始まりの崩壊と、終わりの創造 1
「エルヴィン、お前は預言を“視た”ことはあるか?」
エドヴァルドは机の真向かいに座ったエルヴィンにそう問いかけた。
エルヴィンは首を傾げて真黒い瞳でエドヴァルドを見返す。
「みる…?」
「そう。子供の頃はまだ預言の力は弱いのだ。受け取った“モノ”を明確に再現できない。それが預言であったとしても、子供では恐らくおぼろげな“何か”に見えるのだ。それは夢に現れる事が多い。そういうものを見たことは?」
エルヴィンはしばらく考えるように眉を歪めて空を見ていたが、それからゆるゆると首を振った。
「そうか。まあ、わかっていないだけかもしれないが。それが大人になるにつれて、明確な“象徴”となるのだ」
「しょうちょう?」
「例えば誰かの死ならば星が落ちる夢を見る。吉兆ならば光が降り注ぐ夢を見る」
ゆっくり説明しながらエドヴァルドは机の上に、指でその風景を再現するように描いた。
「それが大人になると言葉にかわっていき、より明確な象徴となる」
「どういうの?」
「さっき言ったように人が死ねば“星が落ちる”という言葉を受け取る。これが“南西の巨星”になり、もっと細かく“南西の十字星、交点の巨星落つ”といった具合になる」
「…?どういう意味?」
「星が落ちる、だけでは誰が死ぬかわからんだろう。だが南西の十字星の巨星といえば、神聖族ならば誰もがわかる。ヴェンデルベルト様の事だ」
エドヴァルドがそう言うと、エルヴィンはあからさまな渋面を作った。
「父さま死なないもん。意地悪」
「例え、だ。もちろんヴェンデルベルト様の死の預言などない。預言とはそういうものだと、そう言っている。言葉を覚えれば覚えるほど預言は明確な像を為す“言葉”となる」
「へぇ…」
言いながらエルヴィンは空を見上げた。
太陽が燦々と降り注ぎ、青い空がただ広がっている。
「お前ならばもっと…」
エドヴァルドは何かを言いかけたが、言葉の先が紡がれる事はなかった。
※
フィリーネと別れたあの時から、季節は幾度かの巡りを終えた。
あの日と同じような大きな月が出る夜には、必ずフィリーネの事を想っている。
そんな日々が続くなか、アウリールの耳には微かな声が届くようになっていた。
「…兄さま?」
アウリールの簡単な仕事の手伝いをするようになっていたエルヴィンと共に、封印の確認をしていた時だった。
首を傾げてこちらを見上げるエルヴィン。
まだ赤ん坊のような顔をしていたあの時と比べると、彼も随分と大きくなったなとアウリールは思った。
フィリーネももう随分と成長していることだろう。
「ねえ、アウリール兄さま!」
エルヴィンは痺れを切らしたように眉を顰めてアウリールの名を呼んだ。
そこで初めてアウリールの思考は現実へと戻って来た。
「ああ、ごめんねエルヴィン。どうかした?」
「あそこの封印の綻び、なおしたよ」
エルヴィンが指さす方を見て確認し、アウリールは微笑んだ。
まだ幼いながら、彼はもうここまでできるのだと感心し、そして嬉しくなった。
「さすがエルヴィン。何か変わった事はなかったかい?」
「ううん。何もないよ」
ふるふると首を振るエルヴィンの頭を撫でて、彼の功を労った。
エドヴァルドの教えの元に立派な神聖となるべく毎日勉強して、さらにアウリールの仕事も手伝ってくれる。
小さかった頃と比べて泣く事も少なくなったし、大人でも難しい魔術も難なくこなす。
子供にしては些か出来過ぎているぐらいだとアウリールは思った。
でもそれは家族である父や母、自分を喜ばせるためなのだ。
エルヴィンが空を見上げるのにつられてアウリールも視線を向けると、すでにうっすらと月が出ていた。
もうしばらくすると、闇が空を覆い尽くすのだろう。
「ねえ、兄さま。時々、誰かの声が聞こえることがない?」
「…え?」
思わずエルヴィンの方を見ると、遠い何処かを見つめる真黒い瞳に月が浮かんでいるように見えた。
しかし日が落ちるにはまだ少し早い。
「助けてって聞こえない?」
「…声」
確かに、アウリールの耳にたまに誰かの声のようなものが届く事があった。
それは夢の世界、自分の心の声に近いものだとアウリールは考えていた。
しかしエルヴィンに問われて、ぐらりと心が揺れる。
彼は何か知っているのだろうか。
「あのね、僕、声が聞こえるの“たすけて”って」
「父さまと母さまにそれは言ったの?」
「ううん、言ってない…」
エルヴィンは言いながら俯いた。
いつもなら何かあれば真っ先に父か母に言うのに、どうしてそれを自分に言うのかアウリールは不思議に思った。
「誰の声なんだい?」
もし、エルヴィンが聞いている声がアウリールの耳に届くものと同じだとしたら。
言葉は途端に意味を持つ。
エルヴィンは顔を持ちあげて、アウリールを見上げた。
「フィリーネのこえ」
エルヴィンの答えに、アウリールはぐっと唾を呑みこんだ。
アウリールは彼女を想うばかりに幻聴が聞こえているのだと思っていた。
しかし同じ時期に、エルヴィンも同じ人の声を聞いたのだと言う。
アウリールは膝を折ってエルヴィンに視線を合わせ、正面から瞳を覗きこんだ。
「エルヴィン…君にも聞こえていたのか」
「うん。兄さま。フィリーネ、“助けて”って言ってる」
「…」
正直に言うと、アウリールは彼女が何と言っているかまでわからなかった。
だからこそ幻聴だと考えていたのだ。
だがエルヴィンにははっきりと彼女が助けを求める声が聞こえているらしい。
「フィリーネは助けてほしいって思ってる。だから声が聞こえるんでしょう…?」
エルヴィンが悲しそうな瞳で問いかけて、アウリールも僅かに俯いた。
誰かが強く想う心を感知する事は稀にあるが、エルヴィンの強い力は自分よりも強く彼女の想いを受けているようだ。
だとすれば、フィリーネが強く助けを求めているという事に他ならない。
ざわりと胸が泡立ち、すぐにでも飛びだしたいのか足が宙をふわりと浮いたような感覚になった。
「…エルヴィン、フィリーネは…本当に私達に助けを?」
エルヴィンは戸惑う様に瞳を揺らしたが、俯いたままはっきりと頷いた。
もしかしたら助けを求める苦しい心まで、エルヴィンは感知しているのかもしれない。
しかしアウリールにはどうする事もできなかった。
どんどんと心音は高まり、不安がじわりじわりと心を浸食していこうとしている。
だが、この封印を越えて彼女を助けに行くわけにはいかないのだ。
「エルヴィン…」
「兄さま。助けにいこう」
エルヴィンはアウリールの袖をひっぱりながら真剣な顔でそう言った。
心を覆い尽くす想いは“助けたい”でいっぱいなのに、一歩も動く事ができない。
彼女にはもう会えない。神聖族をこれ以上裏切るわけにはいかない。
古の約定を破ってはいけない。
でも。
「兄さま。助けに行こう…!」
美しい宝石のような瞳を潤ませながら、エルヴィンがそう言った。
小さな両腕で必死にアウリールの袖を引く。
「僕は、僕は人間を助けるための神様になりたい」
黒い瞳が、アウリールの灰色の瞳をいっぱいにする。
エルヴィンの言葉が、アウリールの頭を突きぬけていったような気がした。
自分が何の為に生れて来たのか、彼はわかっているのだ。
そして、アウリールは何の為に産まれてきたのか?
「…わかった。行こう、エルヴィン」
アウリールは意を決して立ちあがった。
彼女を助けに行く、誰が何と言おうと。
決心は誰の言葉でも揺るがすことはできないだろう。
しかし心の奥底では、また裏切ってしまうエドヴァルドへの想いがアウリールの髪を引くようだった。
※
あの日と同じようにフィリップに跨り、エルヴィンと共に人里へと降り立った。
フィリーネと別れた日のように、空には美しい満月が在ったが、夜闇は深く辺りを包みこんでいた。
「随分…静かだね」
この人里そのものが静かな眠りについているようだと思った。
いや、それどころではない。
眠りよりももっと深い、眠り。
二人は、あたりを見回しながら人里の深くへと足を踏み入れた。
「兄さま…」
エルヴィンが果敢無げに呟いた。
生き物達の声だけが静かに聞こえて、風の音が建物を通り抜けている。
誰かに見つからないようになんて心配は、無用だった。
息を殺して建物の中を伺ってみれば、塗り込めたような闇が広がるだけで、人の息使いも、温度も、何も感じられなかった。
「誰もいない…?」
この土地には人の気配が感じられなかった。
人がこの場を放棄したのか、人が滅んだのか。
それが何を意味する事なのか、アウリールにはわからない。
「フィリーネは、もういないんだろうか…」
何が起こっているのか、人間に何があったのか。
アウリールにとっては僅かな時間でも、人にとっては何か起こるのに充分な時間が過ぎてしまったのかもしれない。
フィリーネが助けを求めていたのも、本当に気のせいだったのだろうか。
そう思い、アウリールはため息を吐いた。
「…いるよ、兄さま」
「え?」
エルヴィンはアウリールの上衣の裾を僅かに引くと、闇の中へと視線を向けた。
「エルヴィン!」
そのま闇の中へと駆けて行ったエルヴィンを、アウリールは追いかけた。
外はまだ満月の光で明るく、彼の黒い髪でも、見失わずに追う事ができた。
そして、それは突然視界に現れた。
「あ…」
エルヴィンの足が止まり、アウリールの足もゆっくりと速度を緩めた。
月明かりの中、アウリールの目に突然映り込んだそれから、視線を外す事ができなかった。
「きみ…は…」
「あ…アウリール…さま…?」
目の前に立っていたのは、あの日別れた少女と同じ髪の色、瞳の色をした、女性だった。
女性は驚いたように目を丸めていたが、次第に瞳を震わせて、涙を流し始めた。
「どうして…どうして貴方が此処に…」
「き、君は…フィリーネ…なのか?」
記憶の中の彼女はまだ幼い子供だったが、目の前に立つ彼女はアウリールとそう変わらない歳のように見えた。
あれから、それだけの時間が流れたのだ。
フィリーネの前に立つ弟のエルヴィンだって、こんなに大きくなったのだから。
「もう…もう、二度と、会えないのだと思っていました」
「ああ…私もさ…でも…」
アウリールは改めて当たりを見回し、そして人の気配の消えたこの場所にひとりで現れたフィリーネを見た。
再会は嬉しく、彼女のように泣き出したい衝動に駆られたが、此処に来た目的はそれだけではない。
「フィリーネ…私達は、君の声を聞いたんだ」
「私の…声…?」
ゆっくりと頷き、フィリーネに応えた。
確かに、アウリールは聞いたのだ。
「助けて…って…そんな声が聞こえた。これは私の気のせいかい?」
「…それは…それは、でも…」
アウリールの問いに、フィリーネの視線は闇をさ迷った。
フィリーネはしばらく、迷うように口を開いたり閉じたりしていたが、彼女が何かを言うのを待とうと、アウリールは思った。
「フィリーネ、僕にも聞こえたよ。たすけてって声」
「君は…エルヴィン君…だよね」
フィリーネはしばらくエルヴィンを見つめていたが、やがて身体の中から全てを追いだすように、ゆっくりと長い息を吐いた。
「…この里の人達は…もう、半分以上が死に絶えました…」
「そんな…ど、どうして…」
やはり人は滅びたのか。
人とは容易く壊れるものだとは知っていたが、こんなにも簡単に割れてしまうものなのだろうか。
いや、そうであるなら、フィリーネが助けを求めるだろうか。
「原因はわからないんです…でも、きっと流行り病だろうって…」
「流行り病?人から人へ感染する…?」
「わ、わかりません…もう、わからないんです…。何が悪いのか、何が駄目だったのか…」
言いながらフィリーネは涙を流して、そのままくずおれた。
慌ててアウリールが駆け寄り、彼女の肩を支える。
身体は大きくなったが、酷く痩せて弱々しく見えた。
「原因がわからないまま、きっともう、この里は滅んでしまいます。私もきっともうすぐ…」
「そんな事は…!」
「家族もみんな死んでしまいました。友だちも…。今は、残っている人達の看病をしていますが…それも、きっと…」
なんて事だろう。
人の命は儚く、短いものだとは知っていた。
だけど、その短い命でさえも、全うできずに壊れていく。
「だから君は助けを呼んだんだね…」
アウリールの言葉に、フィリーネはふるふると首を振った。
「私…私は、誰にも神聖族の事を話したりはしませんでした。もう、会えないと、そう思っていたし、これは人間の問題だから…だから……だけど、頭の中で、アウリール様の事が思い浮かんで…」
心の底の悲痛な叫び。
それがアウリールと、エルヴィンに届いたのだろうか。
それはきっと、アウリール自身も彼女の声を聞きたいと思っていたから。
アウリールは、フィリーネの震える細い肩を抱いた。
「アウリールさま…会えて、嬉しかったです…」
涙を拭いながら、フィリーネはゆっくりと顔を持ちあげた。
「もう一度アウリール様とエルヴィン君に会えて、とても嬉しかった…。もう、もう大丈夫です」
瞳から涙をあふれさせながら、唇を震わせて、フィリーネは笑った。
なんて、なんて哀しい笑顔なんだろう。
そんな哀しい言葉で、貌で、どうして笑う事ができるのだろう。
その表情はアウリールの言葉を、貌を、心を凍りつかせた。