冬(上)
私は12月に入ったころから、病院に行かなくなった。これでもかと貯めていた有給を、惜しみなく使い今日で二週間。私は今日も沙耶のアパートを訪れていた。
合鍵でカギを開け、中に入ると電気がついておらず、カーテンも閉められているせいで部屋は薄暗かった。
「沙耶」
私が呼びかけると、人の動く気配がした。靴を脱ぎ部屋に上がり、慣れた手つきで部屋の電気をつけ、カーテンと窓を開け、空気を入れ替える。もう冷たくなってきた空気が心地よい。
「沙耶、もう朝だ。起きて、着替えて」
「ん……もう少し」
しばらくして、沙耶はごそごそと布団から這い出てきた。まだとろんとした目をこすり、緩慢な動きで床に落ちていた服を拾い、身に着けた。
「ほら、朝ご飯作るから顔をあらっておいで」
沙耶を洗面所へと促し、私は買ってきた食パンをトースターに入れ、目玉焼きを作る。顔を洗ってさっぱりしたのか、寝起きよりもしゃきっとした沙耶が、トーストと目玉焼きののった皿を持ち、テーブルの上に置いた。
「おいしそう。おなか空いちゃった」
「昨日はちゃんと夜食べたのかい?」
「うん、敬が作ってくれたシチュー食べた。おいしかったよ」
「それはよかった」
短い会話の後に、沙耶の「いただきます」を合図に、しばし無言で朝食を咀嚼した。沙耶は、秋の初めに比べ少し痩せた。しかし一ヶ月前、殆ど拒食状態だったころに比べれば何倍もマシだった。
「今日は、天気もいいし散歩にでも行かないか」
「行きたい。敬、自転車漕いでよ。私その後ろに乗りたいな」
「自転車あるの」
「うん、空気入れたら乗れるよ」
そういうことで話がまとまり、食器を洗った後、私たちは近くの土手まで行くことにした。
一ヶ月前、突然沙耶は心のバランスを崩した。沙耶が会社で倒れたという連絡を受け、急いで病院に行って見たものは、生気を失って、抜け殻のようになった沙耶の姿だった。医者は、精神的なものだと言った。私はそれを黙って聞いていたが、沙耶がそうなってしまった原因は、嫌になるほどよく分かっていた。分かっているからこそ、私はただ黙って沙耶の手を握ることさえできなかった。
「気持ちいいね」
私の腰に腕を回し、背中にもたれかかるようにして座る沙耶が言った。私は「そうだね」と答え、少しスピードを上げる。そして冬独特の冷たい空気が頬を切る感じを二人で楽しんだ。
しばらく漕いで、私たちは自転車を止め、土手を降りた。春には青々とした草が生え、小さな花がところどころに咲くこの土手も、今は下の土が顔を出していた。
「春になったら、お弁当持ってきたいね」
「そうだね」
沙耶が楽しそうに笑いながらそう言い、一人川縁まで歩いて行ってしまった。その後ろ姿を見ていると、私は沙耶の姿がぽろぽろと崩れていく錯覚に襲われた。私はそれに驚きはしなかった。かつて沙耶であったものが跡形もなく崩れてしまって、私の中に残ったのは言いようのない寂寥感と罪悪感だった。どう言い訳しても、言い訳するつもりは少しもないが、沙耶が壊れてしまったのは、間違いなく私のせいなのだから。沙耶が私のことを深すぎるほど愛していることを知りながら、何もしなかった。かといって、同じように沙耶を愛することもできない自分が、今はただ憎かった。
「沙耶、危ないよ」
いつのまにか、あと一歩も歩けば水の中という場所に沙耶は立っていた。私が呼びかけると、沙耶は振り返って手を振った。戻っておいでと呼びかけると、沙耶は笑って首を横に振った。彼女の形の良い唇が言葉を紡ぐ。私と沙耶の距離は遠く、彼女の声は聞こえない。
けれど私には、何故かそれがはっきりと聞こえた。その瞬間、私は我を忘れて走りだした。無我夢中で走り、届くはずもない手を伸ばす私の指先で、彼女の体はゆっくりと後ろに倒れていく。
「沙耶っ!」
伸ばした手は空しく中を掻き、激しい水音と共に、沙耶の体は水の中に消えていった。
*
扉を開けると、優しい微笑みを浮かべて窓の傍に立っている、一人の女の子が目の前に立っていた。私はそれが香住だとわかるまでに短くない時間が掛かった。それほどに、私の知っている香住と、目の前の少女は違っていたのだ。月明かりに照らされた彼女は、およそ生気というものの欠片も持っていないようだった。足音も立てずに私の元に歩いてくると、私はやっとそれが香住だと認識した。
「おかえり」
「ただいま」
私の背中に腕を回し、胸に頭を預けてきた香住の身体を抱き返す。その身体は冷たかった。
私は香住に引かれるままにベッドに腰掛けた。彼女も隣に腰を下ろした。
「沙耶が死んだよ」
人ひとりがこの世からいなくなったという事実が、たったこれだけの言葉になってしまうことがなんだか悲しかった。そして、生きていたときの彼女を表す言葉をなに一つ思い浮かばないことが哀しかった。
「彼女が死んで、悲しい?」
「ああ、悲しいよ。僕は沙耶が死んで悲しい。そんな、誰でもわかるようなことに、彼女が生きていたときに気付けなかった自分が哀しい」
香住が、すっと手を伸ばして私の頬に触れた。それで私は、自分が泣いていることに気が付いた。重力に従って私の目から溢れて落ちる涙は、香住の手によって床に落ちることはなく、彼女の手を濡らしている。
「先生は、もう大丈夫だよ」
「そうだろうか」
「大丈夫。だってほら、彼女が死んだことをこうやって悲しめるんだから。それはね、自分のことを愛せてる証拠なんだよ。ねえ、先生。人はね、それぞれ世界をもってるんだよ。ここにいる人たちはね、その世界に自分しかいない人たちなの。何も減らないし、何も増えない。孤独すぎて、みんなおかしくなるの。けど、先生は違う。先生の世界には彼女がいて、世界の一部が消えたから、先生は泣いてるの。自分の世界を愛せているから、泣けるんだよ」
香住はほんの少しの淀みもなく言葉を紡いだ。それは驚くほどなんの抵抗もなく私の中に入ってきた。私はみっともなく嗚咽をもらしながら泣いた。世界が欠ける痛みを、私はようやく知ったのだ。