冬(下)
新しい年を、私は院長室で迎えた。私の向かいには院長が腰掛け、つけっぱなしのテレビから新年を告げる声が聞こえると、私たちは杯を持ち上げ、無言でそれを交わした。
「去年はいろいろあったな」
「ええ」
年越し前にビールの缶を二、三本開けた院長は、少しばかり怪しい呂律でそう言った。
「院長、私はこの病院をやめようと思います」
「なんだ、違う病院に移るのか」
「いえ、医者を辞めます」
院長はしばらく無言で杯を傾け続けた。私も黙って空いた杯に酒を注ぎ続けた。
「辞めてどうする」
「カウンセラーにでもなろうかと。ここにくる人を、少しでも減らせるように」
ようやく口を開いた院長は、自分の杯を置き、私から徳利を奪い取ると、私の杯に並々と酒を注いだ。私はそれをこぼさないように持ち上げながら、軽い調子で答えた。院長は肩を竦めて言った。
「君のような優秀な人材を手放すのは惜しいが……まあ、仕方ないな」
「すいません」
「香住には言ったのか」
予想通りの言葉に、思わず笑みが零れる。
「香住に言われたんですよ。先生は、もうここにいない方がいいって」
「そうか」
私と院長の会話はそれきりだった。もっと、何か聞きたいことがあったような気がするのに、それらは何一つ言葉にならなかった。それでよかったのだと、今はそう思う。
空が白んできたころ、そろそろかと腰を上げた私に向かって、院長は言った。
「元気でな」
「……お世話になりました」
私は深々と頭を下げて、院長室を後にした。
*
「先生、もう行くの」
新しい年になって二週間ばかりがたった日。やっと自分の荷物をまとめ終え、今日院長に退職願を出して、私はこの病院を去る。その前に、私は香住の病室に寄った。年が明けてからも、私は香住のところに通うのを一日も欠かしたことはなかった。今日もまたそうで、しかしこれから私がこの病室を訪れることは永遠にないのだ。そう思うと、なんだか少し寂しい。
「ああ、今から院長に退職願を出しに行くよ」
「そう」
香住は私の顔を見ずに、視線を手元に落としたまま答えた。私はいつものようにベッドの横の丸椅子に腰かけた。そこでようやく香住が私の方に顔を向けた。
「ねえ、先生」
「なんだい」
「どうしてこの部屋の壁が、他の病室と違うのか知ってる?」
唐突な質問だった。私は首を横に振った。
「さあ、知らないな。気になってはいたけど」
「これね、私がお願いしたの。花を見てると、落ち着くの。まだ私が普通だったときの記憶には、いつも綺麗な花があるから」
香住は私から視線を離し、壁を見つめて言った。香住はどこか遠くを見ているようだった。ここでないどこかを。
「香住」
「なに、先生」
「私は行くよ。だから、君も早くこちらへおいで」
私は香住の髪をさらりと撫で、彼女から離れた。
「香住が来るのを待ってる」
そうして私は、香住の元を去った。後ろで、香住が何かを言っているような気がした。何を言っているかは、わからなかった。