別れの歌、約束の唄 1
月を解放する方法の手がかりを探す為に、二人はウルリヒの家へと向かった。
ウルリヒの家は代々ずっと同じ場所にあるらしく、もしかしたら何かあるかもしれないとの事だった。
頼り無い情報ではあるが、何も見つからない以上は仕方ない。
来た道を引き返し、門近くのウルリヒの生家の前まで戻って来た。
やはり此処も草が生え伸びて、家の中は埃と土の匂いがする。
帰って来た家の主のお出迎えなどとても出来そうな状況では無い。
ウルリヒは「あはは」と笑いながらも家の扉を開けた。
「でも、何処を探せばいいんだろう…」
「俺にわかるかよ。お前の家だろ」
「うーん、そうなんだけど…」
なんとなく中に入るのに勇気が要る気がする。
同じく放棄された家屋のあったクンツェルや、アーヘンバッハの街にあった廃教会よりも何倍も怖い。
人の気配を感じないどころか、人の存在そのものを消し去ってしまっているような気さえする。
山の中の獣道を通る時、こんな感じがするのかもしれない。
もしかすると既に野犬なんか住みついているのではないだろうかと、エルヴィンはそっと家の周りを見渡した。
「あれ…」
草が生え伸びていて判別がつきにくかったが、家の扉の前の小さな庭のように開けた場所に、白い花が咲いている事に気がついた。
濃い緑色と雪白色の花。
「ウスユキソウだよ」
ウルリヒが家の中から顔を出して答えた。
「エーデルヴァイスだな」
「え?これがエーデルヴァイスだったの?」
「知らなかったのかよ」
緑、白、黄色と綺麗に咲いたその花は、教会の象徴にもなっているエーデルヴァイスだ。
そういえばよく見ている余裕が無かったので気付かなかったが、村のあちこちに咲いている。
エルヴィンがその花を眺めていると、途端に視界に揺れる光が入った。
「そろそろ暗くなるから。このランプ、まだ使えそうだなって」
「大丈夫かよ」
確かにもう陽が落ちて辺りはとても暗い。
星があるといっても気がつけばお互いの姿を見失ってしまう。
ウルリヒが手に持っていたランプを家の軒先に吊るした。
エルヴィンの視界がいっきに明るくなり、白い花々のひとつひとつがまるで灯のように小さく輝いているように見えた。
花を目で追っていると、ふと、見知らぬ影が視界に入り、エルヴィンはさっと顔を上げた。
「誰だ!」
「遅かったな」
声と共に、闇の中から影が人の形となって現れる。
「エドヴァルド…!」
最後に見たあの時の姿のまま。
相変わらずよくわからない笑みを浮かべたエドヴァルドが立っていた。
ウルリヒはさっとエルヴィンの傍に寄って横笛を構えた。
「どうして此処に…!マリアンネは」
エルヴィンが問うと、エドヴァルドが闇の中に手を入れたように見えた。
そこからマリアンネがまろぶように腕を引かれて現れる。
怯えたように顔を引き攣らせて、助けを求めるように大きな瞳が二人を見た。
「どうやって此処に…」
「さあな」
挑発するようにエドヴァルドは言った。
答えるつもりは無いらしい。
「あ…ウル…リヒ…エルヴィン…」
「マリー…!だいじょうぶ!?」
ウルリヒがそう声をかけると、マリアンネの瞳からぽろぽろと涙がこぼれた。
「マリーを離せ…!」
ウルリヒが喚くようにそう言うと、エドヴァルドは口の端を釣り上げて僅かに笑った。
「月を解放する方法は、思い出したのか?」
「…?わ、わかんねぇよ…まだ」
「やれやれ。さっさとしなければこの娘がどうなるかわかったものではないぞ?」
自分で捕えておいて余裕そうに笑いながらエドヴァルドはそう言った。
マリアンネが一瞬恐怖からか表情を歪める。
「そ、そんな事いったって見つからないもんはしょうがないだろ…!お前こそ意味深な事言っておいて…本当は解放の方法を知ってるんじゃないのか?月を解放して欲しいなら、その方法を教えろよ。いや、知ってるなら解放するのはお前だって良いはずだ」
「何を言っている」
エドヴァルドがす、と目を眇めた。
「私がその方法を知っていたとしても、月を解放できるのはお前だけだ。そんな事も忘れたか?」
「ど、どういう事だよ…」
「…」
エドヴァルドはエルヴィンの問いに答えず、大仰にため息を吐いた。
「アウリールも厄介な事をしてくれる…」
「なんだよ…」
「まあ、良い…私はアウリールに信用されていなかった。だから月の解放の方法は知らない。それで満足か?」
「…?アウリール…」
いくつもの預言を残し、エルヴィン達を導いた存在アウリール。
エドヴァルドの放った言葉の意味をよくよくエルヴィンは考えた。
アウリールは月の解放の方法を知っていたから、月の解放へとエルヴィン達を導けた。
そういう意味なのだろうか。
「もしかして…月を封印したのは、アウリール…なのか?」
「…」
エドヴァルドは何も言わない。
ただ色の無い表情のまま、エルヴィンを見ていた。
月を封印した張本人ならば、月の解放の方法を知っているはずだ。
月を封印する程の力を持った、三千年前の神聖族。
それならば…三千年後を予感し、エルヴィン達の存在をも知っていてもおかしくは無い。
「お前は…三千年前の神聖族、なのか…?」
「…その問いの答えなら、私に問わずともわかっているはずだ」
それはエルヴィンの推測が正しい、という事なのだろうか。
三千年前の神聖族。
計り知れない力を持っていたという彼ら。
三千年後の世界に何故、どうやって現れたというのだ。
「どうして…」
「質問ばかり煩い奴だ。少しは考えてみてはどうだ?」
「…」
そんな事を言われても、エルヴィンはもう何もわからなかった。
月を封印したかもしれないアウリールが、何故自分達を月の解放に導くのか。
どうしてエドヴァルドは三千年後の現世に現れて、こんな事をするのか。
どうして月を解放するのがエルヴィンなのか。
全てがうまく結びつく答えが見つけられない。
「わからないか?ならば私が手伝ってやろう」
突然エドヴァルドが腰の剣に手をかけた。
驚いて身構えると、エドヴァルドは片手でマリアンネの腕を掴んだままもう片方の手で剣を鞘から引き抜く。
現れた刀身は灯りを全て受け止めて赤々と輝いていた。
「紅い…剣」
「そう。アヒムあたりから聞いただろうが、この剣は神聖を斬り、力を奪い取るものだ」
ライヒアルトがその剣を受けた時、確かに身体から力が抜けていくのを見た。
そしてライヒアルトは衰弱していったのだ。
エドヴァルドは紅い剣の刃を突然マリアンネに向けた。
「…!」
マリアンネは息を呑み、怯えたように瞳を震わせる。
しかし紅い剣では、人間は斬れないはずだ。
「…紅い剣は私が作りだし、そしてこの剣はそれを改良したものだ。元々この紅い剣は“人間と神聖の絆”を斬るためのものだ」
「…ど、どういう…」
「神聖と人と、ひとつ身体の中で共存する力を斬り相反させる…。だから力が流れ出るのだ」
「…!」
「さて、この剣はその力を増幅させたものだが…この娘のように、人間ではあるが神聖の血も僅かに持つ者…そのような者を斬ればどうなると思う?私はまだ試した事がないのだが…」
紅い血のような刀身がマリアンネに近づく。
「止せ!」
ウルリヒが叫んだ。
エドヴァルドは口許に笑みを浮かべたまま、少しも躊躇う素振りは見せない。
「ならば止めてみるが良い」
突然、エドヴァルドはマリアンネの腕を引き、その背中を押した。
マリアンネが躓きながらこちらに向かってくる。
しかし背後でエドヴァルドが紅い剣を振り上げるのが見えた。
「ま…!」
エルヴィンが手を伸ばそうとした瞬間、ウルリヒが目の前に飛びだした。
「…!」
マリアンネがエルヴィンの視界の端で転んだ。
しかしエルヴィンはそれを気にしている余裕は無かった。
瞳の中に映る景色が理解できない。
「…やはりな」
エドヴァルドの呟きが空気を震わせる。
「う…う…ぐ」
うめくような声が鼓膜を静かに揺らす。
瞬間、エルヴィンの頭の中に、セリムが刺された時の事、ライヒアルトが斬られた時の事が過った。
でも今はそのどれよりも心臓を凍りつかせている。
「ウル…」
ウルリヒの背中から紅い剣が飛び出していた。
背中から奇妙なものを生やしているようだ。
エルヴィンが固まったままその光景を凝視していると、エドヴァルドが音も無く、剣を引きぬいた。
「うっ…」
引き抜くと同時に、ウルリヒが力無く倒れていく様子が、酷く緩慢に見えた。
「ウルリヒ!」
エルヴィンはようやく状況を理解して彼の下に駆け寄った。
顔面から倒れたウルリヒを仰向けにさせるが、その表情を見てエルヴィンは再び身体の自由を奪われた。
「う、ウルリヒ…?ウルリヒ!」
口から洩れるのは切れ切れの吐息。
瞳は何処を見ているのかわからず、光すら認識していないようだ。
身体は傷ひとつ無く血も流れていないのに、ウルリヒの身体から紅い空気がどんどんと漏れ出していくのがわかった。
「うっ…ハァ…はぁ…ま、マリーは…」
ウルリヒが閉じそうになる瞼と口を必死に動かすようにそう言った。
マリアンネは足を絡ませながら、ウルリヒの下に駆け寄る。
「あ、わ、わたしは…へ、へいき…う、ウルリヒ…いや、…いやぁ!」
マリアンネが叫んだ。
そして少しも動かないウルリヒの手を掴んだ。
「いや…わたし、わたし…また…お兄様の時も…いやぁ…私、わたし…そんな…」
マリアンネは錯乱したように両手で自分の顔を掴みながら身体を折り、無意味な言葉を繰り返し呟き続け、たまに甲高く叫んだ。
だがエルヴィンの目には映らず、命の灯を散らしてしまいそうなウルリヒの方が気になって仕方がない。
「ウルリヒ、おい、しっかりしろ!」
「ご、ごめん…ね…」
ライヒアルトの時なんかよりも、ずっとたくさんの量の紅い力が流れていく。
傷口も無いから、どうして止めれば良いのかわからない。
それなのにウルリヒが衰弱していっている事は自分の事のようにわかるのだ。
「あ…える…ヴぃん…ごめ…ね。せっかく…」
ウルリヒが何か言おうと必死に唇を動かしていたが、僅かな吐息だけが漏れ出る。
「うるさい、黙れ」
「な、泣いてる…の?さいきん、ずっと…泣いてばっかりだね…」
「うるさい!」
どうすればいいのだ。
早く医者か神聖に診せないと死んでしまう。
だが此処は人里離れた場所だ。
ふ、とエドヴァルドの持つ紅い剣が目に入った。
「その紅い剣を寄越せ!」
「どうする気だ」
「アルミーンに帰る…!」
「無駄だ。お前にそんな事ができるのか?」
エドヴァルドの言う事を無視して、エルヴィンは掴みかかるように剣を奪った。
ウルリヒの肩を掴んで、アーベルがそうしていたように、震える手に力をいれて剣に意識を集中させる。
「…くそっなんでだよ。なんでだよ…!」
しかし剣は何も言わない、何も応えない。
使えない紅い剣をエルヴィンは地面に叩きつけた。
どうして自分は何も出来ないのだ。
ウルリヒの短く漏れる息遣いがエルヴィンを焦らせた。
咄嗟にエルヴィンはウルリヒを背負った。
「何処に行くつもりだ?」
「医者を探す!」
「これからか?ご苦労な事だ」
エドヴァルドの嘲笑なんか今は気にしていられなかった。
今は彼に対する怒りよりも、ウルリヒを助ける事で頭がいっぱいだった。
エルヴィンはなんとかウルリヒの腕を掴んだが、力無いウルリヒの身体は予想以上に重くてうまく背負えない。
それでも引きずるようにしてエルヴィンは歩き出した。
「エルヴィン…もう、もういいよ…わたしは…ようやく、」
「死ねるとか言ったら怒るぞ」
エルヴィンが歩くたびに、ウルリヒの足が地面を抉る音が耳に届く。
マリアンネがすすり泣く声、ウルリヒの息使い。
「、…ら、…」
ウルリヒの口から絶え絶えに、何かが聞こえてきた。
「くそっ…もう、もう良いよ…!」
エルヴィンは頭の中が真っ白で、胸が焼けつくような心地だった。
ぼろぼろと涙が泉のように溢れていき、足跡の代わりにエルヴィンが歩いた痕を残す。
「らら…ら…」
「もういいって!」
ウルリヒから聞こえたのは、いつものあの歌だった。
どうしてこんな時に唄えるんだ。
それでも段々と歌えない時間が長くなっていく。
だけどウルリヒがあの歌を歌っているのだというのはわかった。
「エルヴィン…きいて」
そう聞こえて、エルヴィンはウルリヒを一度下ろして木の根元に座らせた。
「もう…もう、良いよ…ウルリヒ。充分だ」
「そう…。あ、り、が…とう」
ウルリヒはもうエルヴィンの方を見ていなかった。
半分瞼は閉じていて、瞳は光を探そうともしていない。
そして僅かに引き攣るように唇を震わせた。
笑っているつもりだろうか。
ウルリヒはぴくりと、僅かに手を震わせた。
「ふ、ふえ…」
「笛…?」
見ると傍に笛が転がっていた。
エルヴィンはそれを拾ってウルリヒに見せるが、見えているかどうかは分からなかった。
「………それを、君に…」
ウルリヒは唇の端を釣り上げて、震えるように目を眇めた。
笑って、いるのだろう。
それから数度瞬きをして、なんとか瞼を持ち上げようとしていたが、一度息を吸うと同時に瞳は完全に閉ざされた。
待ってみても、瞼が持ちあがる事は無い。
「…ウルリヒ?」
エルヴィンがウルリヒの頬に触れても、ウルリヒは何の反応も示さなかった。
白銀の髪が風に流されるままになびいて、光を受けてちらちらと輝いている。
「おい、ウル」
頬を軽く叩くが、顔は力なく項垂れたまま。
エルヴィンは恐る恐る、手のひらをウルリヒの胸に当てた。
それから手首を触って、耳を胸に近づけてみた。
「…嘘だ」
あんなに強くて傷ひとつ負った事の無いウルリヒ。
今はエルヴィンが何をやっても、ウルリヒは薄暗い表情で深く眠り続けたまま。
「ウルリヒ…?」
何度名前を呼んでも彼からはもう何の反応も帰って来ないと理解するまで、エルヴィンは名前を呼び続けた。