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秋(上)

 夏の残暑も少しずつやわらぎ、季節が秋へと移ろうとしていた。とは言っても、まだまだ数十分も外にいれば汗ばむ陽気で、私も自転車をこいで病院に着くころにはしっとりと汗を掻いていた。

 最近では一日のほとんどを香住と過ごしているが、もちろんそれだけで一日を終えるわけではない。他の患者の診察や、書類の作成もやる。午前中はその仕事をするために、香住の病室ではなく自分のデスクに向かった。

「斉藤はいるか?」

私が自分のデスクの椅子に腰かけたと同時に、院長が慌てた様子で私の名を呼びながら入ってきた。

「はい」

「いそいで来てくれ。書類仕事は後でいい」

どこに、とは言われなかったが、言われなくてもわかった。私は急いで香住の病室に向かった。



「うっ、ううっ」

扉を開けると、私は思わず顔を顰めた。カーテンは破け、机はひっくり返されていた。床には、私が持ってきたマグカップが、無残に砕かれ転がっていた。香住は、その部屋の真ん中でしゃがんで泣いていた。

「香住、どうした?」

呼びかけると、香住ははっと顔を上げて、立ち上がって私の胸に飛び込んできた。その小さな体を受け止めると、香住はいっそう大きくしゃくりあげながら泣き続けた。

「香住、泣いていてはわからないよ。どうしてこんなことをしたのか私に説明してくれないか」

「ごめんなさい、ごめんなさいお母さんごめんなさい。もうしませんもうしないから、しないから殴らないで」

香住は私の問いかけには答えず、うわごとのようにそう繰りかえすばかりだった。私は香住を連れ部屋の外に出た。隣の部屋が丁度空き部屋になっていたので、そこに香住を入れ、ベッドに寝かせた。

「大丈夫、だれも香住を殴ったりしないよ。だから安心しておやすみ」

「本当?」

「ああ、誰も香住を殴らないように、私がここで見張っていてあげるから」

そういって手を握ると、やっと安心したのか香住はうとうととし始め、間もなく夢のなかに落ちて行った。私は香住が寝たのを確認すると静かに部屋を出た。



「失礼します」

香住の部屋を出て、私は院長室に向かった。私は一応ノックをし、しかし返事を待たずにドアを開けた。

 院長は入ってきたのが私だと認めると、私の少々無礼な行動については何も触れず、座るように促した。

「どうだ、香住のようすは」

「おちついて、今は隣の部屋で寝かせています」

院長はそうか、とだけ呟いた。院長がそれ以上なにも言わないと見て、私は自分が院長室を訪れた目的を口にした。

「院長、お伺いしたいことがあります。香住の、母親について」

母親、という単語が出た瞬間、院長の体が僅かに硬直したように見えた。ただあまりに一瞬で、見間違いかとも思えたが、なんとなくそうではないような気がした。

「あの子が、さっき泣きながら言ったんです。『ごめんなさいお母さん、もうしないから殴らないで』と」

「……あの子がそう言ったのか」「はい」

しばらく、どちらも口を開くことなく、壁に掛けられた時計の針だけがチクタクとひたすら時を刻んでいた。

「そもそも、香住が実の両親と一緒に暮らしていなかったは何故です?」

私は沈黙に耐えきれなくなった――というわけではなく、院長の言葉を待っていたのだが一向に彼が口を開こうとしないので、こちらから促すために自ら沈黙を破った。

「君は、それをしってどうする」

「どうもしません。ただ、知りたいだけです」

院長は私の目を見た。私もその視線から逃げることなく、まっすぐ院長の目を見返した。

「……香住は、実の親に虐待されていたんだ。母親にな」

院長は観念したのか、重い口を開いて語りだした。

「香住の母親は元々情緒不安定で、子供を育てるのには向いてなかった。しかし彼女には親戚もいなくて、彼女一人で育てるしかなかった」

「父親は?」

「香住の父親、彼女の恋人だった男は……彼女が妊娠したことを知らなかった。二人が別れてから香住の母親が香住を身ごもっていることがわかったんだ。彼女はそれを別れた恋人には告げなかった」

「ともかく香住が生まれてから、二人は小さなアパートで暮らしていたらしい。しかし、さっきもいったように香住の母親は情緒不安定でね、香住が泣くたびに叩いたり蹴ったりしていたらしい。それでも、娘への愛情がなかったじゃない。落ち着いているときは香住に優しくしていたみたいだしな。そしていつも言っていたそうだ『私は香住のことを愛してる。愛してるから、香住にいい子に育ってもらいたいから、つい香住に酷いことしちゃうの。わかるわよね?』とな。それが、香住の今の人格に大きな影響を与えてしまった」

院長は淡々と語る。私もそれに口を挟むことなく、時折頷いて話を促した。

「あの子は、相手が暴力を振るうのは自分のことを愛しているからだと思っている。自分のことを求めてくれているのだと。それが終わると不安になる。自分のことを求めてはくれなくなったのだと思う。あの子は愛情というものを勘違いしている。……いや違うな」

そこで院長は初めて憂いを帯びた表情を見せた。院長は酷く疲れているように見えた。

「あの子は、それしか知らない。あの子にとって愛情とはそういうものだ。香住の世界では、暴力こそ愛情だ」

「その究極が、殺人、ですか」

私の挟んだ言葉に、院長は黙って首を横に振った。

「それは私にもわからん。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。私には、あの子の考えていることは分からない」

「他人が考えてることなんてわからないのは当たり前です」

そう言って、なんだか香住が言いそうなことだなと思った。院長は乾いた笑みを浮かべ言った。

「君は、香住みたいなことを言うんだな」

まったくその通りだと思った。


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