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夏(下)

 私は朝少し遅め――といっても普段の五時起きに比べての遅め――に起き、なまけもののようにゆっくりとした動作で支度をして、午前十時に家を出た。彼女の家は、私の家から電車で二駅のところにある。時間にして約十五分。彼女からは再三「一緒に住まない?」と言われてきたが、私は彼女がそういうたびに断り続けてきた。別に、彼女のことが嫌いなわけではない。ただ、まだ一人でいることのできる時間が欲しいだけなのだ。

 そんなことを考えている間に、もう何度も通って体が覚えた道順を、脳がまったく別のことを考えていても道順を染みつかされた体が勝手に辿って、気が付くと私は彼女の家の前に立っていた。

 彼女は、この三階建ての賃貸マンションの一室に学生のころから住んでいる。学生のころはこの1LDKの部屋がうらやましかったが、それなりにおおきな商社に勤めている今でも、この部屋に住み続ける理由はよくわからない。というのもここは駅から歩いて30分、近くのバス停までも20分という交通面から見ればあまり立地がよいとは言えない場所に建っているからである。彼女は車どころか、そもそも免許すらまだとっていないので、通勤には電車を使っている。それなら駅の近くにいくらでも部屋があるだろうし、彼女の収入ならそれなりにいい部屋を借りることができるだろう。ある時そんな話になって、今考えているようなことを彼女に言うと、「ここがいいのよ。住み慣れてるところが安心するの」と答えたのをぼんやりと思い出した。私は別に彼女がどこに住もうが構わなかったので、「そう」とだけ答えてその話題は終了した。

 彼女の部屋のある三階まで階段――このマンションにはエレベーターがない――で上がり、一番奥の部屋のチャイムを鳴らす。ぱたぱたというスリッパの音がして、続いてガチャリという音と共に扉が開けられた。

「いらっしゃい」

「おじゃまします」

彼女、近藤沙耶はにっこりと笑って私を部屋に招き入れた。

 沙耶とは、学生の時に友人の紹介で知り合った。私も学生のときは今ほど『壊れて』はいなかった(自覚がなかっともいえる)ので、人並みの人付き合いを望んだし、彼女も欲しいと思ったりしていた。そんなときであったのが沙耶で、ドラマのように一目惚れだとか、激しい恋心を抱いたとかいうわけではなかったが、なんとなくウマが合ったのだろう、私たちは付き合い始め、その付き合いは今でも続いている。

「今日は、一日休みもらったから」

「ほんと? じゃあ、今日は一日ずっと敬と居られるんだね」

行きがけに買ってきたワインを沙耶に渡しながらそう伝えると、彼女は嬉しそうに笑った。人はそれを無邪気な笑顔を評するのだろう。実際、私もそう思ったし、そんな風に笑う彼女が微笑ましかった。しかし、冷静な私は、無邪気とはこんなものではないと言っていた。じゃあ無邪気とはどんなものだと自問自答して、帰ってきた答えは香住の笑った顔だった。私はそれを見なかったことにして、沙耶に微笑み返した。

「今日はどうする? どこか行きたいところある?」

「んー、今日はあんまり出かける気分じゃないな。家でのんびりしてたい」

私は沙耶の希望を聞いて今日一日を過ごそうと思っていたので、異論は唱えなかった。しかし何もせず過ごすというのも途中で飽きるだろうということで、私たちは近くのビデオ店でDVDを借りて、それを部屋で見て過ごすことにした。

 映画を見始めて小一時間ほど経ち、ヒロインが家の事情で恋人と別れさせられるという場面で、それまで静かに映画に見入っていた沙耶が口を開いた。

「敬は、こんな風になったとして、それでも私を選んでくれる?」

私は少し間を開けて答えた。

「選ぶよ」

「うそ、敬は絶対そんなことしない」

沙耶の断言する口調が耳に痛かった。そんなことないと言うのもなんだか白々しくて、彼女の言葉を否定することもできず私は黙り込んだ。沙耶が私のことをその程度は理解するくらいの付き合いはしてきたつもりだ。

「そうだね、僕にはそんな情熱はないし」

「……敬は変なところで正直だよね。そこは嘘でも「そんなことない」っていうところだよ」

沙耶は半分呆れたように、半分楽しそうに言った。僕は沙耶の茶色に染めたショートカットの髪をゆっくりと撫でた。気持ちよさそうに目を閉じた沙耶の唇に、自分の唇を重ねる。啄むだけのバードキス。最後に軽く音を立てて放すと、沙耶は幸せそうに微笑んで、私の肩に頭を預けた。初めて、自分を好きだと言ってくれた彼女。沙耶が幸せならそれでいいと思った。私はこれからも彼女の恋人であり続けるだろう。たとえそれが真実でなかったとしても。



 次の日、私が香住の部屋を訪れると香住はまだベッドの上で眠っていた。綺麗な黒髪を白いシーツの上に広げ、静かに呼吸を繰り返しながら眠る姿は、童話にでてくる眠り姫を思わせた。そっと近づくと、人の気配に敏感な香住はうっすらと目を開けて、私の方に顔を向けた。

「おはよう、香住」

「おはよう、先生。おかえり」

香住はゆっくりと起き上って、そういった。

「ただいま」

香住は嬉しそうに、笑みを深めた。


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