1章 願いを込めて 5-2
黒髪の少女は、教えられた大聖堂の敷地内に駆け込んだあともそのまま走り続け、建物の裏にたどり着いていた。
「はぁ、はぁ、……ふぅ……こんなところまで追ってきているなんて……」
どきどきと鼓動が激しく鳴り続け、少女――マイナは唾を何度も飲み込んだ。深呼吸も繰り返しているが、胸の動悸はなかなか治まらなかった。
「早く、クラウス様にお会いしなければ。こんなとき、わたしに『治癒』が使えればなぁ……そうすれば、おとうさんも」
マイナが胸を押さえて呼吸を整えながらつぶやいたとき、ちょうど裏口から修道女がひとり出てきた。
「すみません」
声を掛けつつ、その女性に走り寄る。
「至急、最高司祭クラウス様にお会いしたいんですけど――」
「クラウス司祭は今、王宮の式典への出席でお出掛けになっています。戻られるまで、どうぞ中でお待ちになって」
その女性は朗らかに微笑みながら、手で建物の内部へ差し招いてくれた。それから、ふとマイナの顔を間近に見て、首を傾げながら問いかけてきた。
「もしかして、マイナムのヨハン司祭の――」
「あ――はい。娘のマイナ・セルリオーネです」
「まぁまぁ、大きくなって」
女性は嬉しそうに微笑むと、「貴女なら自由に中を歩いて構わないのよ」とマイナの背中をぽんと叩いた。
マイナは周囲に目をやりながら、案内されるまま建物に入った。そのあと、女性はすまなさそうな表情になった。
「ごめんなさいね。これから私は祭りのイベントのために出掛けないといけないから……」
追っ手がいる。だが、それを司祭以外のひとに伝えていいものか……少女は迷った。
「……はい、どうかお気になさらず。わたしは平気ですから」
内心の不安を抑えながら、マイナはにっこり笑って返事をした。女性は微笑みを返し、外へ出ていった。
「でも……年に一度、いつもおとうさんに連れられて夜に訪れてただけなのに……覚えていてくださったんだ」
その事実に胸がほっこりとあたたかくなり、マイナは口元を緩めながら廊下を進んだ。
裏から入ったので、今いる場所は大聖堂ではなく居住のための建物だ。三階建ての石造りで、各階に大聖堂と繋がる細い通廊がある。
マイナは階段を使い、司祭や神官たちの私室があるフロアまで上がった。司祭は戻っていないはずなので、そのまま廊下を通り抜け、奥に進んで通廊に出る。
「うわぁ……!」
そこで、昼間の陽光を受けて輝く白亜の王宮をマイナは生まれてはじめて目にしたのである。それは、例えようもなく美しい光景だった。
優美なアーチが幾重にも重なったような外壁には彫刻や飾り柱が施され、光が当たる部分とそうではない部分が複雑で精緻な紋様を織り成していた。
まるで、建物全体が魔法陣のようだ――マイナは思う。
王宮の敷地には緑を茂らせた大樹がいくつもあった。古くからそこに在り、人間には想像もつかないほど遥かな時を見てきたのだろう。その数え切れぬほどたくさんの葉が煌めく向こうには、青い空に向けて聳える幾つもの塔が整然と並んでいる。
王宮の西棟、中央棟、東棟の屋上部分は平らな場所が多く、一箇所にのみ不可思議な丸いドームのようなものがある。その外壁には天空の星の巡りのごとき優美なアーチとテラスが設置されていた。
およそ千年前に建てられ、今なお輝きを放つ『千年王宮』。ソサリア建国より遥か昔から存在し、幾多の戦乱の世もくぐり抜けてきた奇跡の城だ。
「今までは真夜中に見ただけだったけど……魔法の光があちこちに灯されていて、とてもとてもきれいだったけど……! 昼間のこの光景には敵わないっ!」
歓声とともに、マイナはうっとりと嘆息した。そして、いつも隣で一緒に眺めていた父の顔を思い出し……たまらなくなって目を伏せた。胸に当てた手のひらをギュッと握りしめ、そっとつぶやく。
「おとうさんと、一緒に、来たかったな……」
マイナは目をきつく閉じた。けれど、瞳に焼きついてしまった光景がまざまざと浮かび、すぐに目を開いた。今もなお、まぶたの裏には血に染まる父の顔……そして、焼かれて崩れ落ちる教会の光景が……今もくっきりと見えるのだ。
真紅の瞳に音もなく涙があふれ、頬を伝い落ちる。マイナは手の甲で乱暴に涙をぬぐい、震える顎に力を込めた。
「……やつらに捕まる前に、なんとしてもクラウス最高司祭に会わなければ。その身を保護してもらわなければ、世界が大変な代償を払うことになる……」
それが父の最期の言葉だった。
どんな意味があるのかまでは聞かされていない。死の間際、父は続きの言葉を語ろうとしたが叶わず、その瞳に愛娘の姿を映したところで力尽きてしまったのだ……。
マイナは目を伏せ、しばらく動かなかった。
「……下にある食堂の椅子に座って、待たせてもらおう。あいつらだって、ここまでは入ってこられるわけないよね」
つぶやきながら歩きはじめたマイナは顔を上げ――凍りついた。聖堂への通廊の端に、父をその手で引き裂いた男が立っていたのだ。
「……な……なんで大聖堂の中にまで。この……」
マイナは目を見開き……次いでキッとその男の瞳を見据えた。
「……ひとごろしッ!」
マイナの叫びと同時に、男は距離を瞬時に詰めてきた。マイナの小さな顎を掴み、容赦のない力でグイと持ち上げる。
「う」
マイナの恐怖に引きつった顔に、相手の端正な顔が近づく。白に近い銀の髪が流れ、男の無機質な紫の両眼の片方を隠した。ひと離れした美貌は冷たく視線は氷のようで、マイナはぞっと身を震わせた。
顎を掴んでいるほうとは別の腕が、少女の胸元に伸ばされる。男の唇が薄く開いた。
「――我々には崇高な目的がある。多少の犠牲は仕方なかった」
感情を示さない声が、そう告げた。
「な……冗談じゃないわ!」
激昂したマイナは男に向かって叩きつけるように叫んだ。
「ひとごろしに理由なんかないッ! おとうさんを……返して……返してよッ!」
「ウッ!」
予想外の反撃に、男が呻いた。マイナが男の胸をこぶしで打ち、同時にブーツの爪先で相手の脛を力いっぱい蹴りつけたのだ。
顎を掴んだ力が僅かに緩み、マイナは必死でその手を振りほどいた。夢中で駆け出す――大聖堂へと。
男は舌打ちし、すぐに少女の追跡を開始する。――その手にはいつの間にか、鋭く光るナイフがあった。
「相変わらず、荘厳で豪勢で綺麗で……素晴らしいなァ」
感動しているのか呆れているのか判別できない口調で、クルーガーは独白した。そうして、ゆっくりと周囲を見回す。
『癒しの神』ファシエル、『戦の女神』ミネルヴァ、『導きの神』アルート、『幸運の神』リマッカ、他の光の神々の神殿も王都にはあるが、ここまでの規模を誇る大聖堂を有しているのは『光の主神』であるラートゥルだけだ。正義と法を護り、婚姻を司る神でもある。
入り口から身廊を進んだ場所から入り、ステンドグラスで魔法陣のように飾られたドームと過ぎると、密に並んだ柱の奥に天上からの光を集めたような場所がある。そこに光り輝く壇と神像があった。
「ふむ……奥まで来ても居ない、か」
クルーガーは参拝に来たのではない。黒髪の少女を探しているのである。
今日は祭りということもあり、神官たちも外に出ている者が多い。他の参拝者もいないので、聖堂内はシン、と静まり返っていた。クルーガーが歩く靴音と衣擦れの音、そして腰につけた剣をさげる金属の部分がカチャカチャと鳴る音が響く。立ち止まると、それらの音が失われることによってむしろ静寂が強調されているようであった。
「静かだなぁ……」
言わずもがななことを口にしながら、クルーガーは目を上に向けた。大聖堂の中央部分は吹き抜けだが、周囲にはぐるりと二階、三階の回廊がある。
あの少女が聖堂の関係者なら裏側に回ったのかもしれないな、と思い至り、クルーガーは外へ向かう扉に向かって歩きだそうとした。
――そのとき、声が聞こえた。
「やめてっ……来ないで!」
クルーガーは聖堂内にこだまのように撥ねるその声の源を感覚で探り、三階の回廊を見上げた。怯えたような甲高い声は、間違いなくあの少女のものだ。
「誰かに追われているのか?」
すぐに側廊へと走ったクルーガーは、その奥の階段を駆け上がった。腰の剣の位置を無意識のうちに手で確かめながら、狭い階を抜け、三階の回廊に出る。
「――キャッ!」
そこに黒髪の少女がいた。クルーガーとぶつかりそうになって仰天し、急制動をかけたことで後ろに倒れそうになる。
クルーガーは咄嗟に腕を伸ばした。少女の腰を抱えるようにして体を支え――すぐに自分の背後にかばうと同時に利き手で腰の剣を引き抜く。
ギィンッ! 金属のぶつかる凄まじい音が聖堂に響き渡った。
瞬時に抜き放った魔法剣は、相手のナイフを受け止めていた。剣をひねるように突き上げると、相手のナイフは宙に舞い、遥か下の身廊の床まで落ちていった。チャリィンという音が遅れて響く。
「――何者だ」
誰何する相手の低い声に、クルーガーは剣を体の正面に構えてニヤリと笑い、応えた。
「それはこっちが訊きたいね」
背後にかばった少女は、乱れた呼吸を必死に整えているようだ。その息遣いを感じながら、クルーガーは相手の動きを見据えていた。
白っぽい銀の髪と紫水晶のような紫の瞳をした、怖ろしく整った顔だちの男だ。自分より年上のようで、眼光は鋭く冷たく、肌は抜けるように白い。人間族であるように見えるが、放つ気配と雰囲気が……とてつもなく異様な感じがする。
黒い革の衣服は、独特の装飾を施されている。特徴的な紋様が右胸に描かれていた。古代王国の都市の印のような――。
その男は背筋を伸ばし、無言のまま腰の長剣をスラリと抜き放った。
「誰かは知らないが、俺を舐めないほうがいいぜ」
クルーガーは不敵に笑い、剣の柄を握り直した。それが合図になったかのように、相手が動いた。
「――――!!」
風のような素早い突きを、クルーガーは自身の剣で弾き返した。流れるような動きで返す刀身を自分に引きつけ、お返しとばかりに鋭い突きを繰り出す。
剣の師範である騎士隊長ルーファスも一目置くクルーガーの突き技だ。その切っ先は、身をかわそうとした男の腕を浅からず切り裂いた。
血を流しひるむ相手に矢継ぎ早に剣を打ち込み、じわじわと後退させる。相手は剣で防ぐのがやっとのようだ。奥歯をギジリと噛みしめ、男は口を開いた。
「――これほどの腕……何者だ」
「まずは自分から名乗るんだな」
クルーガーは青い瞳で相手を睨みつけ、油断なく剣を構えた。相手から逃げる気配は感じられない。あくまで向かってこようとしている。
何か仕掛けてくる――そう思ったときだ。男がクルーガーに向かって片腕を突き出してきた。
その腕の先、クルーガーの目前で魔法陣の輝きが具現化される――。
「む!」
剣を眼前に構えたところに凄まじい冷気が襲い掛かった。
成り行きを見守っていた背後の少女から悲鳴があがり、クルーガーの真横にあるステンドグラスがビリビリと震えた。次いで、ビシリと不穏な音が幾つも響く。
「――『氷剣』か。危ねえなァ」
クルーガーの吐く息は白く、刀身は霜が降りたように真っ白になっていた。足元と真横の壁までも真っ白に凍りついていたが、それだけだ。
無傷で魔法を押さえ込んだ相手の力量に、男は驚いて目を見開いた。冷たく整った相貌が僅かに歪む。
「すごい……魔法剣に『魔法防御』を付与するなんて……」
感嘆したような声を聞き、クルーガーが肩越しに振り返ると、黒髪の少女が真紅の瞳で真っ直ぐに彼を見つめていた。
「相手が魔導士なのは、雰囲気で分かったからな。俺はこれでも魔術使いなんだ」
クルーガーはニッと笑った。次の瞬間少女の目が見開かれ、強張る。
「――危ないッ!」
少女は思わず自分の目を手で覆ったが、それより早く高らかな金属音が周囲に響き渡った。斬りかかってきた男の剣を、クルーガーが腰の後ろから抜いた小剣で受け止めたのである。
「油断してんのは」
クルーガーは二本の剣で相手の剣をグイと押し、さらに力を込めつつ言い放った。
「あんたのほうだぜッ!!」
ガキンッ!!!
鼓膜を打つような凄まじい金属音と同時に、男の剣が折れた。その切っ先は一瞬後、傍の石壁にガヅリと突き刺さった。
「……クソッ」
男は悔しそうに表情を歪めた。折れた剣の残りの部分を鞘に戻し……クッと微笑んだ。
「もはや加減などしていられないようだな」
そう言うと同時に、自分自身の革の衣服の胸元をはだけた。そこに描かれていた赤く輝く魔法陣にこぶしを突き当てる。
「――何を!?」
言い知れぬ不穏な兆しを感じたクルーガーが剣を構えて斬りかかったが、それより早く――。
ドオォォォォォオオン!!!
空間が爆発した。大聖堂の堅固な柱と壁が衝撃に震え、一部が崩れ、硝子の欠片が雨のように下に降り注いだ。
もうもうと上がった土煙のなか、一階の側廊に事も無げに着地した男は、口元に不気味な微笑みを浮かべつつ、歩みを進めた。
「――それで終いではなかろう?」
地獄の底から響くようなその声に、土煙が不自然に吹き払われる。そこには、少女の体を片腕に抱えたクルーガーが立っていた。
「何故、この女性を狙っている。この王都で何をしようとしているのだ」
さきほどまでの余裕そうな口調は欠片も感じさせず、クルーガーは厳しい声で相手に問うた。
クルーガーの腕のなかで、少女は呆然と目を見開いていた。見つめる先には、先ほどまでとは全く雰囲気の違う男が立っている。
紫水晶の双眸は、熾火のように灼熱の殺気を孕んでいた。銀の髪は、まるで生き物のようにうねっている。
相手の放つ異様なまでの殺気に、クルーガーは青い目を細めた。腕の中の少女を降ろして耳に口を寄せ、小声で囁く。
「君は大通りを走り、都市の中央広場へ行け。そこに俺の弟と魔導士の女性がいる。とにかくここから――」
クルーガーは剣を抜きながら少女を正面入り口に向かって押しやった。
「――逃げろッ!」
ガアァァァンッ!! 爆音と衝撃を受け、少女は地面を転がった。顔を上げ、思わず自分を助けてくれた相手の名を呼ぼうとして……まだ聞いてもいなかったことを思い出す。
――マイナはふらつきながらも立ち上がり、必死に駆け出した。この王都の、中央広場と思われる場所に向かって。




