神聖の一族 5
神聖族にとって「死」とは、必ずしも悲哀や恐怖の対象では無かった。
残された者にとっては確かに悲しい別離ではあったが、それも次の「生」で再び巡り会うまでの事だ。
死せる者は魂が満たされる。
それは同時に、身体も精神も満たされるという事だった。
死にゆく者は皆、過去の幸せだった記憶を具に思い出すのだという。
そして幸福感に満たされたまま、役目を終えて次の段階へと魂を昇華させる。
神聖族の役目たる、「神に近づく」事になるのだ。
ゆえに「死」とは、神聖族が最も憧れるものでもあった。
天寿を全うする事こそが、神聖族の生命の意味だった。
「だからね…神聖族にとって最も恐ろしいのは、死が訪れない事なんだ…」
そうアウリールが語ると、フィリーネは少しだけ悲しそうな顔をしていた。
※
フィリーネの傷が快癒に近づくにつれて、アウリールの心は逆にどんどんと荒んで行くような心地だった。
彼女の傷が治る時はすなわち、別れの時を示している。
それも二度と会えないような、今生の別れ。
神聖族ならばそれでも“またね”と言えただろうが、相手は人間の子供だ。
こんなにも寂しい想いをするのは初めてだった。
「何を考えている」
「エド…」
フィリップの輝く白い鬣を梳かしながら考えごとをしていたアウリールに話しかけたのは、エドヴァルドだった。
アウリールはいつものように挨拶をしようと笑顔を作ったが、心の底から笑えず口を歪にゆがめるだけに終わった。
「お前らしくもないな」
「…うん。あのね、もうすぐフィリーネともお別れだと思ったらさ…」
アウリールはフィリップの鼻面を一度撫でて、エドヴァルドに向き直った。
そして自らの胸のあたりをきつく掴んで、溢れだしそうな痛みを堪える。
「ひどく寂しいんだ…苦しくて、怖いんだ…私は病気にでもなってしまったのだろうか」
「…」
何も言わずにエドヴァルドはしばらくアウリールを見ていた。
これが病気などではないとわかってはいたが、病気でなくば何と説明して良いのかわからない。
「人間にいれこみすぎたな」
「…そうかもね。これが神様の罰だというなら、私は受け入れるしかないのだろう」
だからこそ神は神聖族と人間が交わる事を禁じたのだろうか。
まさか人間がこれほど愛しい存在であるとは、知らなかったのだ。
「そうだな。仮に人間と交わるような事があれば、全てが無駄になる。数多の神聖達により高められた純血でなくば、神の命脈は保たれないのだから」
「…わかっているよ。安心して、エド。彼女は私が人間の里に必ず無事に帰すから」
歪な笑顔を張り付けたままアウリールがそう言うと、エドヴァルドはため息を吐いた。
「帰す前にフィリーネの記憶は消しておけ」
「記憶を…?どうして…」
エドヴァルドの突然の言葉にアウリールが戸惑いながらそう返すと、エドヴァルドは厳しい視線でアウリールを見た。
彼の目がこんなに恐ろしいと思ったのは初めてだ。
「他の人間に此処の事や神聖の事を喋るかもしれないだろう」
「フィリーネはそんな事しないと約束してくれた」
「子供だからわからんだろう」
エドヴァルドの言葉は、いつだって正しくアウリールを導いてくれた。
だから今回もきっと彼の言い分は正しいのだと、頭では理解できていた。
だが彼女から自分の記憶が消える、そう考えると胸に押しとどめていた激情が唐突に膨れ上がるのだ。
彼女の中の“アウリール”が死んでしまうのだと。
「それは…それはあまりにも寂しいんだ、エド。もし君が私の事を忘れてしまったら…それと同じくらい、私は悲しい」
大切の人の中から、自分という存在が消えて死んでしまう。
それは“大切な自分”でもあるはずなのに。
その大きな存在である“自分”が死んでしまう。
「お願いだよエド。たとえ誰かに此処の事を話しても、この場所へは二度と戻ってくる事はできないんだ…だから」
「…」
泣きそうに顔を歪めるアウリールを、エドヴァルドは厳しい目のまま黙って見ていた。
そんなアウリールにフィリップが寄り添い、顔に鼻面を近づける。
アウリールは涙がこぼれそうになるのをこらえながら、フィリップの顔を両手で抱いて頬を寄せた。
「…記憶を消した方が良いのはお前の方かもな」
エドヴァルドは言いながらアウリールに背を向ける。
「エド…」
アウリールが不安げにその名前を呼ぶと、彼は少しだけ足を止めてこちらを振り返った。
「安心しろ。お前の望まぬ事はしない」
静かな声音でそう言い残して、エドヴァルドは再びアウリールに背を向けた。
「エド…有り難う」
アウリールの言葉は届いているのかいないのか、エドヴァルドはそのまま足早に去って行った。
その背中を見つめながら、アウリールはまた心苦しい想いに苛まれた。
「ねえ、フィリップ…。私はいつもエドの期待を裏切ってばかりだね。彼はずっと私を支えてくれているのに…。私は少し彼に甘え過ぎているのかもしれないね」
フィリップはアウリールを慰めるように、一度優しく嘶いた。
※
月が痛い程に輝く夜だとアウリールは思った。
神聖族の里を見下ろす様に悠然と空に浮かぶ銀色の月。
その輝きは神聖族の力の象徴であり源であったが、照らし出す明るい道が今日は憎らしくもあった。
「大丈夫かい、フィリーネ」
「だいじょうぶです」
すっかり良くなった顔色でフィリーネはにこりと微笑んだ。
この少女の笑顔を見るのもこれきりかと思うと切なくなり、アウリールは繋いでいた手にきゅっと力をいれる。
フィリーネの傷が完治して三日、彼女は人間の里へと帰る事になった。
今日ほど月が明るければ、何か問題が起こっても力で対処できるだろうという判断だ。
人の目を避けて往く夜道には、手を繋いで歩くアウリールとフィリーネ、その後ろを歩くフィリップの背に乗ったエルヴィンだけ。
ほとんど修繕を終えた里の防護壁を抜けて、神聖の森へと入っていく。
森は広いために、三人で背に乗り、フィリップに走ってもらった。
こんな複雑な気持ちでは、自分の足ではとても軽快に歩けそうにははいとアウリールは思った。
アウリールの気持ちとは反対に、天馬は足早に駆けていく。
そして、あっという間に彼らが出会った場所へと辿りついてしまった。
「少し休憩しようか」
「…」
「どうしたの?」
馬から降りて俯くフィリーネに、まだ体調が悪いのだろうかと不安になって顔を覗き見る。
すると彼女の大きな瞳からぽろぽろと涙があふれ出した。
「アウリールさま…もう、もう会えないのですか…?」
「フィリーネ…」
その様子を見ていて、アウリールまでもが泣きだしそうになった。
しかしそれではまたエドヴァルドを裏切ってしまう。
アウリールは震えるように深く息を吐いて、膝を折ってフィリーネと視線を合わせた。
「とても寂しいけれど、人と神聖は仲良くしてはいけない決まりなんだ」
「ど、うしてですか…?」
フィリーネは泣きじゃくりながら必死そうな瞳でアウリールを見つめた。
その顔を見て声を聞いて、心臓が締め付けられような心地になる。
「それはね…私達が人間をとても愛しているからさ」
「…?」
「辛いなら君の記憶を消そうか?」
アウリールが眉尻を下げながら首を傾けて問うと、フィリーネはゆるゆると首を振った。
「いやです…。アウリールさまのこと、私ずっと忘れません」
「有り難う、フィリーネ」
その言葉だけで、彼女のなかで自分が生きていくのだと知れただけで、アウリールには充分だ。
とめどなく涙を流す少女をアウリールは優しく抱きしめ、彼女はしばらくそのまま泣き続けていた。
「フィリーネ」
いつの間にフィリップから降りたのか、エルヴィンが側に立っていた。
月灯りに照らされた黒髪は、背筋が冷えるほどに美しい。
幼い子供には似つかわしくない澄んだ表情のエルヴィンに、アウリールは一瞬息を呑んだ。
「エルヴィンくん…」
「泣かないで、フィリーネ。だいじょうぶだよ」
言いながら自分よりも大きい少女の頭に手を伸ばして、その髪を撫でた。
「エルヴィン…」
「ありがとう、エルヴィンくん」
フィリーネは目に涙を溜めながら、それでもようやく微笑んでくれた。
それを確認してからアウリールは立ちあがる。
「フィリーネ。君が言ってくれたように、私達も決して君の事を忘れはしないよ。私達はいつも君の事を想っている」
「はい、アウリールさま…」
少女は哀しみを断ち切るように一度深く息を吸い込んでから、濡れた瞳のまま、それでも強い視線でアウリールを見返した。
幼い瞳に秘めた別れの決心をアウリールは感じ取り、優しい微笑みを返す。
少しでも彼女の寂しさが和らぐように、と。
それからフィリーネとエルヴィンを馬の背に乗せ、自身も跨った。
夜闇を駆け抜ける白い馬は、人間の領域まで軽々と飛びあがった。
初めて見るその場所は神聖の森と大して変わらないと思ったが、確かに息づく生き物たちの声が聞こえる。
アウリールはそれをひとつひとつ目に留めていった。
しばらく馬を駆っていると、民家と思しき建物が見えた。
遠目からしか見えないが、神聖族の住まう家々よりかは小さいが大して変わらない様式に見える。
「あれが君の村かい?」
「そうです…!」
村の様子を見て、フィリーネは一瞬ぱっと表情を輝かせる。
すべての不安を振り払ったようなその明るい笑顔は、彼女の居場所は此処なのだとアウリールに思い知らせた。
馬を下降させて、人の気配の無い場所にフィリーネだけを下ろした。
「あの…アウリール様。有り難う、ございます。私アウリール様に出会えて…神聖族の人達に出会えて、とってもうれしかったです」
「私も君に出会えてよかった。君の事は決して忘れない」
「…月を見るたびにアウリール様の事を想います」
この大きな銀色の月が見守る空の下。
アウリールも夜がくるたびにこの日の別れと、過日の出会いを思い出すのだろう。
何よりも暖かで優しい思い出として。
彼女の中に生きる自分に想いを馳せるのだろう。
「それじゃあ、さようなら。フィリーネ」
「さようなら…」
アウリールはこれ以上の悲哀を断ち切らんばかりに、勢いよく馬を駆った。
天高く舞い上がり、フィリーネの姿は瞬く間に小さくなり、そして見えなくなった。
「…にいさま。アウリールにいさま」
アウリールの腰にしがみついていたエルヴィンの微かな声が聞こえた。
風を切る音が耳にうるさい程なのに、小さな弟の声ははっきりと耳に届く。
「にいさま。かなしいの?さみしいの?だいじょうぶだよ、にいさま」
エルヴィンの小さな手に、きゅっと力が入るがわかった。
「だいじょうぶ、にいさま。またぜったい会えるから…」
この幼い弟の精一杯の優しさが、アウリールの胸を突く。
涙があふれ出しそうで、それでもアウリールは笑顔で弟の方に振りかえった。
「ありがとう、エルヴィン…」
その時はまだ、“それ”が彼の幼い優しさなのだとアウリールは思っていた。
此処でお知らせ(?)です。
「月と魔術師と預言者と」のストックが此処で切れてしまいました\(^o^)/
というわけで、しばらくは番外編(完結済み)をあげていきたいと思います。