始まりの崩壊と、終わりの創造 2
生き残った里の人々は一か所に場所に集まり、動ける者がそれぞれ病人を看ているのだとフィリーネは言った。
それでも一度症状が出た者はそのまま衰弱して死んでいってしまい、看病の者もどんどんと倒れていく。
きっとこの里の全ての人々が死ぬまで、おさまる事は無い。
フィリーネは言いながら、薬草を取っていた。
「薬は効くのかい?」
「一時的に熱を下げる事はできるんですが…高熱が出るとそのまま…」
項垂れるフィリーネの横顔は青白く、声にも生気は無い。
全てを治す薬は無いのだと、続かない言葉が語っている。
「フィリーネ、大丈夫かい?」
肩に手をかけようとすると、フィリーネはさっとそれを避けた。
「こ、これ以上近づいてはいけません。もう、里へとお帰りください、アウリール様…私は、もう充分です…」
「どうしてそんな悲しい事を言うんだい?」
「病はどのように感染するかわからないのです。アウリール様達にまで感染してしまうと…」
「それならたぶん、大丈夫だよ。私達は人間よりも頑丈にできているようだし、それに…」
フィリーネを安心させようとそう言って、アウリールははっと気がついた。
そうだ、神聖族の力ならば、こんな病などすぐに治せるのではないだろうか。
人間に罹る病など治した事は無いが、神聖を治す事ができるのなら、人間でも。
「あの、アウリールさま…?」
「フィリーネ、君は私達に助けを求めていたんだよね…?」
「…い、いえ。私は…」
フィリーネはさっと顔を伏せた。
「…私は、言いつけ通り、誰にも神聖様達の事を話したりはしませんでした。ある日突然帰った私を、里の人々は神の奇跡だと喜んでくれましたが、私は何も話しませんでした。だけど…」
薬草を摘む手を止めて、フィリーネはふっと空を見上げた。
幾万の星よりも尚輝く、ひとつの月。
あの日の別れを思い出しているのだろうか。
「私のこの記憶からは、決して消える事はありませんでした。アウリール様のお察しの通り、もしかするとこの状況もアウリール様なら救ってくださるのではないかと、思った事もあります。でも…。そんな事が許されるでしょうか?幼い私を救ってくださった事すら既に、神聖様達にとっては禁忌であるのに、それに甘える事が再びできるでしょうか…」
あの日傷ついた幼い少女は、今は凛とした瞳の女性へと変わっていた。
身体は細く今にも倒れてしまいそうな程なのに、何処かに折れない芯があるようで。
「…アウリール様の事を強く想った事は、確かにあります。あれは私に残された最後の家族が死にゆく時…」
「フィリーネ…!」
「都合がいいですよね。そんな時ばかり頼って、私は家族の眠る顔を見ながら、それでも助けてと大声を出す事もできないで…」
フィリーネの言葉に、アウリールは愕然とした。
自分達を想い、解決策を見ながらもずっと押し殺していたフィリーネ。
それは大事な家族が死に行く時でさえも。
どうして、自分が生き残ってしまったのだろう。
そんな声が、そんな想いが、フィリーネの瞳から読みとれた。
アウリール達との誓約を守る事。
それは、死に行く者達への裏切り。
彼女の中で湧きあがった葛藤は、凄まじいものだっただろう。
「フィリーネ…すまない…」
「アウリール様が謝る事など…私は、私は結局、何もできなかっただけなのですから」
アウリールは、エドヴァルドの言葉に従わなかった事を、激しく後悔していた。
彼の言うとおり…フィリーネの記憶を消していれば、彼女はこんな想いを抱えずに済んだろうに。
大切な思い出が、記憶が、彼女をこんなにも苛む事になるなんて、思いもしなかった。
「神聖様方にとっては、人間の一生は短いものだと以前話されていましたよね。それが更に少し短くなるだけなのだと、そう思ってください。アウリール様達の一生のうち、一瞬でも共にいれた事は、私の一生の宝物になったのですから…」
そう言ってフィリーネはまた笑った。
こんな彼女の顔が見たかったわけではない。
「それじゃあ、私はもう、戻りますね。アウリール様、エルヴィン君。今日は本当に会えて嬉しかったです。ありがとうございます…さようなら」
彼女は満月を背に向け、悲しい笑みを浮かべながらアウリールにそう言った。
別れの言葉は、ずっと反響したままアウリールの耳の中に残り続けていた。
※
「この里の人達、助けないの?兄様」
「うん…エルヴィン、私達にはそれができると思うかい?」
残された二人は、薬草園の前で月を見上げていた。
アウリールの問いに、エルヴィンは少しだけ首を傾げた。
「やった事ないけど、みんな言うよ。ぼくに出来ない事はないって」
「ふふ、そうだね…」
たとえアウリールにはできなくとも、エルヴィンにならできるかもしれない。
その可能性は大きいだろう。
だが出来る事と、しても良い事は、必ずしも同じになるとは限らない。
彼女が言っていたように、神聖族が人間と交わる事は、本来禁忌なのだ。
助けようと思えば、フィリーネ以外の人々ともたくさん交流する事になるだろう。
アウリールは冷えた空気を吸い込んだ。
「フィリーネには悪い事をしたね…」
「兄さまがフィリーネを助けなかったら、あのままフィリーネは死んでたよ」
「…」
彼女を救った事に、後悔は無いはずだ。
そうでなければフィリーネと出会う事すら無かったはずなのだから。
エドヴァルドの言うように記憶を消していれば?
それならば、フィリーネの助けてという言葉を聞く事も無く、再会する事も無かっただろう。
再会して、大きくなった彼女を目にして。
会わなければ、幸せだっただろうか。
彼女は最後に、ありがとう、と言っていた。
あの言葉は本心だろうか。
自分はどう思ったろうか。
彼女に会えて後悔したのか、嬉しかったのか。
そのどちらだろうか。
さまざまな思いが綯い交ぜになって、アウリールの心に降り積もって行く。
この禁忌を犯せば、おそらく神聖族は人間にとって幻では無くなる。
ずっと、神との誓約として、鎖されてきた神聖族の小さな世界と、人間達の世界。
それらの壁が無くなり、守るものは無くなってしまう。
それが正しい事なのか、間違っている事なのか。
少なくとも、人間…フィリーネと出会えた事だけは、悪い事だとは思えなかった
アウリールが知り得なかったたくさんの感情をくれた彼女。
「私は…古の誓約を…破って…彼女を助けても、良いのだろうか…」
ぽつり、と言葉が漏れた。
自らの内に答えを探しあぐね、とうとうそれは外へと求められた。
ただ目の前には銀色の月と、傍には小さな弟がいるだけなのに。
「…兄さま、神聖族の…神さまの力は、人間を統治する為の力でもあるんだよね。だったら、守るべき人間が死んじゃえば、意味がないよ」
その小さな声に、アウリールは視線を向けた。
「全部神さまが決めてる事で、神さまの力だっていうんなら、ぼく達が今日此処にきたのも、神さまの力だよ。だって、フィリーネの声は届いたんだもん。だったらぼく達のしたいようにするのが、神さまのしたい事なんじゃないの?」
声は高くか細かったが、アウリールの耳を通り抜けてするすると心の中に入って行くその、言葉。
脳内がすっと晴れて、降り積もった感情が途端に風に散らされる。
「ぼくは、神聖の力は、神様に与えられた、人を救うための力だって思うんだ」
エルヴィンの美しい、真黒い瞳の中に、銀色の月が映り込んだ。
神になるために生まれてきた子。
彼が生まれた日、誰もが涙を流して喜んだ。
彼こそが神聖族の悲願、神との誓約の証なのだと。
「…ありがとう、エルヴィン」
きっと心の中ではもう決まっていた事。
そんな心のうちを、彼は見透かしていたのかもしれない。
エルヴィンが自分の弟に生まれてきた事、それさえも神の思し召しなのだとしたら。
「少なくとも、私は今日、彼女と再会する事ができて良かったよ」
「うん」
エルヴィンの小さな、幼い手をぎゅっと握って、アウリールはフィリーネが消えて行った方へと歩き始めた。
大きな月が夜空から、こちらを見下ろしている。
伝説では、創造神は太陽の寝どこで眠りについている。
月は新しい神の為の揺り籠。今はまだ幼い、エルいヴィンの為の揺り籠。
その揺り籠を優しく揺らして大きくなあれと眠りに就かせるのか、大きく揺らしてもう目覚めなよと声をかけるのか。
果たして、これはどんな行為になるのだろう。
「アウリール様…!」
再び目の前に姿を現したアウリールとエルヴィンに、フィリーネは驚いたような声をあげた。
ひときわ大きな建物で、ちらりと中を覗くと、人々がひしめくように寝かされていた。
どの顔も生気は無く、うめくような声以外は何も聞こえない。
よく見ると彼らに侍るような人も何人かいたが、伏せっている人々よりずっと数が少ない。
やはり同じように顔色は悪く、壁にもたれかかる様にする者もいた。
此処にはもう、生という気力が無いのだ。
アウリールにそう思わせた。
「アウリール様…いったいどうして…」
フィリーネの声もずっとか細い。しかしそんな彼女の声よりも、彼らの声はずっと小さい。
けれどその声は、きっと生きようとする叫びなのだ。
アウリールはフィリーネに目を見て、ただほほ笑んだ。
「私達は、君たちを助けたいんだ」