発の直前までルシカの体調を気に掛けていたのだ。
そのときのルシカは特に魔導の技を遣った後でもなかったはずなのだが、トルテの幼なじみの青年リューナまでもが案ずるように表情を曇らせていたのであった。
「あれは、何故だったのだろう」
そのときの様子も気になるが、旅立つトルテとリューナは、今までの冒険とは比べ物にもならないほど遠く離れた地まで行くつもりであるらしかった。ふたりから語られた目的地は、この広大なトリストラーニャ大陸の南東部にあるのだということだ。
娘たちのことはもちろん心配だったが、無理無茶ばかりしている母親をみて育ってきたせいか娘は意外にしっかりしていて、父である彼譲りの慎重さをもって行動しているような印象がある。それに、幼い頃からトルテの傍には必ずリューナがついていた。ふたりは互いの欠点を補い合いながら進んでゆくことを、すでに学んでいるのだ。
「……トルテたちはもう、着いた頃かしら」
テロンが眉をくもらせたとき、ルシカがぽつりと言った。心の内でつぶやいていたつもりだったが、娘の安全を懸念している表情がちらりとでも出てしまったか、とテロンは焦ってしまう。
「あ、ああ。そうだな……でも目指している遺跡は、標高四千リールを超える高峰にあるんだろう? 頂上まではまだまだかかるんじゃないか」
「頂上まで行く必要はないんじゃないかしら。このトリストラーニャ大陸を貫く広大な『大陸中央』フェンリル山脈、その南東端に聳え立つ高峰フルワムンデ。その中腹にある山岳遺跡ヴァンドリアトンネルを目指すって話だったもの」
「そこには何があるのかな。確かふたりは、旅の計画をハイラプラス殿に相談していたようだが」
「あたしにも詳細までは話してくれなかったの。それにいま訊きたくても、ハイラプラスさんはふたりが出掛けたあとずぅっと、ファンの町に滞在しているらしいから」
「ファンに?」
「うん。超迷惑魔術師んトコ」
唇をとがらせ、少女のような仕草でルシカが言った。
王都からみて南東、ゾムターク山脈の最高峰ゴスティアの麓にあるファンの街には、元宮廷魔術師であった老師ダルメス・トルエランが開校した、ソサリア王国最初の魔術師学園がある。現在の学園長はメルゾーンであり、魔術師としてはすこぶる優秀で実力もあり、またリューナの実の父親でもあった。
ひどい頭痛でもしているかのようなルシカの表情は、メルゾーン独自の行動とそれによって被った被害の数々に理由があるのだった。
「『時間』の力をもつグローヴァーの魔導士殿が、メルゾーンにいったい何の用があるのやら」
テロンもつい嘆息してしまう。それまで顔をしかめていたルシカが、ぷっと吹き出すようにして笑い出した。
「笑い事じゃないぞ」
「ごめん、つい。メルゾーンも相変わらずだなぁって、いろいろ思い出して懐かしくて。シャールさんが傍にいるから、出逢ったときほどは無茶してないし、ぶっちゃけ一緒に戦ってきた仲間なんだし。……まぁ、『仲間だ』なんてあんまり声に出しては言いたくないけど」
後半部分を言い添えたルシカの複雑な表情が微笑ましくて、テロンも笑ってしまう。
頬を膨らませたルシカに口づけながら、テロンは言った。
「まあ、ハイラプラス殿と話をしたあとでふたりは出掛けたんだろう? とても重要な事柄を頼まれたと言っていたしな。……誰かの為にならば、躊躇することなく行動するのがあのふたりの長所でもある。それがましてや友人や恩師の為ならば」
「そうね」
ルシカは思慮深げに眼を伏せながら同意した。
ハイラプラスは『時間』を力を持つ優れた魔導士であり、いまは滅んでしまった古代魔法王国グローヴァー時代の研究者でもあった。希代の天才であり、存命である魔導士の中でも予知予見に関わる第一人者でもある彼の示唆する行動に、トルテとリューナは全幅の信頼を寄せている。それが大切な仲間を救うためであったときには、特に。
「そんなところは、ルシカとよく似ている」
「あら、それはテロンも同じでしょ」
「では、似たもの夫婦ということだな」
「そうね」
今度の同意は、愉しそうな笑いを含んだものだった。窓辺から室内にあふれた陽光のなか、微笑むオレンジ色の瞳がきらきらと煌めいている。
「そろそろ起きなくちゃならないかな。でもテロンも構わないなら、もう少しだけ」
ルシカが腕をテロンの首に回し、ゆっくりと体重を預けてきた。鍛えられたテロンの力に小柄なルシカはとても軽いものであったが、その命の大切さは比類なく重くかけがえのないものだとしみじみと思った。
やわらかな吐息と温かくすべらかな肌が、心地よく彼を内側から満たしてゆく。テロンはしっかりと彼女を抱きしめた。
これからも変わることなく、このように穏やかな時間が続いてゆくといい――テロンは心からそう願っていた。
リューナとトルテたちが見上げている空高く、山岳特有の抜けるような青さを背景に、翼を広げた竜のシルエットがいくつも張りついていた。
陽光を遮って乱れ飛ぶ魔獣たちの黒々とした影は、さながら風の強い日の祭凧のようだ。ただしひとつひとつが遥かに大きく、馬一頭は軽々と持ち上げることができそうなほどに強力そうな後脚と鉤爪を有している。
「『飛竜』の成獣八体か。あいつら、でっかいな。俺たちなんぞ腹の足しにもならないだろうに……」
愚痴めいた独白をつぶやいたリューナに、背後からトルテののほほんとした声が応える。
「この辺りには餌となる大型の獣もいなさそうですから、あたしたちでも彼らにとってはご馳走なのかもしれませんね」
ドウンッ! その言葉の終わりと同時に、騒々しい衝撃音が周囲に轟き渡った。先ほどリューナが張った結界に飛竜たちが突っこみ、強襲を阻まれたのである。
空中で翼を打ち羽ばたかせながら、飛竜の一体が耳をつんざくような啼き声をあげ、鉤爪で見えぬ障壁をガリガリと引っ掻きはじめた。ピシリ、と不穏な音が響き、刹那、空間に無数の稲妻が奔ったかのごとき模様が刻まれた。
「さすが俺の張った結界だ。モロいな」
リューナが不貞腐れたようにつぶやく。
「いえ、前回より三秒は長いです! 少しずつ延びていますから、きっと上手になってるんだと思います」
トルテが大真面目に応えたとき、薄い硝子が砕けたときような高音を発し魔獣避けの結界が破られた。魔術師が張ったものならばこちらの気配を隠蔽するだけの結界だが、魔導士の結界は敵対する物理的な干渉をも阻んでくれる。
とはいえ、リューナの具現化したものでは堅固な代物とはいえなかったようだ。
「――っとと、来るぜッ!」
リューナは叫ぶと同時に体をひねり、立ち位置を僅かに変えた。剣を素早く振り上げ、上段から一気に地面を叩く。
ドンッ! 巨大な塊が断末魔の叫びを尾のように引きながら吹っ飛んでいき、背後に続いていた斜面から転がり落ちていった。
突っ込んできた飛竜が目測を誤り、地面すれすれを滑空したところで頸の付け根をリューナによって一刀両断にされたのである。
傍らをかすめ過ぎた竜の頭部に驚き、トルテの足もとで威嚇して這いつくばっていた龍のピュイが抗議めいた声を発した。
鋼同様の硬度をもつ鱗に覆われているはずの飛竜であったが、リューナの剣の重量は相当なものだ。それを渾身の力を込め、揺るぎなく振り下ろしたのだ。
まるで白の根野菜にドナン大陸に伝わる包丁というものを振り下ろしたときのような手応えだなとリューナは思った――珍しくもトルテに誘われて厨房頭のマルムに料理を教わろうしていたとき、彼は調理台をも叩き割ってしまい、それ以降ずっと料理のほうはトルテに任せっきりなのであるが。
「痛ッ!」
リューナの左腿に衝撃と鋭い痛みが走る。目の前に落ちた下半身のほうが尻尾を無茶苦茶に振り回したので、棘のついた尾先が掠めて皮膚を切り裂いたのだ。
リューナは重量のある鎧で身を覆っていない。後方へ跳び退ってかわしながら、たとえ刹那であっても隙を生じた自分に向けて舌打ちした。
「ぼっとしてる場合じゃなかった、あぶねぇ。にしても、しぶとい生命力だぜ」
白い光がリューナを包むように生じ、裂かれた腿の傷が瞬時に癒える。トルテの魔導『治癒』だ。
「悪りぃ!」
短く叫んだリューナは全身に力を篭め、音が鳴るほどに強く剣柄を両手で握り締めた。
トルテの魔法の閃きに刺激されたように、空中を旋回していた飛竜たちの全てが一斉に猛禽めいた眼球を彼女に向けたのだ――武器もなく、舞い踊るように細い両腕を掲げ、ふわりと立った魔導士の少女に。
狭めたリューナの眼に、濡れ濡れと光る唾液まみれの牙や、魔導の気配を嗅ぎつけたかのようにひくつく鼻面までもがはっきりと見えたような気がした。
リューナは上空へ向けて背筋を伸ばし、腕の先に続く長い刀身をみせつけるように煌めかせた。同時に叫ぶ。
「来るなら来やがれ!」
相手は『飛竜』、山岳に棲まう野生の亜種だ。知能の高い魔獣ではない。人語を解することはないが、挑発は通用する。
リューナが叫び続けていなければ、濃厚な魔力の気配に向かっていく習性をもつ魔獣たちは真っ先にトルテを標的にするだろう。魔導の技を遣うということは、魔獣たちの関心を否応なく集めるということでもあった。
そのとき、空に留まっていた飛竜の一体が、長く尾を引く鳴き声をあげた。苛立ちや鬨の声とも違う、奇妙な響きをもつ抑揚のある音だ。
その音ともに二体の飛竜が逆落としに突っ込んできた。トルテの頭上だ。
「させねぇぞッ!」
彼女と入れ替わるように素早く滑り込んだリューナは、襲いかかってきた最初の奴へ向け、重量のある剣を力任せに振り抜いた。
今度も真っ二つにしてやるつもりだったのだが、鱗を薄く切り裂いたものの、一撃で完全に葬り去ることができなかった。それでも相手は吹っ飛ばされて岩のひとつに体躯をぶつけ、地に落ちて動かなくなった。
続く一体が突っ込んでくる。斬り損じた竜の鱗の感覚に訝しさを感じながらも、リューナは剣を眼前に構えた。
剣呑な牙の並ぶ顎を開いた飛竜は翼を広げ、ぎりぎりで制動をかけると同時に顎をガツリと噛み合わせた。リューナの剣がそれを弾き後方へ押し戻した。間隙が生じる。
長く重い剣を旋風のように振り回し、連続的に斬撃を食らわせてやった。だが、やはり手応えがおかしい。
「どうなってるんだ」
堅固さを増した鱗に阻まれているのか別の要因があるのか、剣の軌道が僅かに逸らされているのだ。かつて魔導航空機の鋼鉄の装甲すら斬り落としてしてみせたことのあるリューナは、「次こそやってやるぜ!」と叫んで猛然と剣を構えたが――。
「さきほどの『咆哮』、仲間の飛竜たちに特殊な肉体変化を生じたようです。鱗の下の皮膚が攻撃を受けたときの本能で流動的に動き、攻撃そのものの威力を物理的に吸収、あるいは受け流すことのできる角度に動くようになっているんです。その反射行動はひとの反応速度を凌駕しているみたい」
だから、とトルテは先を続けた。
「刃の速度を魔法で制限しますね」
「え、ちょっ、どういうことだよトルテ」
理解しきれなかったリューナが訊き返したときにはもう、トルテは準備動作を終えていた。彼女が空中に描き出した魔法陣は、リューナの記憶にないものだ。
彼女の周囲に魔導特有の青と緑の光が駆け奔った同時に、リューナの手にある剣も仄かな光に包まれていた。なんの魔法効果があるのか内心首を捻りながらも、トルテの魔法を信頼しているリューナは剣を打ちふるった。
空を切り裂くように突進してきたワイバーンの顎が牙ごとすっぱりと切り離され、そいつはもんどりうって地面に落ちた。まるで凄まじい風圧か水の中で動いたときのような剣の抵抗に、リューナは目をぱちくりさせた。
「うへっ、なんだかすっげぇ重たい手応えだぜ。なぁトルテ、なんの魔法だ?」
「一言でいえば、滑り止めです」
彼女はニコッと笑って小首を傾げるように答えた。真顔になって言葉を続ける。
「ですから剣の扱いは棍棒のように、力を篭めてです」
短いアドバイスであったが、リューナにはそれで充分だ――トルテのことだ、言葉通りでいいに決まっている!
魔獣たちは唸り声をあげて次々と滑空してきた。
彼らは火や蒸気を吐く種族ではない。牙や鉤爪が獲物を仕留めるための武器だ。接近したところをリューナの長い剣に薙ぎ払われ、あるいはばっさりと両断されて荒涼とした山岳大地に転がり伏した。
「あと三体ッ!」
リューナは頭上を振り仰いだ。先程、飛竜たちを強化した『咆哮』を発したリーダー格の個体が空中に留まったまま、こちらを見下ろしている。傷ついた飛竜が二体、その竜の傍に舞い戻っていた。
「そこのでっかいの、降りてこいッ!」
叫び、剣をびゅんびゅんと振り回す。後方に立っているトルテが呼吸を整えた気配が伝わってくる。次なる魔導への準備動作の精神集中が終わったのだ。仕掛けるなら――いまだ!
「いくぞ!」
「いきます!」
ふたりの声が重なる。なにもない空中に魔導の光が駆け奔り、多重魔法陣を描き出した。それは虹にも見紛うほどに色鮮やかな光の数々で織り成されて事象を捻じ曲げ、リューナの体の周囲に渦巻く塵旋風となった。だがそれは一瞬のこと――。
次の瞬間には、リューナは空中高く飛び上がっていた。ばさばさと翼を打ち羽ばたかせていたひとまわりでかい飛竜の眼球に、剣を振りかざした青年の姿が映りこむ。驚愕のあまり姿勢を崩した飛竜の翼は、その後この現生界で風を孕むことはなかった。
長く尾を引く断末魔の悲鳴が地面に墜ちたときにはすでに、残る二体の飛竜は踵を返して飛び去ろうとしていた。
油断なく次の攻撃に備えて剣を構えていたリューナは息を吐き、離れていく飛竜たちの巨大な体躯を見送った。
「よっしゃ!」
リューナは満足げにこぶしを振りかざしながら周囲を眺め渡した。標高二千リールを超える高さにいることもあり、視界に入る光景は文字どおりの絶景だ。
リューナの体を空中へと浮かべているのは、トルテの類稀なる魔導の力であった。『遠隔操作』を含む魔導の複合魔法であり、非常に稀有な存在である『虹』の魔導士の行使する独自魔法だ。これがリューナとトルテ、ふたりの息がぴたりと合ってこそ実現できる『いつもの戦い方』なのだ。
勝利の余韻から立ち戻ったリューナの耳に、微かな異音が届く。ジャリッ、という礫岩を踏みしだく音だ。音の根源をたどったリューナは地上を見下ろし慄然となった。
「――トルテッ!」
リューナは叫び、空中でもがいた。
トルテの背後に巨大な影がにじり寄り、いまにも飛びかからんとしていたのである。先程岩に突っ込んで地面に落ち、絶命したと思われていた飛竜であった。
リューナを見上げる彼女のオレンジ色の瞳の中には、無数の白い星が煌めいている。それはすなわち、魔導の力を行使している最中であるということ――彼女は完全に無防備であったのだ。
トルテが異常にようやく気づき、背後に向けて視線のみを移動させる。
魔導を行使している間の魔導士は、完全な無防備状態だ。癒しの魔法や強化の魔法、攻撃の魔法等は一瞬で実行されるが、護りの結界や念動系の魔法などは精神集中を維持することで効果を保持している魔法陣を展開し続ける必要がある。
いま彼女が魔法に対する集中を解いたら、リューナ自身が地面に墜落してしまう。だが――このままでは彼女が。
「トルテ! 集中を解けッ!」
ためらうことなくリューナは叫んだ。だが、トルテは口もとを引き結んで腕を慎重に動かしはじめた。リューナの体を地面に導くことを最優先に行動したのだ。
古代龍の生き残りであるピュイが甲高く啼き、少女を護らんと飛竜の前に立ちはだかった。両者の体躯の差は凄まじく、飛竜の成獣は後脚に噛み付いてきた子龍を苛立たしげに振り払い、藍色の血が流れる顎をかっぱりと開いた。少女の上半身を噛み切るのに充分な大きさだ。
必死の思いでリューナは思考を巡らせ、剣の柄を弾ませて逆手に持ち替えた。瞬時に標的を見定めて力いっぱいに放る。
トルテに向けて最後の一歩を踏み出した飛竜の動きと、リューナが飛竜の脳髄を貫いたのとは、ほぼ同時であった。
地面に降りたリューナはトルテに駆け寄り、彼女の無事を確認してようやく息を吐いた。忍び寄る捕食者に気づいてから時間にしてほんの僅かな間の出来事であったが、まるで生きた心地がしなかった。
いまになって、空中で魔導を使えばよかったのだとか様々なアイディアが浮かんだが、リューナの魔導の名は『生命』である。その専門領域から外れた攻撃魔法の数々は、リューナにとって咄嗟に行使できるものではない。
「油断大敵……という言葉の意味を痛感した思いだ。ごめんトルテ、この先はもっと気を引き締めていく」
トルテは大きなオレンジ色の瞳をぱちぱちと瞬かせ、吃驚したようにリューナの顔を見た。たっぷりふた呼吸ほど彼の瞳を見つめたあと、彼女が言った。
「あんなにたくさん相手にしていて油断できるなんて、リューナはすごいですね」
その瞳にあるのは羨望と信頼の光であり、そこに嫌味や他意は微塵もなかった。彼女としては当然の反応なのであった。
居たたまれない想いで突っ立っていたリューナはポカンと呆気にとられ……その表情を見たトルテが明るい表情で笑い出した。
「では、これからは油断なく気をつけて進みましょう。目指していた山岳遺跡は、目の前みたいですから」
魔導士の少女が細い腕をあげて指し示した先には、黒々とした穴が開いていた。頂上へと続く絶壁めいた斜面を穿つように掘られた、明らかにひとの手が建造した入り口である。かつて地上に君臨していた魔法王国の技術とはあきらかに異なる、趣向を凝らされた優美な彫刻に縁取られた扉であった。