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9/11

冬(下)

 新しい年を、私は院長室で迎えた。私の向かいには院長が腰掛け、つけっぱなしのテレビから新年を告げる声が聞こえると、私たちは杯を持ち上げ、無言でそれを交わした。

「去年はいろいろあったな」

「ええ」

年越し前にビールの缶を二、三本開けた院長は、少しばかり怪しい呂律でそう言った。

「院長、私はこの病院をやめようと思います」

「なんだ、違う病院に移るのか」

「いえ、医者を辞めます」

院長はしばらく無言で杯を傾け続けた。私も黙って空いた杯に酒を注ぎ続けた。

「辞めてどうする」

「カウンセラーにでもなろうかと。ここにくる人を、少しでも減らせるように」

ようやく口を開いた院長は、自分の杯を置き、私から徳利を奪い取ると、私の杯に並々と酒を注いだ。私はそれをこぼさないように持ち上げながら、軽い調子で答えた。院長は肩を竦めて言った。

「君のような優秀な人材を手放すのは惜しいが……まあ、仕方ないな」

「すいません」

「香住には言ったのか」

予想通りの言葉に、思わず笑みが零れる。

「香住に言われたんですよ。先生は、もうここにいない方がいいって」

「そうか」

私と院長の会話はそれきりだった。もっと、何か聞きたいことがあったような気がするのに、それらは何一つ言葉にならなかった。それでよかったのだと、今はそう思う。

 空が白んできたころ、そろそろかと腰を上げた私に向かって、院長は言った。

「元気でな」

「……お世話になりました」

私は深々と頭を下げて、院長室を後にした。




 「先生、もう行くの」

新しい年になって二週間ばかりがたった日。やっと自分の荷物をまとめ終え、今日院長に退職願を出して、私はこの病院を去る。その前に、私は香住の病室に寄った。年が明けてからも、私は香住のところに通うのを一日も欠かしたことはなかった。今日もまたそうで、しかしこれから私がこの病室を訪れることは永遠にないのだ。そう思うと、なんだか少し寂しい。

「ああ、今から院長に退職願を出しに行くよ」

「そう」

香住は私の顔を見ずに、視線を手元に落としたまま答えた。私はいつものようにベッドの横の丸椅子に腰かけた。そこでようやく香住が私の方に顔を向けた。

「ねえ、先生」

「なんだい」

「どうしてこの部屋の壁が、他の病室と違うのか知ってる?」

唐突な質問だった。私は首を横に振った。

「さあ、知らないな。気になってはいたけど」

「これね、私がお願いしたの。花を見てると、落ち着くの。まだ私が普通だったときの記憶には、いつも綺麗な花があるから」

香住は私から視線を離し、壁を見つめて言った。香住はどこか遠くを見ているようだった。ここでないどこかを。

「香住」

「なに、先生」

「私は行くよ。だから、君も早くこちらへおいで」

私は香住の髪をさらりと撫で、彼女から離れた。

「香住が来るのを待ってる」

そうして私は、香住の元を去った。後ろで、香住が何かを言っているような気がした。何を言っているかは、わからなかった。


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