6章 炎の龍と水の決戦 6-16
森の静寂は剣が打ち付けられる音に取って代わられ、夜行性の魔獣たちの気配は炎と鉤爪に掻き消されていた。厳しくも温もりに満ちた森と鏡のような大河の流れ――そのような光景はいま何処にもない。
ひとや魔獣たちの連携によって地面へと引きずり降ろされた古代龍は、はじめの屈辱が抜けるとすぐに猛烈な反撃を開始してきた。
鋭い突起の生えた尾が大地を薙ぎ払い、木々とともに甲冑を着込んだ兵士たちを簡単に宙へ弾き飛ばした。脚に喰らいついていた魔竜と魔狼が振り払われ、うち一体が大地に叩きつけられ動きを止めた。
祖父の代で戦乱の時代が終わり、平和の時代となって久しい。兵士たちにとって、魔獣討伐や暗躍する賊たちとの戦いはあっても、これほどの巨躯を持つ生き物との戦闘経験はないのだ。兵士のほとんどが相手の何処に狙いを定めれば良いのか迷い、無駄な突撃を繰り返しては鋼のような鱗に弾き返されている。
「まずは前脚を狙え! 翅は魔法に任せておけッ!」
テロンは出しうる限りの大声で叫んだ。相手に聞かれようとも、どうせ心の内まで読まれているようなものだろう。相手は自分たちより遙かに知能の高い生き物なのだから。だが、それゆえに隙も生じる。
「一箇所に固まるなッ! 一撃を食らわせたらすぐに退け、詠唱のタイミングに合わせろッ!」
テロンは闇雲に動き回る兵士たちに声を張りあげた。
古代龍は脚に群がる兵士たちを蹴り飛ばし、後脚のみで立ち上がって周囲を睥睨した。牙の並ぶ顎の硬そうな皮膚をめくりあげる。明らかに嗤っているのだとわかる――侮蔑の、そして残忍な嗤い。人間族ごときに何ができるのかと嘲笑っているのだ。
空にすぐ舞い上がろうとしないのは、自らを大地に引きずり下ろした生き物たちの思い上がりにたっぷり報復を果たしてからと考えているからに他ならない。それに何より、すぐに逃げたと思われるのが癪なのだ――それが本能のみでは動けない、知性あるものの落とし穴だ。
しかし――これほどまでに強敵だったとは。テロンは兵士たちがやすやすと撥ね退けられているのを目の当たりにして、きつく拳を握り締めた。
離れた場所には魔術師たちが整列している。すでに同じ魔法の詠唱を一斉に開始しているのだ。テロンの耳に魔法の理を紡ぐ声が潮騒のようにひたひたと押し寄せる。その声が高まってゆくのを感じ、テロンは再び声を張りあげた。
「詠唱、終わるぞ!」
古代龍に打ちかかっていた兵士たちが一斉に身を引く。そこへ丁度、古代龍の首が降りてきて顎を閉じた。タイミングの良い号令に、龍の視線が忌々しげにカッとテロンに向けられたとき、詠唱が完成した。
まるで標高たかい場所へ転移したときのようにキィンと鳴る音が内耳を揺さぶり、空気のいろが変化した。『真空嵐』である。魔法によって刃となった真空が古代龍の翅二枚を包み込み、ずたずたに切り裂いてゆく。
続いてルシカの『分解』が炸裂した。右に残る翅二枚が逆棘のように突出している胴体部位もろともごっそりと塵になって掻き消える。皮膚の一部も消し飛ばされたのが効いたのか、龍が苦痛に激しく身をよじった。
テロンはその光景を見て目を見張った。魔導士というものがいかに希有で、いかに強大な存在であるかを知らしめるような力の差――魔術師の数十人が束になっても、ルシカひとり分の攻撃に敵わない。周囲から「オォッ」というどよめきが起こり、刹那、賞賛するような視線が宮廷魔導士に向けられた。
だがテロンにはわかっている。魔術より強大であるがゆえに、魔導士の行使する魔導の技は消耗が激しい。
「……はぁっ、はぁ」
腕を下ろしたルシカが息をつき、膝を落とさないまでもふらりとよろめいた。だが、すぐに唾を呑み無理に顔を上げ、凛とした声を発する。
「残る左も狙って!」
狙いは翅だ。空に上がられたら文字通り手も足も出せなくなるからだ。魔術師たちの数は他国より遙かに多いソサリアだが、今回の陣容ではミディアルの内外に配置された人員がそのほとんどを占めていた。ここに集った魔術師は交代で詠唱できるほどに人数が確保されていない。ルシカの号令で、魔術師たちがすぐに次の詠唱を開始する。
――おのれっ、『万色』の魔導士ィィィイッ!
古代龍が牙顎を軋らせ、噛みしめた間から憎悪の唸りを発した。前脚を振り上げ、そこに剣を突きたてていた数人の兵士たちを払い落とす。憎々しげに力の籠められた古代龍の眼は、再び足もとに押し寄せてきた兵士たちを跳び越え、ルシカたち魔法使いのいる場所を睨めつけている。
テロンはその前脚が虚空を滑るように動き、魔導特有の青と緑の光を生じたのを見た。光が駆け奔り、空中に輝く魔法陣を描き出す。その中央部分が透けるような紅蓮の色に染まってゆく。
「魔法が来るぞッ!」
テロンが後方に声を張り上げた瞬間――!
ゴオォォォオオオゥゥッ!!
炎が魔法陣から大量に吐き出された。まるでつぶてだ。『火球』なのだろうが、その数が想像を絶している。それらは詠唱を続ける魔術師たちに向けて真っ直ぐに飛んでいく……!
ルシカがその炎の真正面に駆け込むのが見えた。テロンはすぐに地面を蹴り、彼女に向かって走り出した。
「護りの障壁を!」
ルシカが腕を斜め上に突き出す。『完全魔法防御』だ。
咲き開く花火のように一瞬で展開された光の障壁が、炎の弾をズシズシと受け止めていく。衝突と同時に周囲に凄まじい音と衝撃が生じ、大気が渦を巻いた。踏み止まれなかったものが地面を転がる。
だが、障壁の後方にいる魔術師たちは無事だ。そしてその半数がかろうじて呪文を中断されることなく詠唱を続けている。
「……く」
ルシカの表情が悔しそうに歪む。一枚の障壁では炎の全てを吸収しきれないのだろう――テロンはルシカのもとへ飛び込むと同時に上へ向けて『衝撃波』を放った。自分の中で収束させていたからだ内の魔力を拳から撃ち出したのだ。
『衝撃波』が残る炎を虚空へと吹き散らし、そのあおりを受けて悲鳴とともに倒れこんだルシカをしっかりと胸に受け止める。すぐにテロンはその場から横っ飛びに退いた。
一瞬後、魔術師たちの魔法が完成した。テロンたちの体があった空中を飛び越えて緑の光が突き当たり、古代龍の左の翅が一枚、真空の刃で完全に引き裂かれる。
龍が口を開き、絶叫した。凄まじい形相をテロンとルシカの立つ大地に向ける。開かれた口蓋の奥深くから、ちろちろと炎が昇ってくる。それはすぐに渦巻く炎となって視界を満たし――。
「させません!」
巨大な影が突っ込み、龍の横っ面に衝突した。龍は驚き、思わず炎を呑み込んだ。プニールだ。その背に人影がふたつある。
「てぃやあぁぁぁッ!」
大きいほうの人影が魔竜の背を蹴り、古代龍の顔面に向けて剣を構えて踊りかかった。
クルーガーの突き出す魔法剣は翠玉色に輝いている。魔法剣に風の属性魔法を付与させているのだ。美しい輝きが燃え上がるように煌めき、龍の巨大な眼球に迫る。白く濁り輝く瞳の表面に、翠の刃と勇ましい魔剣士の姿とが大写しになる。龍が鋭く唸りながら前脚を動かそうとした。
剣が突き立ったのは古代龍の眼の横、こめかみの近くだ。クルーガーは舌打ちしたが、効果はあった。痛みを感じたのだろう、次なる魔導行使のために動きかけていた前脚がびくりと痙攣し、収束しかけていた魔力の輝きが霧散する。
テロンは古代龍の隙を窺いつつ、一枚が背丈ほどもある首の鱗に次々と痛烈な拳の連打を浴びせた。ひずみが生じ、ひびが奔る。一撃一撃も凄まじいが、身に纏っている『聖光気』が威力を倍増しているのだ。体術の技は魔法と異なる現れ方をするが、もととなる魔力は同じ――それで気づいた。
「鱗が、物理防御の効果を持っているのかも知れない」
ルシカの隣に降り立ったときテロンが告げると、彼女は瞳に力を込めて龍を見やり、すぐに頷いた。
「本当だわ。おそらく生来備わっている能力なのね。それなら――」
ルシカは左腕を回すように動かし、右腕で宙を薙いだ。周囲にいた兵士たちの持つ剣に『武器魔法強化』の翠の煌めきが纏わりつく。クルーガーが使ったものと同じ属性の魔法だ。途端に効果が目に見えて現れはじめ、古代龍に弾き返されていた兵士たちの剣が食い込むようになった。
無視できない痛みとなった足もとからの攻撃に、古代龍の口から忌々しげな吐息が洩れる。龍はドン、と地面を踏んだ。その下敷きになりかけた何人かが悲鳴をあげる。前脚が動き新たな魔法陣が描かれるたび、大地が爆ぜ割れ炎が吹き荒れる。
「こっちだッ!」
クルーガーとテロンは龍を挑発し、自分たちに攻撃を向けながら交互に攻撃を繰り返した。右から、左から、古代龍を翻弄するように各々の技を叩き込む。何とかして前脚の動きを封じなければならない。魔導の技をこれ以上行使させないためにも、これ以上の兵士たちの消耗を避けるためにも。
尾が上がり、振り下ろされる。首が、胴が大地を激しく叩くたびに誰かの悲鳴があがる。地面には亀裂が走り、穴が穿たれ、土埃と木っ端が空中高く舞い上がった。
古代龍の流す藍色の血が大地を汚し、しゅうしゅうと薄い煙をあげている。体内を流れる魔力も血も、凄まじいまでの温度をともなっているのであろう。僅かずつでも体力を削いでいるといいのだが――。
大地に降り立ったテロンが呼吸を整えようとしたとき、クルーガーが叫んだ。
「伏せろッ!」
その鋭い声に、前衛で戦っている者たちが地面に伏せる。周囲にいた者たちの背中を抉らんばかりに、ぎりぎりの高さを太い尾が通り過ぎる。反応が遅れたも者たちが宙へと舞った。ルシカが腕を宙へと差し伸ばし、『遠隔操作』で効果の届く範囲の者を助けている。
だが、彼女はすでに肩で息をしていた。呼吸が乱れ、腕を下ろすと同時に膝を大地に落としている。それでも数の足りない『癒しの神』ファシエルの神官たちを手伝うため、『治癒』を行使している。
「そろそろ、みんなの魔力も限界よ。戦闘が長引けば不利になるかも」
テロンは周囲を見回した。ルシカの言葉通り、魔術師たちも消耗しているらしく自分の杖にすがって立つ者も多い。兵士たちも負傷して下がっている者が半数近くなっている。魔獣たちは的になりやすかったらしく、すでに一体を残すのみ――。
そのプニールはマイナの指示で兵士たちへ向けられた攻撃を受け止めつつ攻撃を繰り返していたが、すでに体躯のあちこちを負傷している。背に乗っているマイナの体力も限界に近いだろう。『使魔』の魔導士は、自分の体力を操っている魔獣の負傷を癒すのに使うことができる。マイナはその能力を行使していたはずだ。
少女の様子を確認しつつ剣を振るっていたクルーガーがハッと眼を見開き、攻撃を中断して声をあげた。
「マイナ!」
プニールの爆ぜ割られた右足の傷が溶け消えるようになくなると同時に、マイナがふらりと落ちかけたのだ。いち早く察して駆け寄っていたクルーガーの腕に抱きとめられ、危ういところで地面に激突するところを免れた。
――もう終いか? 口ほどにもないな。
余裕しゃくしゃくと語る古代龍も無傷ではないが、もともとの体力も魔力も雲泥の差があった。
龍は前脚を打ち振るった。自分自身に対する『治癒』だ。右の翅の一枚が元通りになる。瞳の奥に憎悪の火を燃やしながら、揶揄するように鼻を鳴らした。おもむろに片脚をあげる。
「くそっ!」
クルーガーが舌打ちし、腕に抱いたマイナをかばいつつ身を転がす。一瞬前に彼らがいた場所に、脚がズシリと降ろされたのだ。プニールが怒りの声をあげて古代龍に掴みかかる。だが、それはまるで子どもがおとなに向かっていくようなものだ。
「プニール! 正面からはダメよっ!」
マイナの悲鳴のような声。
テロンは地面を蹴って跳躍した。拳から衝撃波を凝縮したような『聖光弾』を飛ばす。プニールの頭蓋に食らいつこうとしていた古代龍の瞳に当たった。
古代龍は怒りの絶叫をあげて首を振り、濁った眼を見開いて攻撃の対象を変えた。締め上げていた魔竜の首を離し、テロンを狙った尾の一撃を繰り出す。
テロンは落ち着いて眼をすがめ、尾の動きを追った。衝突する直前に空中で体の向きを変える。『聖光気』で強化された腕で衝撃を受け流し、足を棘のような突起のひとつに引っ掛ける――うまくいった!
ぐるりと回転するようにして尾の上に着地し、そのまま一気に胴へと駆け走った。尾はしなるように宙と地面とを凄まじい速度で往復したが、テロンはタイミングを見極めて突起を掴み、そのまま尾の上を器用かつ大胆に移動した。
たどり着いた古代龍の背は、想像を越えるほどの広さと高さがあった。景色を見渡す暇もなくテロンは意識を集中させ、全身に纏った『聖光気』の輝きをいっそう強めた。
「――ゆくぞ!!」
自身を鼓舞するように声を上げ、拳に自分のなかの無形の力の流れを一気に集中させる。それは生命の根源たる魔力であり、『気』として呼び名とかたちを変えたものだ。
テロンは古代龍の背骨の盛り上がった箇所に拳を叩き込んだ。連続で繰り出すうち、どんどんその速度が早く、間隔が短くなる。怒涛のごとく拳を繰り出す技、『疾風迅雷拳』だ。
ボコボコと鱗がへこみを生じ、周辺の表皮が龍特有の藍色という血色に染まっていく。この技は叩き込まれる表皮以上に、その内側に損傷を与える。蓄積されていくダメージはいかほどのものなのか――テロンにはそれが骨そのものを砕くほどのものだという確信があった。古代龍が絶叫し、刹那、ビクンと背筋を伸ばした。
テロンは背後にぞくりとした気配を感じた。だが――!
「うがッ!!」
こちらの背骨が折れたのではという衝撃と痛み。もう少しで相手の骨が砕けるという確信に、回避が一瞬遅れたのだ。霞む意識のまま、急速に地面が迫る。
「テロン――!!」
悲鳴のような声。次の瞬間には、全身が慣れ親しんでいるあたたかな光に包まれていた。気が付くと、テロンは地面の上にいた。体に損傷はない。魔導の技である『浮遊』と『治癒』を同時に受けたのだろう。テロンはそこまで考えてハッと両眼を開いた。
「ルシカ!」
見上げる闇空に、魔法の光に照らされたやわらかそうな金の髪が揺れている。ルシカはテロンの傍で、彼に背を向けて立っていた。腕を真横に広げ、その細い肩の向こうに見える古代龍から、テロンをかばうように――。




