動き出す全て 9
アーベルがエルヴィンの身体を使って魔術を行う方法では、一度行けば簡単には戻ってくる事が出来ないかもしれない。
それはアーベルが魔術に慣れていないせいで、長時間人の身体を支配する事が不可能な事と、結界に耐えられるかどうかがわからないかららしい。
ライヒアルトのその指摘に、準備を万端にする為に決行は翌日になった。
気が逸っていたエルヴィンはすぐにでも行きたかったが、確かに何が起こるかわからない。
本当はマリアンネの事が一番心配なのはライヒアルトだろうに、実に冷静だ。
ライヒアルトの為にも、入念に準備をしなくては、とエルヴィンは思った。
しかし準備をする程の事がエルヴィンには全く無い。
これから何が起こるかもわからないし、長旅になるかもしれないのはいつもの事だし。
魔術も使えないし、何かしら武器が扱えるわけでもない。
ウルリヒも準備をしてくる、と何処かへ行ってしまった。
ひとつだけしなくちゃならないな、と思ったのはユーリエに不在を告げる事だ。
それと宿を借りている家主のロマンにも伝えておく必要があるだろう。
「ユーリエは何処に居るんだ?」
エルヴィンがライヒアルトの部屋を出て廊下を歩いていると、アーベルが後ろから声をかけてきた。
すぐに帰ったと思っていたが、まだ居たのかと思いつつエルヴィンは足を止めた。
「ユーリエはロマンの屋敷だ。何か用なのか?」
「いや…どうしてるかなって…」
「どうって…別に変わった事は無いけど。ていうか心配なら直接来れば良いだろ」
「い、いや、」
アーベルは何か言おうとしていたが、エルヴィンは無視して歩き出した。
彼が何を気にしてユーリエの様子を聞いたのかわからない以上、直接会ってもらえば良いだけだ。
小走りの靴音が後ろから聞こえたので、アーベルは何も言わずについて来たようだった。
※
ロマンの屋敷に戻ると、ユーリエとセリムが出迎えた。
ロマンはアーヘンバッハの街との連絡役をしているらしく、ウルフ共々忙しく駆けまわっている。
僕は置いとけぼりでね、と言いながらセリムは笑っていた。
「まあ、お前でいいや」
「お前で良いって…」
エルヴィンのぞんざいな言葉に、セリムはまた乾いた声で笑った。
ロマンが不在なのは少し残念だが、別に永遠の別れを告げにきたわけでは無い。
「アーベル様、お久しぶりです」
ユーリエがぺこりとアーベルに頭を下げると、アーベルは足早に彼女に近づいた。
「ああ、久しぶり。元気だった?」
「はい」
ユーリエが短く答えると、アーベルの目尻が僅かに下がる。
「アーベル様はどちらに居られたのですか?」
「あ、いや…ちょっと…修行?に」
「そうですか。御苦労様でございます。突然姿を消されたので心配を…」
と、言いながらユーリエは僅かに目を伏せた。
え、とアーベルが目をむく。
「エルヴィン様が」
「あ、ああ…そう」
あからさまにがっくり肩を落とすアーベル。
確かに心配はしていたけどそうじゃないだろ、とエルヴィンも言いたくなった。
ユーリエは僅かに首を傾けた。
「僭越ながら私も心配しておりました」
「え!?あ、うん、ごめん!」
先ほどとはまったく違う明るく大きな声音でアーベルは答えた。
ごめんと言いながらなにを喜んでいるのか。
エルヴィンの心配は完全なるかけ損であるようだ。
ぼーっと見つめるアーベルから目線をはずし、ユーリエはエルヴィンを見た。
「それで、何かご用でしょうか?」
「ああ。もしかしたら少し長く出かける事になるかもしれないから、伝えておこうと思って」
「何処へ行くんだい?」
「ウルリヒの村。最後の預言の執行者がわかったんだ」
それからエルヴィンは今まで得た話をセリムとユーリエに聞かせた。
最後の預言の執行者の事を伝えると、セリムは大きく頷いた。
「なるほど、王家が…そうか。王家はしばしば神聖とは対立してたからね」
「どういう意味だ?」
「魔石だよ。あれが執行者の手を離れて神聖教に渡ったのは、王家が捨てたか、神聖教に奪われたかしたんだろう。今の王女が君に好意的だったのは運が良かったっていうわけさ。そうでなくちゃ、今この状況で月の解放に繋がるかもしれない預言の内容を伝えるとはとても思えないね」
「…そうかもな」
グレーティアとヘンゼルはエルヴィンに恩があると言っていた。
まさかそれすら預言に読まれているのだろうかと思うと、背筋が少し冷えた。…まさか。
「それでマリアンネさんを助けに行かれるのですね」
「できたら。エドヴァルドは何処にいるのかわからないし、預言が月の解放の事かも、俺にできるかも、それをするかどうかもまだなにもわかってないんだけど…。でも早く助けてやりたいから」
「そうですね…きっと心細い想いをされていると思います」
ユーリエは僅かに目を伏せてそう言った。
「そういえば…結局俺たちを学園に連れていったっていう男は誰なんだろうな?」
ユーリエの顔を見ていて、ふと思い出した。
てっきり最後の預言の執行者だと思っていたが。
しかしまったく関係無い人物のようには思えない。
「エト、ですか…」
ユーリエが顔をあげてそう言った。
「エト…?今、エトって言ったかい?」
何故か驚いたように声をあらげて聞き返したのはセリムだった。
「はい、私を助けてくださり、エルヴィン様と共に学園に連れて行ってくださったのは、エトと名乗るお方でした」
ユーリエのその返答にセリムは、はぁ、と深い溜息のような、関心したような息を吐いた。
「なるほど、僕の予想が正しければその人物は預言の執行者だ」
「どういう意味だ?預言の執行者は三人…ライヒアルトさん、ロマン、グレーティア、だろ?」
「そのロマン様…先代ロマン、つまりお嬢様のお父上…その方がロマンを継ぐ前の名は、“エトムント”と言うんだよ」
「ロマンの…父親?」
確かグライリッヒ家の役目は、執行者と約束せし者を繋ぐ事…。
先代のロマン…つまり、先代の預言の執行者。
「エトムント…言われてみれば、そう名乗っていたように思います」
「すごぉく変な人だったでしょう?やけに高圧的で落ち着きのない…」
「…確かにそのような方でした」
どういう奴なんだ、それはとエルヴィンは思った。
そしてやっぱり自分にはまったく覚えがない。
「偽名を使う時はいつもエト、あるいはエトムントと名乗ってたからね、旦那様は。一回会えば相当忘れがたい人だから、顔を見れば思い出すかもしれないよ」
「…それは気になるな」
「ああ、じゃあ落ち着いたら会いに行くかい?お嬢様にはまだ秘密だけど僕は居場所を知っているからね」
そう言いながらセリムは笑った。
「ああ、そうだな…。何か思い出すかもだし。とにかくロマンに伝えといてくれ。それから…ユーリエを頼む」
了解したよ、とセリムは応えた。
その後すぐ、これからまた会議だと、忙しそうに出ていったセリムを見送った。
最近貴族院ではこれからの事について連日会議が続いている。
エルヴィンも自分のできる事をしようと、次に何処で何をすべきか考え始めると、ユーリエが声をかけてきた。
「エルヴィン様、以前、私の願いを聞いてくださると仰いましたよね?」
「え?あ、ああ。言った」
ユーリエがまっすぐとエルヴィンを見つめて突然そう言ったので、少し驚いてどもった。
「では、ひとつ聞いていただけますか?」
「あ、ああ。もちろん」
別にひとつと言わずユーリエの願いならいくらでも聞いてやるというくらいの恩を感じたかそう言った。
だが何を言われるのだろうかと緊張して指先が僅かに震える。
「待っていてもよろしいでしょうか?」
「え?」
「エルヴィン様が此処に戻ってこられるのを、待たせていただいてもよろしいでしょうか?」
まっすぐとエルヴィンから視線を逸らさず、ユーリエは澄んだ声音で言った。
「…そんな事でいいのか?」
「…はい」
それはエルヴィンの帰りを、無事を待っていてくれるという事だ。
「そんなの…俺の方が…。ありがとうユーリエ。うん、待っててくれたら嬉しい」
「はい、ありがとうございます」
言いながらユーリエは僅かに微笑んだ。
彼女がそう言ってくれるなら、自分はその願いを全力で叶えたいと思った。
アーベルはユーリエがいなくなったあと、すっかり元のムスッとした表情に戻ってしまっていた。
「なんだよその顔。ユーリエに会えて満足だろ?」
「…」
アーベルは何も言わずに、エルヴィンの顔をじ、と見てきた。
相変わらず眉間には皺が寄っていて、不満げに見える。
「言いたい事あるならはっきり言えよ」
「…じゃあ、言うけど」
僅かに視線を下に向けてアーベルは呟いた。
「エルヴィンは俺にとって邪魔だったと思う」
はっきりとそう言ったアーベルの言葉に、エルヴィンの心臓がざわりとした。
仲違いして、それがエルヴィンが原因であったとしても、何を言われても傷つかないわけじゃない。
僅かに唇を噛んで、エルヴィンを続きを促した。
「なんで?」
「…なんでもだよ。見た目とか…成績でも勝った事ないし。なにひとつ勝てない…」
「そんなこと…俺、魔術使えないし」
どんな魔術でも一通りは使えるアーベルを羨ましいと思った事はあっても、邪魔だと思った事はない。
それはアーベルがいようがいまいが、自分が魔術が使えないという事実が変わる事がないというだけでは無いはずだ。
だから“邪魔だ”と言われて予想以上に動揺してしまった。
アーベルの誤解も解けて、これからだと思っていたのに。
「でも、おまえの事嫌いじゃなかった。なれなかった」
「…え?」
アーベルがぐっと顔をあげて、まっすぐとエルヴィンを見た。
エルヴィンの真黒い瞳に、アーベルの茶色い瞳が映る。
「おまえが居て良かったと思ってる」
それだけ言ってアーベルはまた視線を床に向けた。
しかしエルヴィンは瞬きのひとつもできずに、彫刻のように固まってアーベルを見つめていた。
…何を言えばいいのか、何と表現すればいいのかがわからなかった。
「まあ…いないと張り合いが無いっていうか…こんなにやる気出なかったろうし…。いろいろあったけど、今は何も後悔してない。良い意味でも悪い意味でもおまえはいつでも俺の目標で指針だったし、そのおかげで俺は今此処にいるんだと思う。…ユーリエにも会えたし」
「…」
言い表せないこの感情は、たぶん悪い感情ではない。
ただ、アーベルの言葉にはエルヴィンの心を深く刺激するものがあった。
懐かしいような、型にぴったりと収まるような。
あらがえない、素直に頷ける思い。
「…その意見には同感」
「なんだそれ…」
「いや、俺もアーベルが居て良かったと思った。多分アーベルがいなかったら、俺は神聖にこんなにこだわりを持っていなかったし」
いつか魔術が使えたら、一番にアーベルに見せたかったのかもしれない。
もし神聖と認められなくて、魔術が使えない自分を受け入れていたら、こんなに神聖にこだわる事はなかった気がする。
つっかかってくるアーベルから逃げるのは嫌だったし、認めさせたい相手が此処にいたことにエルヴィンは気がついた。
アーベルはふん、と鼻を鳴らした。
「だから…俺が言いたいのは…つまり、エルヴィンに手を貸してやれるって事は俺にとってはおまえに勝つって事でもあるから」
「ああ、信用してる」
アーベルの力を。
必ずアーベルならやってくれるだろう。
彼もまた、エルヴィンの知らないエルヴィンを知る一人なのだ。
その清濁全てを受け入れてなお、こう言ってくれるアーベルならば。
エルヴィンは心の底から彼を信じようと思った。