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夏(上)

 今年の梅雨は、ここ数年でもっとも梅雨らしく、もう一週間も雨の日が続いていた。梅雨は、春に続いて精神科がもっとも神経質になる時期でもある。暗く、じめじめした日が続くと、患者たちの鬱がさらにひどくなるからだ。最近の私は一日のほとんどを香住の病室で過ごすようになっていた。

「雨の日って、私は好きだな」

香住は今日も窓辺に椅子を置き、そこに座って飽きもせず外を眺めていた。私は少し前に持ってきておいた自分のマグカップと、香住のカップにティーパックを入れ、ポットに入れて持ってきたお湯を注いだ。

「どうして?」

「だって、雨の日ってほかの人と引き離されて、自分一人だけでいるみたいに感じない? そういうの、安心するの。自分の中の自分がすごく安定してて、好き」

「一人が好きなの?」

「たまにはね。本当は一人の方がいいって自分でもわかってるの。でも独りは嫌だから……」

香住はそこで少し言葉を切って、手招きして私を呼んだ。私が素直に香住の傍にいくと、香住は私の手を取って、そっと握った。

「近くにいると、求めちゃう。殺したくなるくらい」

手を握る力が強くなって、私の指先が次第に紫に変わっていく。「痛いよ」と言うと、「ごめんなさい」と笑いながら、香住は手を放した。

「先生は殺したりしないから大丈夫よ?」

「それは、私のことが好きではないということかな」

「覚えてたの? 先生のことは好きだよ、殺す必要がないだけ。だって先生は」

そこで突然、香住は口をつぐんだ。先を促すと、秘密、と言って微笑むだけだった。

「ねえ、先生はなんで精神科の先生になろうと思ったの?」

急に話題が変わったことに、私は特に驚きはしなかった。話がころころと変わるのはいつものことだった。香住は興味の対象の移り変わりが激しいのだ。

「さあ、あんまり覚えてないけど、たぶん尊敬していた先生がいて、その人が精神科だったからだったと思う」

「先生、尊敬する人がいるの?」

「意外かい?」

「意外も何も、私と先生がおんなじこと考えるほうが珍しいと思うけど。私はただ、先生が尊敬するような人って、どんな人か気になっただけ」

香住は、腰まで伸ばした黒髪を、指で弄びながら答えた。何か考え事をするときの香住のくせだ。香住は指に髪を絡ませながら、再びベッドの方に戻った。腰掛けて足をばたつかせると、それに合わせて長い髪も波打った。さらさらで絹のようなそれは、触ると壊れそうな飴細工を思わせた。壊してみたいと思って、ばかばかしいと一蹴した。

 午後五時になって、私は病室をでた。廊下を少し歩いたところで院長と出会った。

「よ、どうだい、香住とは上手くいっているか?」

「ええ、まあ特に何をするわけでもないですけど」

二か月経って、私と香住がしたことと言えば、毎日朝から夕方まで、病室でお茶を飲んだり時々話したり、読書をしたりするくらいのものだ。一回、病院の庭を散歩もした。

「やっぱりお前をあの子に付けたのは、間違いじゃなかったな」

「それは褒められてるんですかね」

「ああ、褒めてるさ。目いっぱいな」

「じゃあ褒められついでにお願いがあるんですが」

「なんだ」

「明日、一日だけでいいんで休みください」

すると、院長は少し間を置いて「理由は?」と聞いてきた。

「明日、彼女の誕生日なんですよ。ほとんど休みないんで、せめて誕生日くらい一日彼女の言うことを聞いて過ごそうかと」

院長は驚いたようだった。確かに二年間ここに勤めていて、院長に彼女がいると言ったことは一度もなかった。私と院長の間でそんな話にならなかったというのもあるが。去年の彼女の誕生日は、あいにく彼女のほうにどうしても外せないようがあり、その日が終わる前の数時間を共に過ごしただけだった。

「まあ、お前の有給はたんまり残っているからな。それは構わないが、香住にはなんて言うんだ」

院長が心配しているのはどうやらそこらしかった。私は香住の主治医になってから、香住の病室に通うのを一日たりとも欠かしたことはなかった。香住は、私に彼女がいると知ったらどのような反応をするだろうか。少し興味があった。

「一日くらい、彼女も我慢してくれると思います」

「じゃあ聞くが、もし香住が泣いてお前にいかないでと縋ったら、お前はどうする?」

そう聞かれて、私は少し考えてしまった。そう、私は彼女を取ると即答できなかったのだ。私はそんな自分に呆れて、心の中でため息を吐いた。

「そうですね……彼女もすごく楽しみにしてくれているので、今回ばかりは彼女を優先させていただきます」

この場合の模範解答のような答えを返すと、院長は「まあ、普通そうだよな」と言った。

「いいぞ、ただし、ちゃんと香住に言いにいけよ。黙って休むとさすがに怒るだろうからな」

「ありがとうございます」

そこで院長と別れ、香住に会うために私は来た道を引き返した。



「ん、別にいいよ」

私が先ほど院長に話した内容とほとんど同じような話をして、一日休暇の許可を求めると、香住は意外にもあっさりと肯定の意思を示した。私はいささか拍子抜けしてしまい、「そう」としか返すことができなかった。そんな私に、香住は笑って言った。

「なあに? もしかして、私が泣いて、いかないでとか言うと思った?」

「それを予想しなかったわけじゃないけど」

「あはは! 確かに、先生に恋人がいるっていうのは驚いたけど。でも、そんなの私にとってあまり問題じゃないの。私にとって大切なのは、事実より真実だから」

「香住はたまに難しいことを言うね」

「他人が何を思って言葉を発しているかなんて誰にもわからないのだから、他人の言葉で難しくないなんてことあるのかしら? あ、超能力者とかっていうなら話は違うけど」

「さあ、私はもうとっくの昔に、考えることを辞めてしまったから」

それが会話の終わりを告げるものだと香住もわかったのか、「ならしょうがないね」と言ってベッドわきに置いていた本に手を伸ばした。それを合図に、私も部屋を出た。


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