別れの歌、約束の唄 3
三千年という目も眩むような長い時間。
だけどそれはエルヴィンにとっては連続したたった17年の一部でしかなく。
神聖族は滅んだのだと知っているのに、エルヴィンの家族や友達だった人々はまだ生きているような気がしてならない。
その矛盾にエルヴィンは喘いだ。
「うう…」
「エルヴィン、大丈夫かい?」
優しい声が降ってきて振り仰ぐと、ウルリヒが眉を顰めて心配そうにこちらを見ていた。
違う、ウルリヒじゃない。
「に、兄様…?どうして兄様が此処に…?い、今は三千年後…?ぼくは、俺は…」
「混乱しているようだね。少しゆっくり話しをしようか」
“彼”はエルヴィンと同じ目線になるように膝まづいた。
穏やかな濃灰色の瞳がこちらを覗く。
ひと目見て気づいた。
“彼”はウルリヒではない。
天馬の乗り手、白き賢者アウリール。
そう呼び慕われていた。
エルヴィンの最愛の家族の一人。
母と父を同じくする、たった一人の兄。
「アウリール兄様…父さまや、母さま…リーンは…」
「…私も父さま達の晩年はわからない。ただ、もう、この世に残る神聖族は君一人だ」
本当は聞かなくてもわかっているが、そうじゃないと言って欲しかった。
“家族は何処にいるのだろう?”
学園に居た頃に抱いていたそんな純粋な疑問に対する答えは、ずっと持っていたはずなのに。
それを今まで忘れていたというだけ。
ぽかりと空いた穴はもう二度とふさがる事は無いと思い出しただけ。
だからなのだろうか。
“ただ一人”という言葉に一瞬だけ心音が早まった気がするが、すぐに落ち着いて現実を受け入れる事ができた。
だけどそれが、今はもういない人達への背徳感へと変わっていった。
「そう…だよね。だって…三千年も…経ってるん…でしょう?」
「うん。間違いなく。君は実感できないかもしれないけれど」
その三千年の時間は、エルヴィンにとってはひと晩にも満たない。
まどろみのような一瞬の眠りについて起きてみれば、全ての記憶を失い三千の時が経っていた。
それからのたったの七年間は、三千年後の世界の住人の一人として暮らしていたのだ。
頭で整理していくうちに、絶望感と喪失感は少しずつ消えていく。
本当は寂しくてたまらないはずなのに、どうして自分はこんなにも落ち着いているのだろう。
自覚は無くとも、三千の悠久の時を心が理解してしまっているのだろうか。
代わりに埋め尽くすのは感傷的になれない自分への背徳感。
…あんなに愛していたはずなのに。
少なくとも三千年前に戻り家族と再び巡り合う事はもう出来ないのだと、嫌という程わかった。
そう、だったはずなのに。
「どうして…?どうして兄様は…此処に…ウルリヒの身体にいるんだ?それに…」
エルヴィンはエドヴァルドを見た。
今はもう何の表情も伺えない。
ただ、彼の射抜くような視線が力無く項垂れるエルヴィンを見据えていた。
「…どうして…エド…どうして…貴方が…貴方がこんな事を…?」
エドヴァルドの事を思い出した。
思い出した途端に悲しくなった。
どうして、彼がこんな事をするのかわからなかった。
神聖を扇動して人と争わせたり、ライヒアルトを傷つけたり、ウルリヒをその手にかけたり。
「どうして…」
エドヴァルドは唇を引き攣らせて僅かに笑った。
「さあ…。アウリールにでも聞いてみれば良い。奴には、私の動きが解っていたみたいだからな」
「違うよ、エド。私もエルヴィンと同じ気持ちだよ」
アウリールは立ち上がり、エドヴァルドを見据えた。
普段のウルリヒから想像できないくらい、怜悧な視線だった。
「どういう意味だ。私がこうして三千年後に現れるとわかっていたから、お前も“そう”したのだろう?」
「エド…。私は…心から君を信頼していた。だけど………逃れられないね」
アウリールが俯くと、エドヴァルドは怪訝そうに眉を顰めた。
「あ」
突然アウリールが顔を上げて空を見上げた。
かと思うと、ぐるりとマリアンネの方を向く。
マリアンネは小さく引き攣った声を上げると、足を絡めながら走って未だ膝をつくエルヴィンに縋った。
エルヴィンの服を掴むマリアンネの手が僅かに震えているのが伝わってくる。
無理も無いだろう。
彼女にとっては、今しがた死んだと思った人物が息を吹き返したのに、それがまるで別人かのように振舞うのだ。
そして殺した本人とも解り合っているようで、この場で自分だけが何もわかっていない。
そんな状況に不安を感じているのだろう。
攫われてからずっと不安が極限状態のままで、それからウルリヒの突然の死。
それにまったくわけのわからない状況が続いて、エルヴィン以上に混乱して怯えている。
そんな彼女の姿を見ていて、逆にエルヴィンは徐々に落ち着きを取り戻していた。
彼女をどうにかしてやらねばならないと思うと、自然と思考は現実へと引き込まれる。
少し皮肉っぽくもあるが、心の中で礼を言いながらエルヴィンはマリアンネの手を優しく叩いた。
「だいじょうぶ、マリー。あの人はアウリール。俺の兄だ。とても優しい人だから」
「で、でも…ウルリヒ…ウルリヒ、は…」
「………」
エルヴィンが黙ってアウリールを見上げると、困ったように笑っていた。
アウリールはゆっくりと近づいてきて、再び目線を下げてマリアンネに顔を近づけた。
マリアンネは更にエルヴィンの背の後ろへと身体を縮こまらせたが、目線だけはなんとか彼を見ている。
彼女なりに状況を理解して冷静になろうとしているのだろう。
「ごめんね。怖がらせてしまったようだね。大丈夫、安心して。君に何もしないし、何もさせるつもりはないよ。…君はあの人に似ているね」
「あの人…?」
アウリールが柔らかく微笑む。
マリアンネの震えが止まった気がした。
「…だからエドも君を攫ったのかな」
「え?」
アウリールが手を伸ばすと、マリアンネはきゅっと目を瞑った。
その手は彼女の頭に優しく触れて、柔らかく髪を撫でた。
「君の大切の人の身体を奪ってしまってごめんね。…そうだね、君にもわかるように説明するよ」
にこりと微笑みをマリアンネに残してから、アウリールは今度はエルヴィンを見た。
「エルヴィン。神聖族がどういう一族だったかは、覚えているかな?」
アウリールの問いかけに、エルヴィンは頷きを返す。
「神を作りだすために…延々と転生を繰り返す」
「そう。神聖族の魂は転生を繰り返すたびに力を増していく。魂は何度も生まれ変わる」
崇高なる目的のために。
アウリールはちらり、とエドヴァルドを見た。
「つまりね、ウルリヒは私…アウリールの生まれ変わりであり、フローリアンはエドヴァルドの生まれ変わり、なんだよ」
「う、うまれかわり…?」
マリアンネが不安そうな声で言った。
エルヴィンが知る限り「転生」などという概念はこの時代にはすでにほとんど無かった。
だが神聖族では、魂が転生するのは当たり前の事で、自分が“何者の生まれ変わりであるか”誰もが知っていた。
学園や教会にあった魔力測定の装置…あれは元々自分が誰の生まれ変わりであるかを知るために在ったものを、作り変えたのだろう。
「そう。つまりね、私達は三千年前にもう死んだ存在なんだ…肉体はね。だけどその中身…私達は“魂”と呼んでいるのだけど、その魂はまっさらな状態になり、新たな身体に再び宿るんだ。そうする事で神聖は魂の経験を積んで、錬度をあげていく」
マリアンネにも解り易い言葉を選んでいるせいであろう、まるで何か工作でもしているみたいに聞こえた。
「魂はまっさらなのだけど、本当は記憶も経験も全て内包しているんだ。つまり…ウルリヒっていうのは、記憶をゼロにしてイチから人生をやり直した私自身、とでも言うのかな」
「…貴方が、ウルリヒ…?」
マリアンネが目を丸くしながら、アウリールを見つめて言った。
「そう。だけど…人生が違うという事は、それは既に別人だと考えてしまって良い。現に私はウルリヒの全てを知る事は出来ないし、ウルリヒは私を知らない。そうする事で、神聖族は何度も何度も“生”を巡り、魂を精錬させていく。積もった“生”の分だけ人から外れ、神に近づいていく…」
それが神聖族が、ずっと信じ続けていた真実。
全知全能を目指すための果てない旅路。
マリアンネに再び視線をあわせて、アウリールははにかむように笑った。
「えーと…そうだな…いうなれば、ウルリヒは別の人格の私で、私は別の人格のウルリヒである。そういう事だよ」
マリアンネは目を瞬かせる。
わかるようでわからない、そんなふわふわした説明をするのは兄のクセだった。
アウリールはあはは、と誤魔化すように笑った。
「魂という同じ部屋に住む住人同士で、この部屋は“ひとり”なんだけど…えと…つまり、私はウルリヒの同居人…と、そんな感じに考えてくれればいいよ」
「…じゃあ、ウルリヒは何処に?」
マリアンネが小さな声で囁く。
うん、と答えてからアウリールは目を伏せた。
「普通はね、内包した記憶が、今の魂を凌駕するなんて事は無いんだ。だけど私は、そこに特別な魔術をかけた。魂…生命そのものに、私自身を少しだけ残すという形でね。だけどこの私の“意識”は、ウルリヒの生命を奪う事は無いはずだった」
ウルリヒの顔をした兄は、再びウルリヒらしからぬ表情になった。
「私は…ウルリヒに呼び掛ける形で、彼に私の意志を伝えていた。それぐらいしか出来ない程の小さな灯だった。だけど…さっきウルリヒの生命の灯が、私の生命の灯と同じくらいに小さくなった時、ウルリヒは私にこの身体の命を譲ると言ったんだ」
「それって…」
エルヴィンが声を荒げると、アウリールはゆっくり頷いた。
「ウルリヒは最期の力で、私をこちら側へと引き上げた。…彼自身は、もう既に魂の内側に内包されてしまった」
「…それ、は…」
マリアンネの掠れた声が耳に届く。
エルヴィンの意識が、再び闇の方へと追いやられていく。
「肉体という扉からは一人しか出て来れない…そして一度扉の内側に入れば出て来ることはできない…ウルリヒの心はもう死んでしまったよ」
鉛を呑みこんだように、身体の中に何かが沈んでいく。
マリアンネがぎゅっとエルヴィンの服を掴んだのがわかった。
小さな嗚咽が耳に入る。
やけに全身の感覚が鋭くなっていく。
ああ、やっぱり。
「ウル…」
名前を呼んでも、彼は矢張り応えないのだ。
全身の力が抜けて、どうやっても力が入らない。
と、突然強い力に引かれた。
「ごめんね…君達の大切な人を奪うような事になってしまって…私は…本当に…酷い兄だ…」
アウリールがエルヴィンとマリアンネを両腕で抱きしめていた。
ウルリヒの小さな身体では抱えきれず、エルヴィンは彼の肩越しにぼうっと空を見ていた。
肩あたりに感じる兄の腕のぬくもりは、ウルリヒのそれと変わらない。
生きているのに、彼はもういない。
「…兄様は酷い人なんかじゃない。ウルリヒは俺と兄様を会わせたかったんだ。兄様ならわかるだろう?…ウルリヒなんだから」
「ああ…ああ、エルヴィン。わかるよ…。だから、私は…」
アウリールの背中が震えているのがわかった。
そうだ、兄だって辛いのだ。
アウリールは、エルヴィン達よりも長くウルリヒの傍らに居たのだから。
何もできなかった“私”の代わりに―――。
ウルリヒはそう言っていた。
その“私”は、きっと。
「兄様…ありがとう。俺とウルリヒを逢わせてくれて」
「ふふ…ウルリヒも同じことを言っていたよ…私と君のおかけで生きてこれた分を、お礼として返すって」
「…そっか」
ウルリヒらしいな、と思った。
結局自分はウルリヒを救うことができなかった。
果たせなかった約束は、何処に託せばいいのだろう。
その返事も返ってくることはもはやないのだなと、エルヴィンは目を瞑った。
しばらくしてアウリールはようやく二人を離した。
マリアンネは両手で顔を覆って肩を震わせている。
どうやら泣いているようだ。
エルヴィンは彼女の肩を軽く叩いた。
「マリー。少なくとも、お前のせいじゃないよ」
「で、でも…お兄様の時みたいに…ウルリヒも、私を庇って…!」
「違う。全部エドヴァルドの策略だったんだ。そうだろう…?」
静かにこちらを見ていたエドヴァルド。
表情は未だに少しも変わっていない。
「マリアンネを斬るフリをして、最初からウルを斬るつもりだったんだろ」
「…ふっ」
エドヴァルドは何も応えなかった。
ウルリヒがただで斬られるなんて事は無い。
だからマリアンネを囮にして、その刃を向けたのだ。
エドヴァルドがウルリヒを斬った。
そう、解っているはずなのに、未だに彼がそんな卑劣な事をするなんてと思っている自分もいる。
「エド…君も同じ魔術を使っていたんだね…。意外だったよ。君がこの禁忌に手を出すなんて」
「ああ…そうだな」
魂に縁を残すという事は、魂をひとつの“生”に縛り付ける…即ち、精錬を諦めるという事だ。
精錬されない魂など、神聖族にとっては何の意味も無いもの。
それをあのエドヴァルドが行うなんて。
「だが私は違う。私はフローリアン…奴から奪ったのだ。この身体を。私の目的の為に」
「どうして…そんな事」
「幼かったお前には何が何だったかよくわからなかった事だろう。話してやってはどうだ?アウリール」
アウリールはしばらく目を伏せていたが、やがて真っすぐな視線をエルヴィンに向けた。
「そうだね、エルヴィン。少し思い出話をしようか」
エルヴィンはゆっくりと頷いて、記憶の水底に意識を向けるように目を閉じた。