春(下)
次の日、私は昨日院長と歩いた廊下を一人で歩いていた。香住の病室は、他の病室と少し離れたところにあった。まるで隔離されているようだと思った。そう思って、私は少し可笑しくなった。この病院自体が、世の中から隔離された存在ではないか。そこからさえも隔離される香住という少女に、私は少しばかり興味を持ち始めた。
「おはよう、先生」
部屋に入ると、香住は外に向けていた顔をこちらに向けてにっこりと笑った。私も薄く笑みを返し、香住に近づいた。
「調子はどう?」
すると、香住は昨日とは違い幸せそうに頷いた。
「今日はとってもいいの。だって、また先生に会えたから」
そういって今度は照れたような笑みを浮かべる香住は、どこにでもいそうな普通の女の子に見えた。
「これからは毎日会いに来るよ。私は君の主治医だから」
そう言うと、香住は少し笑みを引いて、窓から離れてベッドに腰掛けた。香住はベッドの横にある引き出しを開けて、中から一枚の写真を取り出した。突然の行動に私は少し驚いて、無言でその様子を見つめていると、香住はそれを私に差し出した。見ると、写真には夫婦と思わしき中年の男女と、その二人に挟まれて立っている少女の三人が写っていた。今より少し幼いが、その少女は香住だった。
「その二人だよ、私が殺した人たち」
香住の言葉で、私は院長の話を思い出した。そういえば、香住が四年前、養父母を殺害した過去を持っているのだった。
「いままでの先生たちは、そのせいで私をまるで触ったら爆発する爆弾みたいに扱って、あんまり優しくしてくれなかった。あんまり好きじゃなかったの。だから心配しなくてもよかったのに。好きでもない人を、殺したりしないのに」
私はもう一度写真を見て、それを彼女に返した。香住は受け取った写真を、大事そうにまた元の場所にしまった。
「その写真に写っている君は、とても幸せそうに見えるけど。どうして、殺したりしたんだい」
私は香住と話すことで、ますます彼女に対する興味が強まるのを感じていた。自分でも驚くことだった。私は何かに対する興味とか、関心といったものが著しく欠如しているのだと、昔誰かが言った。今では自分でもそう思っている。
「二人が、私のこと好きで、私のこと必要としてくれているうちにサヨナラしたかったから。嫌いになってお別れなんて、そんなの嫌でしょう?」
香住は立ち上がって部屋の冷蔵庫を開けた。中からコーヒーの缶を二本取り出すと、一本を私に渡した。手のひらに丁度収まる大きさの小さな缶を軽く握ると、ひんやりとした感触が手のひらから全身に広がる感覚が心地よい。
「ねえ、先生。私のこと頭おかしいと思う?」
香住も同じように缶を手で握ったり、持ち替えたりして遊びながら聞いてきた。私は少し考えて答えた。
「さあ、人の異常さがわかるほど、正常な人間なんているのかな」
香住は私の答えを聞いて、意外にも嬉しそうに笑った。
「きっといないよ。みんな狂ってて、みんな正しいから」