ウルリヒ 5
それから数日の間、ウルリヒはただ穴を掘り続けた。
永遠に手と足を動かし続けられるのではないかと思う程に、疲れを感じることもなく延々と。
ただ暗い暗い穴の底を見つめ続けて、土を掘り返した。
そして丁寧に柩をその穴へと納めていく。
墓場の場所が足りなくなれば、木を切り倒して、畑を潰して穴を掘った。
墓石に適当な岩や石を運んでそれぞれ名を刻み、広場にあった柩が全て埋められたら頃には、ただただ広い墓場が出来上がっていた。
「…」
ウルリヒは既に声の出し方を忘れていた。
声を出すことを忘れていた。
考える事も忘れてしまって、何も感じる事もできなかった。
もう自分が生きているのか死んでいるのかすらわからない。
此処にはウルリヒが生きていると証明してくれる人は誰ひとりいないのだ。
「…」
ふ、と。
目に入ったのは長老の家の広場にあったカレンダーだった。
もう今日がいつなのかもわからなかったが、丁度ウルリヒの誕生日ぐらいの日かもしれないと思った。
成人の義。
それをしてくれる人はもういないし、してあげる事もできなかった。
ウルリヒは村の空になった家々を回り、ウスユキソウの花を取ってそれで花冠を作った。
最後にフローリアンの家をもう一度覗くと、誕生日の祝いの言葉を書いた短い手紙と花束を作るための材料が置いてあった。
彼はこれで花束を作ろうとしてくれていたのだろうか。
ウルリヒはそれで花束を作って、墓場へと持って行った。
誰もいない成人の義。
だけど村の人達はウルリヒの為に用意してくれていたのだ。
「…」
それから…。
それからウルリヒは何をしたらいいのか、まったくわからなくなってしまった。
もう生きていく理由が無い。
名前を呼んでくれる人も、笑いかけてくれる人も。
親しかった人達はみんないなくなってしまった。
こんな世界に、一体なにが残っているというのだろう?
ただこの村で過ごして、この村の人達に恩返しをして。
それだけがウルリヒの夢だったし、そうするものだとずっと思っていた。
それなのに全て破壊された。
誰も名前を呼んでくれない。
誰も笑いかけてくれない。
誰も話しかけてくれない。
名前を呼びたい人がいない。
笑いかけたい人がいない。
話しをしたい人がいない。
これじゃあ…死んでるのと変わらないよ。
誰ひとりウルリヒの相手をしてくれない。
誰もウルリヒが生きている事を知らない。
そうか、とウルリヒは思った。
自分は彼らと一緒に死んだんだ。
だから此処で自分も朽ちるのだ。
それが良い考えだと思った。
自分も彼らと共に此処で眠りたい。
そう思った。
だからウルリヒは自分の墓石を用意して、其の側に寄り添うように眠った。
次に目を覚ました時は、きっと村の皆が自分を優しく揺り起してくれる…そんな夢を思い描きながら。
※
“あの子に伝えてくれないか”
声が聞こえた。
“ウルリヒ”
嗚呼、誰かが名前を呼んでいる…。
※
目を覚ますと、そこに在るのはやっぱり墓石だけだった。
だけど眠る前とは違う、ほのかな想いが胸を温めていた。
「…居るじゃないか…」
ああ。
“彼”の事を思ってしまった。
そこに、
点程の、
星屑ほどの、
希望を感じてしまった。
「でも…僕は…」
ほんの小さな希望では、立ち上がる事が出来なかった。
同じだけの不安が足枷を作り、地面にウルリヒを縛り付けていた。
何か、理由が。
生きていく理由が。
希望を抱ける理由が。
立ち上がれる理由が欲しい。
だけど、僕はもうこの場所から立ち上がる事が出来ない。
こんな無様な姿も、もう見ている者は誰ひとりとしていない。
何もできない。
「何もできない僕…」
“何もできなかったから”
心の中で誰かの声が響いて来た。
それは誰かの声のような、それとも自分の声のような。
そう、昔から知っている声。
“私はあの子に何もできなかったから…”
くり返し、繰り返し、思いだされ、響くそのセリフ。
“私はあの子にこれくらいしかしてやれない”
「あの子って…誰…」
そうだ。
自分には昔から知っていて、だけど知らない人が一人だけいる。
預言に託されたその魔術師。
いや、本当は預言なんかではない。
ただ、ただ頭の中でずっとずっとウルリヒに語りかけていた声なのだ。
それを預言だと村の人は喜んでくれたけど、ウルリヒはそうは思えなかった。
だけど、“あの子”に会う事が自分の使命だったはずでは無いか。
きっとあの子とは、その子。
「月を…解放する…あの子…」
もう自分が知っている人は誰もいないと思っていた。
だけど一人だけ。
昔から知ってる“月の解放者”
何もできなかった“私”の代わりに、僕があの子にしてあげられる事だから。
「“僕”が“私”の代わりに…私の代わりに僕が…ぼくが、わたし…」
そうだ。
何もできなかった“僕”はここに置いて行こう。
何もできなかった“僕”は死んでしまったのだ。
これからは、何もできなかった代わりに“私”があの子に会いに行こう。
ふらり、と両手を地面から離した。
「さようなら…僕。わた…わたし、は…必ず此処に戻ってくるからそれまでは…」
言いながらウルリヒは伸びた髪を切り落とした。
それを墓石の前に置いた。
「もう、それしか理由が無いんだ…」
生きていくための、生きていて良い理由が。
だから。
「だから、会いに行くよ…」
ウルリヒは墓場に背を向けて歩き出した。