神聖の一族 1
彼はその子供が産まれた日の事を、今でも鮮明に思い出す事ができた。
産声が聞こえた瞬間、人々は皆涙を流しながら地に伏していた。
神への祈念と、祝福と、礼讃と、感謝と。
いくつもの言葉が波の様に連なって響き渡る。
場所や季節に関係なくあらゆる花々が同時に咲き乱れ、風花となり舞い踊る。
雲ひとつ無い晴天の中で雷鳴が轟き、雪が光を受けながら散っていた。
地を割って顔を出したのは見た事もない美しい白い花で、それを人々は“高貴な白”…エーデルヴァイスと呼び慕った。
それら全ての奇跡が、その子供の為に起きたのだ。
アウリールはその日の事を、生涯忘れる事は無かった。
クロヴィスを継承する者であり、すべての神聖族が待ち望んだ神の子。
…弟である、エルヴィンが産まれた日の事を。
※
「フィリップ、何か聞こえたかい?」
アウリールの問いかけに、彼は高い声で答えた。
雪よりも白い馬が翼を広げ、寄り添うようにアウリールに鼻面を近づける。
「…泣いている?それは大変だね。様子を見に行ってみようか」
彼の鼻を撫でて、アウリールはその背に跨った。
白い天馬が地を蹴り空に飛び上がる。
二歩、三歩と空を蹴りあげるたびに、高く高く舞い上がる。
アウリールは長い白銀の髪を青空に翻し、高い空を飛んだ。
※
「いやっ。ぜったいにもういかないもん!演奏会やらないもん!」
「だってエルヴィンがやりたいって言ったんだろっ。みんな楽しみにしてるんだし」
「だってぼく、もう笛ないもん。ふけないもん」
神聖族の中でも一番大きな、神殿とも呼ばれる屋敷の玄関口。
高く大きく連なる柱のひとつに抱きついて、黒髪の幼い少年が首を左右に振った。
その様子を見て頭を抱えたのは金髪の少年だった。
ひとつ括りにした波打つ金髪を背中に流し、その髪を軽く梳く。
「笛だったらかわりのがあるからさ。それ吹けばいいじゃん」
「いやっ。かあさまの笛じゃないとだめなの!」
「それは昨日おまえが壊したからもうないんだよ」
金髪の少年がそう言うと、黒髪の少年は大きな黒い瞳を見開いた。
その瞳を震わせると、大粒の涙が溜まり溢れだした。
「あああああぁぁあああんっああああっ」
「うっるせー!」
天を劈くような、悲鳴にも近いその泣き声は金髪の少年の鼓膜を激しく揺らした。
慌てて耳を押さえるが、泣き声は更に大きくなるだけ。
大きく口を開けて、涙をぼろぼろ流しながら黒髪の少年は喚いた。
「ああああぁぁああ゛あ゛っああーんっ」
「もうっうるさいっ。エルヴィンのなきむしっ」
金髪の少年が対抗するように大声でそう言うと、途端にぽん、と暖かい感覚が頭の上に乗った。
「今日はまた随分と大声だね」
「アウリールさま…!」
そのまま金髪を撫でながらアウリールは現れた。
アウリールの声が聞こえたのか、黒髪の少年は一旦泣くのを止めてその姿を凝視する。
まろぶように駆け出すと、そのままの勢いでアウリールの腰に抱きついた。
「にいさまぁ~!」
「エルヴィン。どうかしたのかい?」
エルヴィンと呼んだ少年の黒髪を撫でて、アウリールは苦笑した。
ため息交じりに答えたのは金髪の少年だった。
「エルヴィンが練習にでないって言うんだよ」
「それは困ったね、リーン」
ため息を吐きながら金髪の少年…リーンハルトはごしごしと頭をかいた。
「だって…ぼく、笛がないの。笛がないと、えんそう、できない…」
嗚咽と涙を流しながら、エルヴィンは訴えるようにアウリールにそう言った。
小さな手でアウリールの服をきつく掴んで、真剣なまなざしで見つめてくる。
「昨日壊れてしまったんだったね」
「ぼく、あの笛じゃないとやだ。練習できない」
エルヴィンが生まれた時に、母であるエーデルトラウトか作った銀色の横笛。
その笛を彼はとても大事にしていた。
それが昨日、うっかり手がすべって彼自身が高い所から落としてしまったのだ。
光を弾くように輝いていたまっすぐの横笛は、ぐしゃりと捻くれてしまった。
それからの泣きわめきは普段の比では無かった。
点いた火は延々と収まらず、エルヴィンはわんわんと喚き続けていた。
疲れて眠りについて、今日になって少し落ち着いていたが、リーンハルトが練習に誘いにきたことで思い出したのだろう。
アウリールが膝を付いて視線をあわせると、エルヴィンは首に抱きついて肩口に顔を埋めた。
「エルヴィン、演奏会を楽しみにしていたじゃないか」
「でもね、あの笛じゃないとだめなの。笛がないと…」
アウリールは再び泣き始めたエルヴィンを抱えあげながら苦笑した。
そのままリーンハルトの側まで寄ると、彼の頭を撫でた。
「せっかく迎えにきてくれたのにね」
「アウリールさま…」
心配そうに見上げるリーンハルト。
エルヴィンの一番の友人であり、目付役でもある。
しかし目付役と言っても、エルヴィンとは2つしか変わらない幼い少年だ。
喧嘩する事も多いし、彼ら自身では解決できない事も多いだろう。
「エルヴィン聞いて」
「…にいさま…」
抱えあげたまま視線を合わせるために、一度エルヴィンの顔を離した。
嗚咽を漏らしながら、目を真っ赤にしてアウリールを見るエルヴィン。
その様子はとても子供らしいのに、澄んだ真黒い瞳を見るたびにぞくりと背筋が冷える気がした。
まるで夜空をそのまま映し込んだような瞳は、涙に濡れても輝きを損なわない。
「私も演奏会が楽しみなんだ。エルヴィンが出ないととても寂しい」
「でも…笛が無いの」
ふるふる、と首を横に振るエルヴィン。
「きっと母様も父様も君の演奏を楽しみにしているよ」
「…でも」
「上手に演奏できたら、きっと母様は新しい笛を作ってくださるよ」
アウリールのその言葉にエルヴィンはぱっと顔をあげた。
嗚咽も段々収まってきたようだ。
「ほんとうに?」
「きっと母様ならそうなさるよ。エルヴィンが上手に演奏できたらだけどね。そのためには練習しないと」
アウリールが微笑むと、エルヴィンは一度顔を伏せた。
そのまま身動ぎしだしたので、彼を地に下ろした。
「…わかった。ぼく、れんしゅうして笛、うまくなる。だから演奏会、きてね」
「もちろん。楽しみにしているよ」
ようやくぎこちなく笑ったエルヴィンに、アウリールも満足して微笑んだ。
ごしごしと目許を乱暴に拭いてから、リーンハルトに駆け寄る。
リーンハルトはむすっとした表情でエルヴィンを見た。
「なんだよ。おれの言う事きかないくせに…わんわん泣いて泣き虫のくせに…」
「だって」
「エルヴィンなんかもう仲間にいれたくねー、よッ…!?」
不満を口にしたリーンハルトの背後に、突然背の高い人が現れその頭を軽くゲンコツで殴った。
軽く、といってもリーンハルト自身は相当痛かったらしく、頭を抱えて屈みこんだ。
「不遜な口を聞くもんじゃない」
「エド…!」
一瞬の出来事にアウリールは驚いていた。
突然リーンハルトの背後に現れて、大人げなくその頭を殴った青年はエドヴァルドだった。
「いった!何すんだよエドヴァルドさまっ」
「エルヴィンに不遜な口を聞くな。身分を弁えろ。そう言っている」
「でもっ」
「でも、じゃない。お前は友だと言われて調子に乗っているかもしれないが、所詮は召使だと言う事を忘れるな」
リーンハルトが不満そうにエドヴァルドを睨みつける。
そんな彼を庇うように、アウリールが一歩進み出た。
「そんな事ないよ、エド。今回はエルヴィンが悪かったんだ。だからリーンが怒るのも無理は無いよ。ね?エルヴィン」
アウリールが微笑みかけると、エルヴィンは下を向いたまま僅かに頷く。
目線は合わせないままだったが、そのままリーンハルトに向き直った。
「…ごめんね、リーン。ぼくも…れんしゅう、ちゃんとするから…仲間にいれて」
「…わかったよ」
まだ不満そうだったが、リーンハルトはそのままエルヴィンの手を取った。
ぱっと顔をあげて嬉しそうにエルヴィンが笑い、振り向いてアウリールに手を振った。
仲良く手を繋ぐその様子を見てアウリールも安心して、二人を見送った。
二人の影が見えなくなるまで見送ってから、アウリールはようやくエドヴァルドに向き直った。
「ほらね、エルヴィンはそんなに特別じゃないよ」
「あれは特別だ」
アウリールの言葉にエドヴァルドは真っ向から否定した。
「だが、お前は甘やかしすぎだ」
「えー?そうかなぁ。仕方ないよ。エルヴィン可愛いし」
「お前の兄馬鹿話はもう聞き飽きた。可愛いのは幼児の時までだ」
あははとアウリールが笑うと、エドヴァルドは眉間に皺を寄せてため息をついた。
エドヴァルドはエルヴィンに対するリーンハルトと同じく、アウリールの目付役で側近で幼馴染である。
誰よりも身分や立場を大事に考え、クロヴィングの一族であるアウリールやエルヴィンを敬っていた。
「クロヴィングの一族の者は元より、神の意志を継ぐ特別な存在…我等普通の神聖族とは既に別物だ。敬ってしかるべきだろう」
「そんな事ないよ。神聖族は皆同じさ。神聖族は上下を作らない…そうだろう?」
「クロヴィングの一族とそれ以外…という上下以外はな」
アウリールが苦笑で応えると、エドヴァルドは憮然とした。
確かにクロヴィングの一族は神聖族の族長のようなものである。
しかし上下という程のきっちりとした戒律は必要ないと思っているし、そこまでして敬われるものでも無い。父も母もそう思っている。
だが、エルヴィンはその中でも特別であると、誰もが心で感じているのは否定できなかった。
「だったらエルヴィンだけで充分だよ。皆、私に優しすぎるくらいさ。本当は特別だとわかっているのに、父様も母様も分け隔てなく愛してくださる」
心の中では誰もがエルヴィンを特別に思っていた。
それは抗えない本能に近いものである。
それでも態度では示さずに、皆が同じくアウリールを慕ってくれている事に感謝していた。
「…私はお前が“そう”なるのだと思っていた。皆もそう思っていた。…いや、私は今でも」
「それは違うよ。わかっているでしょう?」
エドヴァルドが言いきる前に、アウリールが笑顔で制した。
それだけは絶対に違うと言い切る事ができた。
エルヴィンが去って行った方を見ると、風もそちらの方へと流れて行く。
「エルヴィンが産まれた時の事を覚えているでしょう?忘れるはずがないよね」
「…」
エドヴァルドは何も応えなかった。
それを肯定だと理解して、アウリールは言葉を続ける。
「君だってあんなに泣いていた」
「…それは仕方が無い。自分の意志では無い」
「そうだね。私なんか三日も泣き続けて…嬉しくて仕方無かったよ。そんなに泣いたのはお前だけだって父様は笑われたけど」
目を閉じると今でも鮮烈に思いだす事ができた。
初めてエルヴィンの姿を見た時の事を。
「普通の赤ん坊だったんだよ。それなのに、姿を見もしないのに、皆示し合せたように涙を流した。…それこそが“しるし”だろう?」
エルヴィンという名を付けたのは母エーデルトラウトだった。
その名前を何故だかずっと昔から知っているような気がした。
「…天馬に認められたのはお前だけだ」
「フィリップの事かい?」
「天馬に跨る事が許されるのは、神とその守手だけだ」
アウリールの愛馬フィリップは、天馬と呼ばれる翼の生えた馬だった。
天馬は常に孤高で、神聖族の集落の近くの神聖の森に住んでいた。
決して神聖族と交わる事はなく、触れようと近づけばふっと姿を消す。
そんな天馬がアウリールがまだエルヴィンくらいに小さかった頃、突如彼の前に現れてその膝を折ったのだ。
アウリールが手を伸ばすと天馬は嬉しそうに嘶いて、彼を背に乗せて大空へと飛びあがった。
その奇跡的な光景に人々は皆平伏してアウリールを敬った。
「天馬はお前以外の言う事は聞かないし、お前が許さなければ触れる事すらまかりならない。神聖な生き物だ」
「確かにフィリップは私に懐いてくれてる。でもフィリップはエルヴィンに触れられる事は許しているんだ。まあ、エルヴィンはまだ一人では馬に乗れないんだけど」
アウリール自身はと言えば、天馬に会ったその時から馬に乗る事ができた。
「だから気付いた。一目でわかった。私が、エルヴィンの為に産まれて来た彼の守手なんだって事が」
クロヴィングの一族に生まれその血を受けながら、アウリールは白銀の髪と灰色の目を持って産まれた。
両親ともその血筋を表す真っ黒な髪と瞳を持っていたのに。
だからこそ特別な色を持つアウリールこそが、待ち望まれた子なのだと人々は思っていた。
預言の時節と近く、その二人から産まれる子こそが待ち望んだ子であると考えられていた為もある。
だからそのような敬意を以て、人々はアウリールを大切にしてくれていた。
しかしエルヴィンが産まれた時に、人々は悟ったのだ。
今まで自分がそうなのだと教えられてきたアウリールに、少しだけ嫉妬心があったのは否定できない。
しかしエルヴィンを見た瞬間に、そんなものは何処かへと吹き飛んでしまった。
それほどに強烈な印象と、抗えない想いを植え付けられたのだ。
その血筋を表す、真っ黒の髪に真っ黒の目。
対する自分は、輝く白銀の髪に灰色の目。
「私は気づいたんだ…エルヴィンとは全く違うこの容姿を持つ意味に。私はエルヴィンと対をなす存在…彼の足りない部分を補う為だけに、助ける為に産まれてきた、彼の守手」
「アウリール」
「だから私は誰よりも知っているし、思っているよ。エルヴィンが特別な子だって」
アウリールがそう言い切ると、エドヴァルドの軽いため息が聞こえた。
また兄馬鹿だと呆れられているのだろうかと思って彼を見れば、何故かくすくすと笑いだした。
「笑うとこだった?」
「いや…お前は矢張り馬鹿だな。本当に何も考えていない」
「本能に忠実って言って欲しいな」
「ああ、動物並にな」
やっぱり呆れているのだろうかと思ったが、悪い気はしない。
「だがアウリール。お前がそう言うのなら、私はエルヴィンが無事“そう”なるように全力で尽くそう。エルヴィンの守手であるお前に従う事が、私の産まれた意味で誇りなのだ」
「有り難う、エド」
心の中で、改めてアウリールは神に誓った。
その特別な…神に成る為に産まれて来たエルヴィンのために。