周縁部には中心点への求心などないということ
「いくらなんでも監視役の監視はいらないでしょう」
「そうでしょうか」
「逃げる人を追うわけではないですし。そもそも、監視役は必要ですか」
「最近はなにかというとすぐ目をつけられる世の中ですよ」
「ふむ、確かにそれはそうですね。では全体を囲むように、配置しておいてください」
「結構な人数になりそうですね」
「そうでなくては、意味がありませんからね」
ふん、なにが意味がありませんからね、だ。須々木は心の中で毒づいて、お茶の入っていた紙コップに手を伸ばした。だが手に取ったそれが妙に軽く、中身がないことに気付き、口の中で舌打ちする。
すると真向かいに座る、先ほども会話の中心となっていた田所という男が、ふとこちらを見た。自分では小さめに鳴らしたつもりだったが、思ったよりも音が大きかったらしい。
「須々木さんはなにかありますか」
ところが問いかけを口にした田所は、舌打ちのことをなんとも思っていないのか、それとも聞こえていなかったのか。優しげな表情で、発言の機会を与えてくれた。ともすれば須々木も毒気を抜かれ、つられて笑ってしまいそうになるほど、気の緩みを誘う顔だった。
だが騙されてはいけない。須々木は己を戒めた。田所はこうして発言をうながしてはいるものの、腹の内ではこのくだらない企画のすべてを決め込んでいるのだ。いわばこれはメンバー全員に平等に接しているように、自分を良く見せるためのアピールにすぎない。
「……いや、なにもない」
「そうですか。では、配置についてはぼくが決めてきます。次に、当日の役割分担ですが」
やはり須々木の予想通り、田所は最後の決定権を自身にゆだねるよう会話をしている。結局彼の思い通りにことが運んでいると知り、いよいよ須々木は機嫌が悪くなった。ああ、だれか他に、あいつの人柄を見抜いているやつはいないのだろうか、と。
薄暗い会議室の中に集まった十人の中で、須々木だけがほとんど発言をしていない。それは発言しても進行役の田所に握りつぶされるとわかっているからであり、逆に言えば、他のメンバーは呑気に発言し続けているということだ。自分の意見がいつの間にか田所の意見に塗りつぶされていると気付いていないのだ。
須々木にはこれが面白くなくて、黙り込んでいるから、やることがなくてついお茶に手が伸びる。田所は、今年二十七の須々木よりいくらか年下と見え、面々の中でも若い方から数えた方が早いというのに。
ネットを介して集ったこのメンバーは、年功序列を知らない。暖房のきいた部屋の中、ぬるくなったお茶を喉に流し込んで、言いたいことも飲みこんだ。けれどそれも限界になってしまいそうで、いらいらと机の表面に爪を立てる。
「ねえ当日って、どんな感じなのかな」
須々木の横で、メンバーの一人である若い女がこそこそと話しはじめた。自分に話しかけているのかと思うとわずらわしさが先に立ち、片手を振って返答するつもりがないことを示そうとした。ところが話し相手は反対側の隣人だったらしく、須々木の手は空を切る。答える声も小声ではあったが、こちらまで届いた。
「私は一回だけ参加したことあるんだけど、すごいよ。殴り合いして、羽根が舞い飛んで、ちょっとありえないような、幻想的な光景がみえるの。天使が降りてくるみたい」
「わあ。普段なら、絶対に経験できないよね」
「友達とか誘ってくるともっと楽しいよ」
熱に浮かされたようにはしゃいでいる。殴り合いを肯定する女の子など、往来で見たら驚くだろうと須々木は思った。なんだか正しておいた方がいい気もしたが、それで良いと思えている人間を説得することなどできやしないと須々木はよく知っている。
視線を机からあげると、困り顔で田所が須々木の横を見ていた。無言の圧力のうちに、二人は沈黙を保つことを覚える。静まったところで、田所は咳払いひとつ。
「棚橋さんが道具の用意。関さんが入場者の誘導。みなさんのため、頑張りましょう」
今また田所が自分の意見を語っているので、わざと須々木は大きな音を立ててお茶を注いだ。どぽどぽと中を満たす。須々木が口を開けば、この中身のない会議を実のある内容で満たすこともできるだろうに。自分の手に少しかかったお茶をズボンのすそでぬぐいながら、周囲にちらりと目を向ける。誰もが真面目に、田所の話に聞き入っていた。
会議をはじめてから今日で三回目にもなるのだが、初回から周囲はこんな様子であった。声の大きいやつに注目するのは仕方ないことだが、もう少し内容を聞いてからにするべきだと須々木は呆れた。おかげで顔を覚える気にもならなかったので、先ほど呼ばれた棚橋やら関やらがどの顔だかもわからない。さっき小声で話していた二人がそうだろうか。
くだらないとうつむいて、またお茶に口をつける。須々木には入口の誘導係が任された。勝手な決定にいらだち、丸い紙コップのふちを噛んで、やるせない気持ちをぶつけた。
○
――人間ってのは案外、中身のないものが好きなんだな。
入口の横にたたずんで昼食代わりのドーナツをかじりながら、須々木は流れゆく人々に向かって感想を抱いた。街の中心部にある広場は冬至の日にもかかわらず人で埋まり、全員が首を上向けている。広場の奥に設置された演説台をめがけて進む、百や二百では到底おさまりきらない人数が、田所の晴れやかな顔に騙されかけている。
田所は高い鼻先で、ふふんと笑ったように見えた。若々しく張りのある頬を歪めて、鮮やかな虹彩の際立つ目元を緩め、広場を見渡した。須々木は見つからないよう、人ごみの中へ身を隠す。
須々木は何回か前の会議から出席しなくなっていた。今日も来るつもりはなかったのだが、アルバイトのない日だったためなんとなく足を運んでしまっていただけのことだ。
黒山の人だかりはそわそわと足踏みして緊張を押し殺している様子で、上下に動く人波は、なにかひとつの生き物のようにも感じられた。ぼそぼそと話声が聞こえる。隠しきれない興奮が、押さえきれない熱気が、彼らの遥か後方にいる須々木の方にまでにじりよってきている。集まっているのは須々木と同じか少し上の年齢から、高校生くらいまで。だれもかれも胃腸以外のなにかが飢えた、そんな顔つきをしている。
須々木は先導者たる田所を、穴が空くほどにらみつけた。あの会議を離れれば彼に対する考えも少しは変わるだろうかと思っていたが、月日を経ても気に入らないものは気に入らない。さりとて忘れられるほど印象が薄いわけでもない。
「ネットでの呼びかけに応じて、お集まりいただきありがとうございます。本日の会の進行を務めさせていただく、田所と申します」
わっと湧いた歓声に迎えられ、田所は拡声器片手に大声を張り上げる。数の力は絶大で、飛んできた音が身体を通り、びりりと肌が震える。全員が何事か起こるだろうという期待に胸を膨らませ、そこにいた。須々木だけが、輪から外れていた。
円を描いて集まり、もみくちゃになる人々の外周部へ等間隔に配された監視役でさえ、振る舞いは輪の内の人々と同じだというのに。不快な空気に押しのけられて、須々木は外に出た。後ろではいよいよ昂った人々が、それぞれの得物を寒空へ掲げている。
「でははじめましょう、今から三分間、この広場はみなさんのための自由の場です!」
田所の指示の後に、人々が互いに、わっと躍りかかる。殴り倒し、殴り倒され、笑い声と叫び声とが互い違いに入り混じる。秩序はなかった。人が集まればどこにでも秩序はできるものだと、そう須々木は思っていたのだが、少なくともここにはなかった。狂ったような殴り合いだ。見れば、監視役も叫んでいる。二百メートルほど向こうに、赤いランプを戴いた、白黒の車体が現れたところだった。
どうしようか迷ううちにばしりと頭を殴られ、須々木も倒れかける。
「ああ須々木さんじゃないですか」
田所だった。おれを殴りやがったのか、と理解が及んだとたん、腹にすえかねて、須々木も殴りかかった。一撃目はひょいとかわされたが、二撃目は正確に、田所の腹部に打ちこまれる。どふっと音がして、田所は息を吐きだした。
「楽しいですね」
「楽しかないよ」
「ではどうして来たんですか」
問いかけはフルスイングと一緒にやってきた。鼻っ面にぶち当たった衝撃で、目がしらがひりひりする。須々木は何も言わず殴り返してから、考え、一拍おいて答える。
「おまえが気に食わない」
「八つ当たりしにきたんですか。いいですよ、ここはみなさんのための自由の場です」
得物を投げてきて、田所は笑った。八つ当たりといえば、なるほどそうかもしれなかった。だが須々木としては、正当性があるつもりだった。田所の得物を拾う。
「目的も目標もないんだろ、これ」
「でもそういうことが必要な時も、あるでしょう。単なる、刺激ですよ」
大仰に両手を広げてみせる。いちいち挙動が癪に障る男だった。
監視役の向こうから、警官がぽかんとこちらを見ている。大勢が寄り集まって暴動を起こしているとでも、思ったのだろうか。監視役が説明をしているようで、両手で押し留めている。ちょうどその時、須々木が投げ返す一撃に力を込めると、得物が裂けて、中身が空中に舞った。
ばらっばらっと散った羽毛が、雪のごとく降り注いだ。須々木の手の中には空っぽのカバーだけが残る。三分の祭りはほどなくして終わった。それだけだった。