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秋(中)

 それから数日間は、一日中香住の傍にいた。他の仕事は一切せず、ただ香住の傍に居ろとのことだった。院長は、明らかに香住を特別扱いしていたが、それについて咎める者は誰もいなかった。院長の人柄がよいおかげと言われればそれまでだが、それだけではないような気がした。しかし私にとって院長になにか思うところがあろうとなかろうと、私は私の仕事をこなすだけだ。私自身に思うところがあったとしても。

「先生、毎日私とばかり過ごして退屈でしょ?」

「どうかな、私は仕事を退屈とは思わないから」

今日も例にもれず、香住の病室を訪れ、そろそろ昼になろうかという時であった。香住はだいぶ落ち着いて、以前の落ち着きを取り戻していた。どうして急にあのようなことになったのかは、教えてくれないままだった。

香住の問いの答えを返すと、香住は湯気の立ち上るマグカップを両手で包むように持ち、その中に視線を落としたまま言った。

「先生は、私のこと好き?」

「……好きだよ」

「違う違う、そういう意味じゃなくて」

「……私に彼女がいることは知ってるだろう」

「それでも聞いたの」

私は目の前の少女を見た。長く綺麗な黒髪、雪のような白い肌。沙耶が太陽なら、香住は月だ。まるで正反対な二人の女。

「わかってる。先生は彼女のことちゃんと愛してる。でも、私か彼女を選べと言われたら、先生はきっと私を選ぶよ」

香住は顔に笑みを張り付けながら言った。笑っているのに、その声はとてもとても悲しそうだった。

「悲しいね、そんな風にしかいられないなんて」

「ああ、そう思うよ」

私が、私たちが幸せになる選択肢は、あとどれくらい残されているのだろう。あるいは、もうひたすら悲劇に向かって歩いて行くしかないのかもしれない。



「ねえ、疲れてるみたいだけど、大丈夫?」

久しぶりに会った沙耶に、開口一番そういわれた。僕は「そう?」と答えた。今日は彼女が僕の部屋を訪ねてきていた。

「最近、仕事はどうなの?」

「今は女の子を一人診てる」

「へえ、どんな子?」

「君と正反対で、僕と同じ子」

謎かけのような僕の返事に、沙耶は小首を傾げた。

「なにそれ」

「ああ、気にしないで。やっぱり沙耶のいう通り疲れているのかもしれない。昨日は香住と外に出かけたし、夜もなかなか寝てくれなくて、ずっと傍にいたから寝不足でね」

「……なにそれ」

先ほどと同じ台詞。しかし、後者に含まれたとげとげしさに気付かないほど、僕も愚鈍ではなかった。

「それが仕事だからね」

我ながら、なんと言い訳じみた答えだろうと思った。当然、彼女がそれで納得するはずもなく、僕を軽く睨みながら言った。

「女の子と出かけて、寝るまで傍にいることが仕事なの?」

「沙耶、相手は患者だよ」

「患者でも女よ!」

とうとう沙耶は声を荒げて立ち上がった。座ったままの僕は彼女の顔を見上げるような格好になった。正直、僕は彼女がどうしてそんなに怒っているのかわからなかった。僕が知っている限り、沙耶はそんなことで(たとえ心の中で何を思っていたとしても)一々怒ったりするような人ではなかった。

「沙耶が心配しているようなことにはならないよ」

「……ごめんなさい。なんだか、最近敬が変わっていくみたいで、それがその香住って子のせいなんじゃないかって思ったら、なんだかずごく嫌で」

沙耶は一気に頭が覚めたように怒りを収めた。その変わり、こんどは酷く不安げな表情を浮かべる彼女を、僕はどこか冷めた目で見ている自分に気が付いた。沙耶は僕が変わったと言ったけれど、そうではないのだ。これが本来の僕で、香住に出会ったことでいままで作り上げてきた「僕」が少しずつ壊れ始めているのだ。僕はそう思った。

「敬、もうその子の主治医やめて」

「それはできないよ」

「なんで、もう無理だって言ってよ」

「僕は、きっと香住と離れるなんてできない。あの子を、僕の目の届かないところに置くことはできないよ。でも、信じてほしい。僕は香住のことを愛しているわけじゃなんだ。そうじゃない。僕が好きなのは沙耶だよ」

「わかんない、わかんないよ、敬。私、敬がわからない」

それは当たり前だと言おうとして、やめた。当たり前など、この世にないのだから。だから僕は、黙って沙耶を抱きしめた。そうすることで、何もかも閉じ込めて、なかったことにするかのように。


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