神聖の一族 4
エドヴァルドのところまで戻ると、彼は驚いたように目を見開いた。
馬に乗ったアウリールを見上げるその目に、鋭い色が灯るのがわかった。
彼にもこの子供の異質さがわかったのだろう。
「…アウリール、その子供は」
「怪我をして倒れいたんだ。母さまに治癒してもらおうと思って…私じゃあこれ以上どうして良いか…」
「だが、アウリール…」
エドヴァルドは眉間に深い皺を刻んで唸るように言った。
彼の立場からは賛同するわけにはいかないのだろう。
アウリールは少し困ったように微笑んだ。
「あそこに放置しておくわけにはかなくって…だめかな、やっぱり」
エドヴァルドはアウリールが抱いた子供をサッと確認した。
そして瞑目のあと、ため息を吐いた。
「………仕方が無い。此処は私がなんとかしておく。エーデルトラウト様の元へ行くと良い」
「ありがとうエド。頼むよ」
エドヴァルドの短い返事を聞くと、アウリールは天馬を颯爽と走らせた。
※
エーデルトラウトに事情を説明すると、何も言わずにすぐ治療を施してくれた。
人間は神聖よりも体力が弱いらしく、特に子供ならば他の動物よりも弱い事があるらしい。
だから目覚めて回復するには少し時間がかかるだろうと、寝所で子供を看病することにした。
他の神聖に知られると混乱を招く可能性があったので、アウリールの私室でひっそりと匿った。
長い茶色い髪の子供は、外見上は神聖族とほとんど違いはなかった。
違う事といえば、身につけているい服の素材や造りくらいなものだ。
だが、神聖族から感じられる“力”がすっかりと抜け落ちてしまったかのような弱々しさを感じる。
「不思議な気分だ…」
アウリールがぽつり、と呟く。
すると、寝ている子供の睫毛がぴくりと動いた。
「う…う…」
か細い声が耳に届いて、アウリールは子供に近寄った。
子供は震える目蓋を押し上げると、茶色い瞳を天井に向けて、何度か瞬きをして目を眇めた。
アウリールは緊張からか、自らの身体が震えているのがわかった。
「だいじょうぶ?」
どうして良いかわからず、とりあえず声をかけてみた。
子供の肩が僅かに震えて、ゆっくり首を動かしてはっきりこちらを見た。
その瞳には、自分はどんな風に写っているのだろう。
怯えさせないためにも、アウリールは僅かに微笑んだ。
すると子供の唇が僅かに動いたので、耳を近づけた。
「あ…て、てんし…さま…?」
「てんし?」
「…わた…わたし…死んだの?」
“死んだの?”
そう問うているように聞こえる。
言葉が通じるのだろうか、アウリールはゆるゆると首を振った。
「ううん。君は生きているよ」
「ほ、ほんとう…?あなたは…?」
「私はアウリール」
にこりとアウリールが微笑むと、子供は頬を震わせてきごちなく微笑み返した。
※
しばらくして子供が完全に覚醒してから、アウリールは事情を説明した。
子供は僅かに驚いた様子でしばらく放心していた。
無理もないだろう、アウリールとて内心は緊張と興奮で気分の高揚を抑えられないでいる。
どう接すれば正しいのか、冷静な判断はできていないのかもしれない。
だが、アウリールは子供を助けた事に一切の後悔も無かった。
子供の名前は“フィリーネ”と言った。
そしてやはり、彼女は“人間”であった。
人間の子供の回復にはしばらく時間がかかるらしく、全快するまでアウリールは子供を匿う事にした。その数日の間に、色んな事を話した。
「神聖さまの事は…聞いた事があります…。神様のお使いの方だって。ほ、本当に、いたなんて…」
初めは怯えていたのか何も話さない少女だったが、アウリールが献身的な看病を続けるうちに少しずつ口を開いてくれた。
「人間の世界ではそんな風に言われてるんだね」
「ちがうんですか?」
「ちょっとだけね」
アウリールが力を使うたびに、フィリーネは驚いて感動していた。
その新鮮な反応が面白くて、アウリールは色んなものをフィリーネに見せた。
そして人間の世界の話を幾度となく聞いた。
「そうなんだ…人間はそんな風に生活しているんだね」
「は、はい…あ、あの……」
フィリーネは時折怯えたように瞳を震わせていた。
得体の知れないものに囲まれたこの状況では落ち着けという方が難しい。
少しでも心安らかになって欲しいと、アウリールは微笑みかけた。
「ごめんね?勝手に連れてきたりして…怖いよね?君の家族も心配してるだろうし…」
「か、家族の事は心配ですけど、その…ち、ちがうんです…えと、その……わたしの村では、神聖さまはとても尊い神様みたいなお方だと…だ、だから…その…わたし」
「気にする事ないよ。君の話を聞いていて確信したよ。私達は人間とそう変わらないってね。無条件で人間に崇められるような事は何も、ないよ」
アウリールがにこりと微笑むと、少女は少し瞳を潤わせて微笑んだ。
「…でも…ほんとうに…アウリールさまはとてもステキで、優しくて…神さまが助けてくれたんだって…」
「そんなに大層な事はしていないよ」
アウリールがフィリーネの頭を撫でると、そのたびに彼女は照れたようにはにかんだ。
※
アウリールが人間の子供を匿っている事を知っているのは、家族とエドヴァルドだけだった。
人間と交流してはいけないという教えを深く守っている人々には、フィリーネは厄介な存在にしかならないだろう。
だが、アウリールにとって人間…フィリーネは、とても愛らしい小さな花のように感じられた。
ずっと愛でていたいような、そしてそっと守らなければと思わせるような存在だった。
アウリールは人間と交流してはいけないという教えを、守り続ける意味をしばし問うようになっていた。
そのたびにエドヴァルドには「情に流されるな」と窘められた。
フィリーネの身体が回復すると共に、彼女の口数も段々と増えていった。
「あの…アウリールさま」
「ん?なんだい?」
「エーデルトラウトさまは…アウリールさまの…」
「ああ、母だよ」
アウリールが何気なくそう言うと、フィリーネは驚いたような声をあげた。
その反応に逆に驚いたのはアウリールの方だった。
「えっええ…で、でも…」
「私はそんなにおかしな事を言ったかな…?」
「あ、じゃあ…エルヴィン君は…」
「エルヴィンは弟だよ」
フィリーネが実際目にした事のある神聖はアウリールと、たまに治療を施すエーデルトラウト、そしてエルヴィンだけだった。
時機があわず、ヴェンデルベルトは未だ彼女が眠っている顔しか見た事はない。
「そ、そうだったんですか…わたし、てっきり…」
「てっきり?」
「エーデルトラウトさまはアウリールさまの奥さまで、エルヴィン君は子供かと…」
「あはは」
アウリールが思わずおかしくなって笑うと、フィリーネは照れたように顔を真っ赤にして伏せたので、謝りながに頭を撫でた。
「確かに年齢の違いなんて、見た目じゃわからないからね」
「あ、あの…アウリールさまは何歳なんですか?」
「私はまだ23歳だよ。どうかな、見た目通りかな?」
アウリールが問うと、フィリーネは納得したように頷いた。
「わたしは、12歳です。み、見た目通り…ですか?」
「ああ。神聖族と変わらないよ。ただ、私くらいの歳になると、もう年齢の違いは見た目でわからなくなるだろうね」
「そ、そうなんですか…エーデルトラウトさまは…アウリールさまと同じ歳くらいだと思っていました」
「そうか…書物で読んだ事があるよ、人間には“老い”があるのだったね…」
時間と共に身体が“衰えていく”という現象は、神聖族には理解できない概念だった。
最高まで高まった身体能力が自然に落ちるという事は、神聖族には無いのだ。
それゆえ成人した神聖族は皆、年齢という概念がほとんど無くなっていくのだとフィリーネに説明した。
「それに、人間の寿命は僅か百年足らずだって聞いた事もあるな…」
「ひゃ、百歳なんて…すっごく長生き、です」
「そうか…身体が衰えていくなら、生きていくだけの体力を保つ事はできないもんね」
「あの…じゃあ、神聖族の方は…死なないのですか?」
フィリーネが首を傾げて疑問を呈すると、アウリールは静かに首を横に振った。
「いや、死は訪れるさ。私達にもね」
「でも…身体は衰えないんです、よね…?」
「うん。でもね、私達には“魂”というものがあって、それが時機を迎えると身体から抜け落ちる」
「た、たましい…?人間には無いものです」
フィリーネは覚束ない発音で繰り返して、首を傾げた。
「そうなのかもね。魂っていうのはね、神聖族の“力”そのもの…と、いう感じかな。神聖族は、この世で生きてる間にその魂を磨くんだ。生きている間はずーっと魂に経験を積ませている。そして魂の器がいっぱいになると、身体におさまりきらなくなる。そして神聖族は死ぬ」
「い、いっぱいになるのに死んじゃうんですか…!」
フィリーネが驚いたように目を丸める。
それも人間と神聖の違いかと、アウリールは思った。
「うん。でもね、そうすると少しだけ“器”は大きくなるんだ。そしてそのまま、次の身体でまた“生”を繰り返す。これを私達は“生まれ変わり”と呼んでいる」
「…?ご、ごめんなさい…わたしには…よく…」
理解できなくて混乱したのか、泣きそうになるフィリーネにアウリールは微笑みかけた。
神聖族なら直感的に理解できる事であっても、それを持ち合わせない人間にはわからないのだろう。
「わからなくて良いんだよ。そうだね、見た目は人間と違うのかもしれない。だけど神聖も必ず死ぬという事は変わり無いさ。生まれ変わっても、前の“生”の記憶が残っているわけではないからね。それに人間と同じく、身体が著しく損傷したら魂は身体から抜け落ちる…つまり死ぬんだ」
「大きな怪我したら死んじゃうって事なんですね…。神聖さまはふつうは何年くらい生きるんですか?」
「そうだね…短くても百五十年は生きるのが普通じゃないかな。長ければ三百年は生きている人もいる。そして死にゆくに連れてその姿は最も美しくなるんだ」
そして寿命の長さと美しさは力に比例する。
最も力ある者の血を残すためだろう。
母であるエーデルトラウトも二百年くらいは生きているのじゃないだろうかと、アウリールは思った。
「…す、すっごく長生きです…!それに死ぬ間際が最も美しいだなんて…」
「人間とは生きる時間が凄く違ってしまうね…」
この少女も、アウリールが生きているうちにあっという間に死んでしまうのだろうか。
何時とも、何処ともわからぬ場所で。
当然アウリールはそれを知る事も出来ず、そして看取ることもできない。
すぐに別れの時がくる。
ほんの短いこの時間が、アウリールの半分を占める程に感じられた。
それほどに“人間”やフィリーネという存在はアウリールにとって大きなものになっていた。
いつかこの時間も、この幼い少女の遠い夢の中の世界になってしまうのだろう。
そしてあっという間に命の灯が尽きてしまうのだ。
それとは反対に、自分はその思い出を人間にとっては長い長い間、心に納め続けるのだろう。
そんな想いが胸を過るたびに、アウリールは深い悲しみと切なさに囚われるのだった。