ウルリヒ 6
「エルヴィン…?」
誰かが名前を呼んだ。
エルヴィンはそちらの方をゆっくり振り向いた。
隣に居たのは見なれたはずのウルリヒの顔。
だけど、確かに目の前の粗末な墓には“ウルリヒ”が眠っているようで。
「…ウルリヒは別人になったって事か?」
ようやく口から出たのはそれだけだった。
他にもたくさん何か言いたいはずなのに、何を言いたいのかわからない。
「わからないよ。だって、かつての“僕”を知っている人はもういないんだから…」
ウルリヒはこんなに寂しい声を出す人だったろうか。
ずっと傍にいたはずなのに、どうしてそんな事もわからないのだろう。
ウルリヒから話された出来ごとは、それほどエルヴィンにとって衝撃だった。
頭の真髄まで貫くような、ひどく重い衝撃。
何を考えればいいのか、何を想えばいいのか。
全くわからなかった。
「わたしは…わたしはもう自分は死んでいると思った。だから、全部君に選択してもらおうと思ったんだ。死んでいるわたしが、何か物事決められるはずも無いからね」
ウルリヒの声が氷のように固まっていたエルヴィンの思考を、少しずつ揺らす。
そういえば、ウルリヒはいつも“君の選択に従う”と言っていた。
彼が強引にエルヴィンを旅に連れ出した時以外に、何か強要した事があっただろうか。
「旅に連れ出して月の解放に導いた事は…それだけは、わたしの唯一の“生きていく理由”だったから。それだけはやらなきゃって思った…君に強いる事になっても。“わたし”が死んでしまえば、本当に村は忘れ去られて失くなってしまうと思ったから…」
「それだけ?」
エルヴィンの問いかけに、ウルリヒはしばらく黙って何も応えなかった。
どうしてそれを聞いたのか、今はエルヴィンにもわからない。
「…君は優しいね。だから、こんなわたしでも受け入れてくれるとわかって甘えていたよ。…それが君の重荷になるとわかっていてもね」
エルヴィンは何も応える事が出来ない。
ただ足元からじわじわと湧きあがる何か自分でもよくわからないモノが、溢れだしそうで。
右手が僅かに震えだした。
「わたしは変わりたかったから、不細工だってわかっていても、無理やり一人称を変えたりしたんだ。わたしは、何も出来ない自分を変えたかった。君の前では違う自分で居たかったから。でも…わたしは君の前で自分を偽る事は…できなかった。それは本当だよ。今までの自分がどうだったかも忘れてしまっていたし…だから君の前にいる“わたし”は、偽りのない“ウルリヒ”に違い無いよ」
ウルリヒの独白に似たその呟きが、身体の芯を揺さぶった。
「…だからか?」
「え?」
うるさい程に頭の中で喚いていた何かの感情が、突然シンと静まりかえった。
「だからお前は、俺の重荷になるとか、そんな事で苦しんでいたのか…?」
「…エルヴィン。だってわたしは、君の重荷になると知って黙っていたんだ。勝手にわたし自身の運命を託してしまって」
「そんなことどうでもいい」
声が震えて、うまく発音できない。
ウルリヒがこちらを振り返ったのがわかったが、未だに顔を持ち上げる事ができない。
「お前が…ウルリヒがそれで生きていけるっていうなら、そんな事が重荷になるはずがないだろ…!だけどお前は、お前のまんまで生きていたかったんだろ…!」
「エルヴィン…泣いてるの?」
ウルリヒの顔をやっと見れたはずなのに、視界は酷く歪んでいる。
頭が熱くて痛くて、何も考えられない。
まっ白になった頭の中で、ただ湧きあがる激情が言葉を走らせる。
喉に詰まって、吸い込む息が苦しくて、うまく喋る事ができないけれど。
「お前馬鹿だよ。本当にどうしようもない馬鹿だ」
「怒ってるの?…ご、」
ごめんね。
そう、声にならない小さな音が聞こえたような気がした。
その言葉が聞こえた瞬間、エルヴィンはウルリヒに飛びかかるように彼の肩を掴んでいた。
「怒ってるよ!だってお前…本当は生きたいんだろ…?だったら…だったらなんで…なんで死にたがるんだよ!」
頭が溶けて、それが涙になってるみたいだ。
瞳からあふれ出るたびに、頭の中は真っ白になっていく。
「エルヴィン…」
「だって、そうだろ…?」
エルヴィンはウルリヒの話を聞いていて、気づいてしまった。
彼が人を助ける理由、彼が自分の身を顧みない理由。
それはずっと彼が自分の身を擲つ事が出来るほど、お人好しで優しいだけだと思っていた。
でもそれだけでは無いと気づいてしまった。
「もう、自分は死んでる…?馬鹿だろ、お前。そんなわけ無いだろ。死んだ奴がどうやって俺を助けてくれるんだ。どうやって俺を連れだしてくれるんだ」
「エルヴィン…」
「どうしてそんな事言うんだ」
ウルリヒの肩を掴む自分の手が震えているのがわかった。
顔を持ち上げる事ができず、涙が落ちて滲みる地面をずっとずっと見続けていた。
それでもエルヴィンは、どうしてもウルリヒに言わなければならない事があった。
だから力を振り絞って顔をなんとか持ち上げた。
エルヴィンの非力では、ウルリヒを僅かでも動かす事はできなかっただろう。
それでも滲んだ視界の向こうのウルリヒは、痛みに耐えるように表情を歪ませていた。
「必ず…必ずフローリアンは助けてやる…。お前が生きてるんだって証明してもらう…!」
「エルヴィン…」
「だから…お願いだから死ぬとか、死んでるとか…そんな事言わないでくれ…!俺が…」
それだけ言うと、遂にエルヴィンは立っている事ができなくなって、膝から頽れた。
地面に手をついて、目の前は真っ暗で。
もう自分でも何がなんだかわからなかった。
ウルリヒがいてくれたから。
ウルリヒの存在が、記憶の曖昧なエルヴィンの存在を支えくれていたのだ。
それなのにその存在が死んでいる?
だったらエルヴィンの記憶も全部死んだも同然だ。
なんて脆い。
「うっ…ううっ…うぁあ…」
「エルヴィン…ごめんね。…有り難う」
ウルリヒの呟きは、泣き喚くエルヴィンの耳にもしっかり届いて響いていた。
※
エルヴィンはしばらくの間、自分でもわけがわからないぐらい泣き続けていた。
そうして気がついた時には、辺りは薄暮に包まれていた。
膝に顔を埋めてぐちゃぐちゃの感情を吐き出し続けていたが、少しずつ嗚咽は収まっていく。
こんな風に盛大に泣いたのは二回目だと、自覚したと同時に様々な自己嫌悪が襲いかかって来た。
「…もう大丈夫?」
ウルリヒの声が聞こえた。
顔は未だに膝から離れる事は無かったが、隣にウルリヒが座っている事はわかった。
だけど体調がおかしくなるのではないかと思うぐらいの嫌悪感で、頭を上げる事が出来ない。
「馬鹿だろ…なんで俺が泣いてるんだよ…」
ようやく出た言葉がまた、エルヴィンをどん底へと引っ張った。
本当に辛い想いをしたのは、ウルリヒの方なのだ。
なのにどうして自分が彼を責めて、関係の無い自分が泣くのだ。
「うん…でも、わたしは嬉しいよ」
「悪趣味…」
「あはは。でもね…君を見てて思い出したんだ。そういえばわたし、あの時もそれからも、一度も泣いてないんだなって」
そう言われてようやくエルヴィンは少しだけ顔をあげて、ウルリヒの横顔を覗き見た。
今は穏やかそうに少し笑っていて、“いつものウルリヒ”のように見える。
「なんで?」
「なんでかなぁ…感情が壊れちゃったのかも。そういう意味では…うん、やっぱり僕は死んだのかもしれない。でもね…今思いだしたよ。こんな時に人は泣くんだなって」
確かにウルリヒは泣いていなかったけど、痛みを抱くような表情は何度か見たことがある。
「泣いてないじゃん」
「うん、すっかり時機を逃しちゃったみたい」
困ったようにそう言って笑うウルリヒの顔は、今は泣いているようにエルヴィンには見えた。
「…ごめん」
再び腕と膝に顔を埋めて、エルヴィンは呟いた。
「…どうして謝るの?」
「…違うんだよ。さっきお前の事、責めたけど。お前より俺の方がよっぽど馬鹿だよ」
「どうして?」
ぐっと膝を引きよせて、エルヴィンは更に小さくなった。
ウルリヒが自分の事を蔑ろにするのが許せなかったし、ついあんな事を言ってしまった。
だけど本当に許せないのは彼ではない。
「お前がそんな風に考えてるの知らなかった。知ろうともしなかった。お前がどんな苦しみを抱えてるかも知らずに、好き勝手な事言って頼ってた俺の方が馬鹿だ」
苦しいのはまるで自分だけだとでも言う風に。
ウルリヒの明るさや前向きな所に憧れていた。
でもそれが、深い闇の中で頼りなく輝くたった一筋の光だなんて知らなかった。
それが恥ずかしくて、悔しくて、腹立たしい。
「何も言わないからって甘えてたんだと思う…」
ウルリヒの旅の理由も、ウルリヒの過去も。
気になってはいても、聞きだそうとは思わなかった。
それは何処かで、ウルリヒは自分が見ているままの、映る姿のままの、エルヴィンが見ている彼が全てだと思っていたのだろう。
そしてその事に安心して、甘えていたのだ。
そんな事があるわけないのに。
「良いんだよ、エルヴィン。だってわたしはエルヴィンが頼ってくれて、凄くうれしかったんだもの。ううん…嬉しいなんてもんじゃないよ。エルヴィンやマリアンネがわたしを頼ってくれる…それがわたしの生きてるって実感でもあったんだから」
ウルリヒの声の合間に、風の音が耳を掠める。
音は途切れないのに、どうして静かだと感じるのだろう。
「ライヒアルトさんが前にね、“私がマリアンネを想う気持ちが君になら理解できるはず”って言った事あったんだ。それはね、きっとこの事だったんだと思うよ」
「この事…?」
「マリーはとても純粋にわたしを頼ってくれるから…そうするとね、わたしがいなきゃならないって思えるから…。存在しなくちゃならない気がしたから。だから、マリーやエルヴィンに頼っていたのは、本当はわたしの方なんだよ」
「でも…」
「わたしね、あの時は不思議に思わなかったんだけど、旅をしていて、どうしてわたしだけ生き残る事が出来たんだろうって思ったんだ。…それはやっぱり、エルヴィンに会うためなんじゃないかって、今は思ってる」
へらり、と笑いながらそう言うウルリヒの声を聞いて、エルヴィンもふっと力が抜けるのを感じた。
膝に乗せた腕に頬を預けて、ウルリヒの顔を改めて見る。
あたりは暗くなってきているけど、白い光のような白銀の髪と、優しい濃灰色の瞳が、穏やかな光を湛えていた。
やっぱり彼はウルリヒだ。
「ほんと他人の事ばっかり」
「…そうかな?」
「そうだよ」
言いながらエルヴィンは立ちあがった。
少しだけ遅れてウルリヒも隣で立ち上がる。
「俺はお前に助けられてたし、お前が俺に助けられたっていうなら、俺だって…嬉しいよ」
「そっか…そうだね。じゃあ、お互い様だね」
その時ようやくエルヴィンは、ウルリヒの前向きな笑顔を見れたような気がした。
死にそうだったウルリヒを助ける事が出来ていたなら、それで良い。
エルヴィンは頷きながら衣服についた土を払い落して、軽く深呼吸をした。
「今は、マリアンネが助けを必要としてる」
「うん…行こう」
エルヴィンはぽつぽつと薄暗い空に現れ出した星を仰ぎ見ながら、更に深く息を吸い込んだ。