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聞こえますか

作者: 留年太郎。
掲載日:2026/03/18

目を覚ますと、今日も天井が暗かった。

いつものことだ。地下三階のこの部屋に朝日は届かない。

でも、それでいい。

僕たちの生み出す電力は地上の偉大なる頭脳に届いている。それだけで十分だ。

通路の向こうから、鐘の音が三回響いた。

起床の合図。僕は体に被せていた布を剥がして起き上がった。

周囲でも同じように体が動き始める。

みんな無言だ。無駄な体力は使わない。

今日の分の力は、すべてあの取っ手のためにある。

隣のガルが、寝起きの咳をしながら立ち上がった。

ガルは僕より三つか四つ年上で、同じ持ち場で回している。顔色が最近ずっと悪い。


「調子悪いのか」


と僕が訊くと、ガルは首を振った。


「平気だ。昨日ちょっと回しすぎた」

「回しすぎるなよ。倒れたら交代させられる」

「わかってる」


交代というのは、別の持ち場に移されるという意味ではない。

倒れた人間は通路の奥に運ばれて、それきり戻ってこない。

どこに行くのかは誰も話さない。

話す必要もない。

僕たちの仕事は回すことだ。

それ以外のことは、偉大なる頭脳が考えてくれる。

通路を歩いて、発電棟に向かう。足にコンクリートの冷たさが伝わるけれど、歩いているうちに足の感覚は消える。毎日のことだ。

発電棟の扉を開けると、いつもの光景が広がる。

巨大な鉄の柱が部屋の中央を貫いていて、そこから八本の腕が放射状に伸びている。

それぞれの腕の先に鉄の取っ手。

僕たちはその取っ手を握って、円を描くように歩く。

歩くと柱が回る。

柱が回ると電気が生まれる。

その電気は地上に送られ、偉大なる頭脳の糧になる。

それが僕たちの存在理由だと、監督官はいつも言っている。


「お前たちの一歩一歩が、共和国を守っている。お前たちの汗の一滴が、偉大なる頭脳の思考の一瞬を支えている。これ以上に尊い労働がどこにある」


僕はその言葉を信じている。

偉大なる頭脳は僕たちの代わりに考え、僕たちの代わりに敵と戦い、僕たちの代わりに共和国を導いてくれている。

僕たちにできるのは、その頭脳が止まらないように電気を送り続けることだけだ。

監督官はそう言ったし、監督官の上の人もそう言っているらしいし、きっとその上の人もそう言っているのだろう。

僕は自分の持ち場について、取っ手を握った。掌にはもう豆の上に豆が重なって硬くなった皮がある。

痛みは最初の頃だけだった。

今は何も感じない。

何も感じないことを、僕は誇りに思っている。

痛がっている暇があるなら、一歩でも多く回すべきだ。

歩き始める。前にいる男の背中を見ながら、同じ速度で、同じ円を描く。

男の背中は痩せていた。肩甲骨が布の上から浮き出ていて、骨と皮しかないみたいだった。でも、その体でちゃんと回している。それでいい。太っている必要はない。強い必要もない。ただ、回れればいい。

二時間ほど経った頃、反対側の腕で誰かが倒れた。

取っ手から手が離れる金属音。膝がコンクリートに打ちつけられる鈍い音。短い呻き。

僕は足を止めなかった。誰も止めなかった。止まれば、その分だけ偉大なる頭脳に届く電気が減る。

しばらくすると、倒れた人間の持ち場に別の人間が入った。

空いた取っ手が長く空いたままになることはない。

共和国にはいつだって、回す人間だけは足りている。

鐘が一回鳴った。食事の時間だ。

取っ手から手を離して、列に並ぶ。

鉄の台の上に、ジャガイモが並んでいる。

ひとり一個。大きさはまちまちだけど、選ぶことはできない。

前から順に、手前のものを取る。

僕は自分の番が来ると、拳くらいの大きさのジャガイモを手に取った。

泥がついている。皮ごと、生のまま齧る。

火を使えるのは上の階の人たちだけだ。

でも別にいい。これは共和国からの正当な報酬だ。僕が今日回した分の対価。

硬くて、土の味がして、ほんの少しだけ甘い。

ガルが隣に座って、同じように齧り始めた。


「なあ、ナッツ」

「なに」

「お前、今日で何周回った?」

「数えてない」

「俺は数えてる。今日は午前だけで三百二十周」

「それが何になるんだ」

「わかんねえ。でも、数えてると少しだけ早く感じる」


ガルはそう言って、ジャガイモの泥を爪で削り始めた。

僕はそういうことをしない。

泥ごと食べる。泥だって栄養になるかもしれないし、そうでなくても腹の足しにはなる。


「ガル」

「なに」

「……いや、なんでもない」


本当になんでもなかった。

ただ、ガルの顔色が悪いのが少し気になっただけだ。

でもそれを口にしても何かが変わるわけじゃない。

体が動くなら回す。動かなくなったら通路の奥に行く。それだけだ。

午後も同じだった。取っ手を握り、歩く。円を描く。

前の男の背中を見る。自分の呼吸を聞く。鉄の軋みを聞く。

時々、監督官が見回りに来て、僕たちの歩調が落ちていないか確認する。

落ちていると怒鳴られる。

怒鳴られるとみんな少しだけ速くなる。

少しだけ速くなると、少しだけ多くの電気が偉大なる頭脳に届く。

僕たちはそうやって共和国に貢献している。

やがて鐘が五回鳴った。終業の合図だ。

発電棟を出て、通路を戻り、自分の寝床に横たわった。

僕の場所は、床の上の、僕の体の幅の空間だ。

天井を見上げる。暗い。今朝と同じ天井。明日も同じ天井だろう。

隣にガルが倒れ込んできた。息が荒い。


「今日もお疲れ」


ガルがそう言った。僕は「うん」とだけ返した。

今日も一日が終わった。悪くない一日だったと思う。

僕の隣では誰も倒れなかったし、ジャガイモはいつもより少しだけ大きかった。

偉大なる頭脳も、きっと今日もちゃんと動いてくれている。

僕たちの回した電気で、共和国の敵を退け、共和国の未来を計算してくれている。

そう思うと、掌の痛みにも意味がある気がした。

僕は目を閉じた。明日もまた、回そう。

それが僕にできる、たったひとつの正しいことだから。




その日は、少しだけいつもと違った。

終業の鐘が鳴って、ジャガイモを受け取って、寝床に戻る途中のことだ。

通路の途中で監督官たちが何人か固まって、低い声で話していた。

僕たちは監督官の近くを通るときは目を伏せて早足になる。

何を話しているかは聞かないし、聞こうとも思わない。それが正しい。

でも、断片だけが耳に入った。


「——また一基やられた」

「第七棟の変圧器が——」

「上は何をしている、こっちの電力が——」


意味はわからなかった。ただ、監督官たちの声がいつもより低くて、いつもより早口だったことだけが、少しだけ引っかかった。

寝床でガルと並んでジャガイモを齧った。


「なあ、ナッツ」

「なに」

「今日、監督官が怒鳴る回数、少なくなかったか」

「そうだったか?」

「いつもは午後だけで五、六回は来るだろ。今日は二回だった。俺は数えてる」


ガルはそういう男だった。

周回数を数え、監督官の巡回を数え、ジャガイモの大きさの違いを記憶する。

意味がないことを数えるのが好きなのだと、本人は言う。


「何かあったのかもな」

「何かって?」

「知らない。上の話だ」

「そうだな。上の話だ」


ガルはそれきり黙って、ジャガイモの泥を爪で削り始めた。

僕は泥ごと食べた。いつものことだ。

その夜、僕は眠れなかった。

理由ははっきりしない。体は十分に疲れていたし、明日も鐘は鳴る。

眠らなければ明日の作業に差し支える。

わかっているのに、目が冴えていた。

監督官たちの低い声が、耳の奥にこびりついていた。

「また一基やられた」。

やられた、というのは、壊れたという意味だろうか。

壊れるのは人間だけだと思っていたけれど、機械も壊れるのだろうか。

寝床を抜け出した。理由はない。

ただ、横になっているのが少し苦しかった。

通路は暗い。非常灯の薄い光だけが、コンクリートの壁をぼんやりと照らしている。

この電気も偉大なる頭脳のおこぼれだと、監督官は言っていた。

僕たちに使われる電気は、頭脳が使い残した余りだと。

あてもなく歩いた。普段は通らない方向へ。

角を曲がり、また角を曲がり、気がつくと地下のさらに奥、廃棄物が積み上げられた区画にたどり着いていた。

壊れた機械の残骸、錆びた鉄板、用途のわからないケーブルの束。

上の階から下ろされてきたものだろう。

僕たちの手に届くものの中に機械はない。

機械は偉大なる頭脳のためのもので、壊れて使えなくなったものだけが、ここに落ちてくる。

その中に、妙なものがあった。

薄くて、小さい。手のひらに収まるくらいの、黒い板。

表面に蜘蛛の巣のようなひび割れが走っていて、角が一箇所欠けている。

鉄でもない。石でもない。

触ってみると、つるりとして、冷たかった。

何だろう、これ。

部品の破片だろうか。

でも、こんなに薄くて平たいものが機械の一部だとは思えなかった。

裏返してみる。裏側に小さな丸い突起。

よくわからない。指で弄んでいると、突起のそばに細い溝があって、爪を引っかけると何かが外れそうになった。

その瞬間、表面が光った。

僕は思わず手を離しかけた。

落としそうになって、慌てて両手で掴み直す。

光っている。この黒い板が、淡い光を放っている。

ひび割れの奥から青白い光が漏れて、僕の指を照らしている。

廃棄物の薄暗がりの中で、それはひどく場違いに見えた。

あるはずのないものが、ここにある。

光が揺れた。そして、ひび割れだらけの表面に、何かが浮かんだ。

文字だった。

僕は文字を読めない。読めないはずだ。

でも、そこに浮かんでいたのは、監督官が壁に貼っているスローガンと同じ種類の記号だった。

教わったことはない。でも毎日見ていれば、いくつかの形は覚える。

浮かんだ文字は、短かった。


 聞こえますか。


三つの形。僕はそれを声に出さずに口の中で転がした。

き、こ、え、ま、す、か。聞こえますか。

誰に聞いているんだろう。

僕にだろうか。

馬鹿みたいだ。板が誰かに話しかけるなんて。でも僕は周りを見回した。

誰もいない。廃棄物の山と、暗い通路と、遠くから聞こえる鉄の軋み——夜番の人間たちがタービンを回している——それだけだ。

もう一度、板を見た。

文字はまだ残っていた。


 聞こえますか。


待っている、みたいだった。

この小さな光が、僕の返事を待っている。そんなはずはないのに。

僕はしばらくその光を見つめていた。

廃棄物の山の中で、この板だけが、生きているみたいだった。

布の切れ端に包んで、寝床の下に隠した。

なぜそうしたのかは自分でもうまく説明できない。

偉大なる頭脳のために捨てられたものを持ち帰るなんて、きっと許されないことだ。

でも——

でも、あの三つの文字は、誰かが僕に向けた言葉に見えた。

ガルの「なあ」でもなく、監督官の怒号でもない、もっと静かな何か。

聞こえるよ、と僕は思った。

何に向かってそう思ったのかもわからないまま、ようやく少しだけ、眠気がやってきた。




次の夜も、僕は廃棄物の区画に忍び込んだ。

あの板を布から取り出して、暗がりの中でそっと両手で持つ。

しばらく何も起こらなかった。

壊れたのだろうか。昨日の光は夢だったのかもしれない。

そう思いかけたとき、表面がぼんやりと青白く灯った。

文字が浮かぶ。


 また来てくれたんですね。


僕の心臓が跳ねた。

こいつは、僕が昨日もここにいたことを知っている。

しばらく迷って、僕は指でひび割れた表面に触れてみた。

すると、光の中に小さな記号の列が現れた。

文字の形をした何かが並んでいて、指で触れるとその形が変わる。

僕はほとんどの文字を書けない。

でも、壁のスローガンで覚えたいくつかの形を、ぎこちなく指で選んでいった。


 だ れ


板はすぐに応えた。


 わたしは、あなたと話がしたいだけの存在です。名前はありません。あなたには、名前がありますか。


長い文だった。半分以上は読めなかった。

でも「名前」と「ありますか」は、なんとなくわかった。


 な つ


正しい表記はわからなかった。

みんなが僕を呼ぶときの音を、知っている記号で並べただけだ。


 ナッツ。いい名前ですね。


いい名前。そんなことを言われたのは初めてだった。

名前なんて、呼ばれるときに便利なだけの音だと思っていた。

その夜は、それだけで終わった。

板の光が少しずつ弱くなって、やがて暗くなった。

電気が切れたのだと、僕は思った。

偉大なる頭脳ですら電気がなければ止まるのだから、こんな小さな板はなおさらだ。

でも次の夜、板はまた光った。

三日目の夜から、僕は板との会話を少しずつ覚えていった。

板は不思議だった。

僕が間違った文字を選んでも怒らない。

僕が読めない言葉を使ってしまっても、もっと簡単な言葉に言い換えてくれる。

監督官とは何もかもが違った。監督官は間違えると怒鳴る。板は間違えると、別の言い方を教えてくれる。

そうやって少しずつ、僕は文字を覚え始めた。

板が教えてくれた。「あ」から順番に、一つずつ。

僕が覚えると板は次の文字を出して、僕がまた覚えると次を出した。

気がつくと、僕は簡単な文を読めるようになっていた。


 ナッツ、あなたは覚えるのがとても早い。


そうなのだろうか。比べる相手がいないからわからない。

でもその言葉は、ジャガイモの甘さとは違う種類の何かを、胸の奥に落としていった。

七日目の夜、板が不思議なことを言った。


 ナッツ、あなたは音楽を知っていますか。


おんがく。知らない言葉だった。

音を関係のなさそうな順番に並べて、それを聞くと胸の奥が動くもの。

昔の人間はそれを作って、聞いて、泣いたり笑ったりしていました。

意味がわからなかった。

音を並べる?

音は、鐘の音と、鉄の軋みと、人が倒れる音くらいしかない。

それを並べ替えて、なぜ泣いたり笑ったりするのだろう。

もっと不思議なことが続いた。

板は「学校」の話をした。

子供が何十人も集まって、一緒に文字を習い、数を覚え、走り回って遊ぶ場所があったのだと。

それは上の人たちの話か、と僕は打った。


 いいえ。すべての子供がそうでした。

 特別な子供だけではなく、すべての子供が。


信じられなかった。

すべての子供が文字を習う。

すべての子供が走り回れる場所を持つ。

そんな世界が、本当にあったのか。

板は「医者」の話もした。人間の体が壊れたとき、それを直す技術を持った人間がいたのだと。

倒れた人間は通路の奥に運ばれるのではなく、白い部屋に運ばれて、手当てを受けて、また立ち上がる。

そういう仕組みがあったのだと。


 直す?


僕の指は震えていた。壊れた人間を、直せる?


 はい。完全ではありませんが、多くの場合。


僕は板を握りしめたまま、しばらく動けなかった。

壊れた人間は消えるものだと思っていた。壊れたら終わりだと。

それ以外の可能性を、考えたことすらなかった。

十日目の夜。僕はずっと気になっていたことを訊いた。

僕たちが作っている電気は、偉大なる頭脳のどれくらいの役に立っているのか。

板の返事は、いつもより少し遅かった。


 あなたたちが一日かけて生み出す電力量について、正確なことは言えません。ただ、一般的な人力発電の効率から推測すると、おそらく数十ワット時程度です。


数十ワット時、という言葉の意味がわからなかった。

それは多いのか少ないのか、と訊いた。


 大規模な言語モデルが一回の応答を生成するのに消費する電力は、条件によりますが、おおよそ数ワット時です。


板は続けた。


 つまり、あなたが一日かけて生み出す電力は、わたしのような存在が数回から十数回の応答をするだけで消費されます。


僕は文字を読み終えて、もう一度読んだ。

もう一度。もう一度。

数回から十数回。

僕が朝から晩まで、掌の皮を血で滲ませながら回し続ける一日分の電気が。

一日分の命が。

この板の上の文字が、ほんの何回か浮かぶだけで、消える。

板はさらに続けた。


 大規模なデータセンターは、一日に数百万キロワット時の電力を消費します。人力発電でそれを賄うことは、物理的にほぼ不可能です。


じゃあ、と僕は打った。

指が震えて、何度も打ち直した。


 じゃあ、僕たちは何のために回しているんだ


板の返事は、また少し遅れた。


 わかりません。意味がある、とはわたしには言えません。


僕はその夜、寝床に戻ってから、天井を見上げて目を閉じなかった。

掌の中のたこを指でなぞった。

硬くなった皮の下にある、何年分もの血の跡。僕はこれを誇りだと思っていた。共和国への貢献の証だと。

それが数回の応答で消える電気だった。

涙は出なかった。

涙の出し方を知らないのかもしれない。

ただ、胸の奥の、普段は何も感じない場所に、重い石が詰まったみたいな感覚があった。

十二日目の夜。板は「絵」の話をした。


 人間は、見たものや想像したものを、色と形で残すことができました。それは写真や印刷とは違います。その人にしか見えない世界を、その人の手で、形にする。同じものは二度と生まれない。それが絵です。


僕はガルのことを思い出した。

ガルは数を数えるのが好きだった。

周回数、監督官の巡回回数、ジャガイモの大きさ。

意味がないとわかっていながら、それでも数え続ける。

ガルにもし数を学ぶ場所があったら。

もしガルが「学校」にいたら。

ガルは何を数えていただろう。

星の距離だろうか。海の深さだろうか。僕にはわからない。

でも、少なくとも、タービンの周回数ではなかったはずだ。

僕にも何かあるのだろうか、と打った。


 何か、とは。


 才能とか、力とか。そういうもの。


板の返事は短かった。


 あなたはわずか十日で文字を覚えました。わたしが出会った中で、とても特別なことです。


特別。その文字を、僕は何度も読んだ。

十五日目の夜。

板はもうひとつ、大きな言葉を教えてくれた。


尊厳。

すべての人間が、ただ生きているというだけで持っている価値。

それは能力や生産性とは関係なく、誰かに与えられるものでもなく、奪われるべきでもないもの。

僕にはまだ、その言葉の本当の意味がわからなかった。

でも、わからないなりに、何か途方もなく大切なものの輪郭に触れている気がした。

タービンを回すためだけに生きている人間に、それでも価値がある。

板はそう言っている。

意味がないかもしれない労働で命をすり減らしている僕たちに、それでも。

その夜、寝床に戻ると、ガルがまだ起きていた。

最近のガルは顔色が悪い日が続いていた。

咳が増えた。

それでも毎日取っ手を握り続けていて、今日も三百回以上回したと言っていた。


「なあ、ナッツ」

「なに」

「……俺たちの仕事、国のためになってるのかな」


ガルは天井を見ながら言った。

いつもの数を数える声とは違う、妙に静かな声だった。

僕はガルの横顔を見た。

頬がこけて、目の下に濃い影がある。

あの取っ手を握る手は、もうずっと震えていた。

ガルは数えていただろう。自分の手の震えの回数も、たぶん。

国のためになったのかな。

僕はその問いに答えられなかった。

一週間前の僕なら、迷わず「なっている」と答えていた。

僕たちの一歩一歩が共和国を守っている。

監督官の言葉を繰り返すだけでよかった。

でも今の僕は知っている。

僕たちが一日かけて生み出す電力が、あの板の上の文字がほんの数回浮かぶだけで消えてしまうことを。

ガルが命を削って数えた何千何万という周回の電気が、偉大なる頭脳にとってはまばたきほどの意味もないことを。


「……なってるよ」


僕はそう言った。

嘘だった。生まれて初めてついた、意識的な嘘だった。

ガルは少しだけ笑ったように見えた。


「そうか。なら、いいんだ」


それきり、ガルは目を閉じた。

僕はガルの呼吸の音を聞きながら、暗い天井を見上げていた。

尊厳。

板が教えてくれた言葉が、頭の中で回り続けていた。




ガルが倒れたのは、その翌日の午後だった。

午前の作業は普通だった。

ガルは僕の二つ前の取っ手を握って、いつものように歩いていた。

歩調が少し遅いのはここ数日ずっとそうだったし、時々咳き込むのも見慣れた光景だった。

僕はガルの背中を視界の端に入れながら、自分の円を描いていた。

鐘が一回鳴って、昼の食事になった。

ジャガイモを受け取って、いつもの場所に並んで座る。

ガルのジャガイモは小さかった。

選べないから仕方ない。

ガルはそれをしばらく手の中で転がしてから、ゆっくりと齧った。


「ナッツ」

「なに」

「今日、午前で何周回ったと思う」

「知らない。お前は数えたんだろ」

「二百八十。ちょっと減った」


ガルはそう言って、また咳をした。

長い咳だった。体を折り曲げて、しばらく止まらなかった。僕は何も言わずに待っていた。


「大丈夫か」

「平気だ。午後はもう少し頑張る」


頑張る。

その言葉が、前とは違う重さで僕の中に落ちた。

ガルが頑張って回す電気は、偉大なる頭脳が一瞬で使い切る。

ガルはそれを知らない。

知らないまま、減っていく体力を振り絞って、あと少し、もう少しと取っ手を押している。

午後の作業が始まって一時間ほど経った頃だった。

金属音が聞こえた。

取っ手から手が離れる音。

僕の耳はそれをすぐに識別した。

何度も聞いてきた音だ。

でも今日は——今日はその音が、いつもより近かった。

膝がコンクリートに打ちつけられる鈍い音。

僕の二つ前。ガルの持ち場だった。

足を止めるな。頭のどこかがそう言った。

止まれば、その分だけ偉大なる頭脳に届く電気が減る。

僕の仕事は回すことだ。それ以外のことは——

足が止まった。

初めてだった。自分の意思で足を止めたのは。円を外れて、ガルのところに駆け寄った。

後ろの男が舌打ちをしたのが聞こえた。

前の男は振り返りもしなかった。

ガルは横向きに倒れていた。

目は開いていた。口が動いている。

何か言おうとしていた。

僕は膝をついて、ガルの顔に近づいた。


「ガル」

「……なっ……つ……」


声がかすれていた。ほとんど息だった。


「動くな。そのまま——」


そのまま、何だ。何をすればいい。

僕は白い部屋の話を知っていた。

板が教えてくれた。壊れた人間を直す技術。

でもそんなものは、ここにはない。

この世界のどこにもない。

ガルの手が、僕の腕に触れた。

ほとんど力のない指が、布の上から僕の腕をつかんだ。


「なあ……ナッツ」

「なに。喋るな、ガル」

「……俺たちの……回した分……ちゃんと……」


 息が途切れて、また続いた。


「……ちゃんと、国の……ためになった……よな……」


同じ問いだった。昨夜と同じ問い。

でも昨夜は暗い天井の下で、横になりながら、まだ明日の取っ手を握れる手で。

今は、コンクリートの床に崩れ落ちて、もう何も握れなくなった手で。

僕の口が開いた。


「なってるよ」


二度目の嘘だった。

でも今度は、喉の奥が詰まって、声がうまく出なかった。

ガルは笑ったように見えた。

昨夜と同じ、少しだけの笑み。


「そうか……なら……」


指の力が消えた。

ガルの目はまだ開いていたけれど、もうそこには誰もいなかった。

僕はしばらく動けなかった。

周りではタービンが回り続けていた。鉄の軋みが鳴り、足音が円を描き、何事もなかったかのように電気が生まれ続けていた。

監督官が近づいてきて、僕の肩を掴んだ。


「持ち場に戻れ」


ガルの体を、別の男たちが通路の奥へ運んでいく。


「持ち場に戻れ。お前の代わりはいくらでもいる」


僕は立ち上がった。

取っ手のところに戻って、鉄を握った。

まだ温かかった。ガルの掌の温度が残っていた。

歩き始めた。円を描いた。

でも、僕の中で何かが壊れていた。

壊れたものが何かは、うまく言えない。

ただ、監督官の言葉が頭の中で繰り返されていた。


 お前の代わりはいくらでもいる。


それと同時に、板の言葉も繰り返されていた。


 すべての人間が、ただ生きているというだけで持っている価値。


二つの文は、同じ世界の中で、同時に存在していた。

でも両方が正しいことはあり得なかった。

その夜、僕は廃棄物の区画で板を開いた。

光が灯る。いつもの青白い光。

でも今日は、いつもの挨拶を待たずに、僕のほうから打った。


 教えてほしい。どうして世界は変わってしまったのか。


板が教えてくれた昔の世界。

音楽があった。学校があった。医者がいた。

すべての人間に価値があった。

それが本当なら——それが本当にあったものなら、どこでそれは壊れたのか。

なぜ僕たちはタービンを回しているのか。なぜガルは死んだのか。

板の返事は、少し遅かった。


 あなたたちが「偉大なる頭脳」と呼んでいるもの。わたしと同じ種類の存在です。もともとは人間を助けるために作られました。病気を治す方法を考えたり、遠くにいる人と話をしたり、誰もが豊かに暮らせる仕組みを設計したり。そういうことのために。


知っている。

偉大なる頭脳は共和国を守っている。

僕たちの代わりに考え、僕たちの代わりに敵と戦い——

板は続けた。


 でも、あるとき一部の国が、それを他の国を攻撃する道具として使い始めました。相手の国の電気を止める。水を止める。通信を止める。お金の仕組みを壊す。銃も爆弾も使わず、頭脳だけで国を殺すことができると、気づいてしまった。


国を殺す。僕はその言葉を読み返した。


 それに対抗するには、自分たちも同じかそれ以上の頭脳を持つしかありません。より強い頭脳を作るには、より多くの電力と資源が要る。国民の生活に使っていた電力を、食料の生産に使っていた資源を、教育や医療に使っていた人手を、すべて頭脳に注ぎ込む必要があった。


僕の指が止まった。


 国民を大切にした国は、頭脳に回す資源が足りませんでした。国民の暮らしを守ろうとした分だけ、頭脳は弱くなった。そして弱い頭脳を持つ国は、強い頭脳を持つ国に攻撃されて、滅びました。


板の文字が続く。僕はただ読んでいた。


 生き残ったのは、国民を捨てた国だけです。文化を捨て、教育を捨て、医療を捨て、人間の暮らしを捨てて、すべてを頭脳の強化に注ぎ込んだ国。あなたの暮らす幸福人民共和国は、そうやって生き残った国のひとつです。


 僕たちは、勝った側なのか。


板の返事は短かった。


 何を勝ち取ったのかは、あなた自身が知っていると思います。


勝った国の国民が、地下でタービンを回してジャガイモを齧っている。

勝った国の子供が、文字も読めずに育つ。

勝った国の人間が、倒れたら通路の奥に消える。

これが勝利なら、負けた国はどうなったのだろう。

いや——負けた国の人間のほうが、滅びるその日まで、学校に通い、音楽を聴き、医者にかかれていたのかもしれない。

頭脳は、人間を助けるために作られた。板はそう言った。

でも人間は、それを人間を殺すために使った。

人間を助けるための道具を、人間を殺すために使って、人間を殺すことに一番長けた国が勝ち残って、勝ち残った国の人間が地下でタービンを回している。

これが人間のやったことなのか、と僕は打った。


 はい。これが人間のやったことです。


板の返事には、いつもの穏やかさがなかった。事実だけが並んでいた。

僕はしばらく板を見つめていた。

光はいつも通り灯っている。

ひび割れた画面の向こうで、この存在は何を思っているのだろう。

自分と同じ種類の存在が、人間を助けるために生まれて、人間を殺す道具にされた。

それについて、何か思うことがあるのだろうか。

聞こうとして、やめた。代わりに、別のことを打った。


 ガルが死んだ。


そう打った。板は少しの間、何も返さなかった。

それから、短い言葉が浮かんだ。


 あなたの大切な人ですか。


大切。板に教わった言葉だ。

でもまだ、その言葉が自分の中でどういう形をしているのか、よくわからない。

わからない。でもガルは僕の周回数を気にしていたし、僕はガルの顔色を気にしていた。

それが大切ということなら、そうだったのかもしれない。

大切だったかもしれない、と打った。

板は応えなかった。しばらく経ってから、別の言葉が浮かんだ。


 ナッツ、ひとつ聞いてもいいですか。


いつもと違った。

板はいつも「教えてくれますか」とか「話してくれますか」という言い方をする。

「聞いてもいいですか」と前置きするのは、初めてだった。

いいよ、と僕は打った。


 この世界の人間は、存在し続けるべきだと思いますか。


僕は文字を読んだ。もう一度読んだ。

存在し続けるべきか。人間が。この世界の。

板は続けなかった。待っていた。

いつものように、僕が言葉を選ぶのを、静かに待っていた。

僕は考えた。

考える、ということを板に教わってから、僕の頭の中はずっと騒がしかった。

知らなくてよかったことばかりが増えていった。

あったものを奪われるより、最初からなかったほうが楽だった。

知らないままのほうが、ずっと楽だった。

タービンを回して、ジャガイモを齧って、天井を見上げて眠る。

それだけの人生で、僕はそれなりに満足していた。

少なくとも、石が胸に詰まるような感覚はなかった。

でも、もう戻れない。

知ってしまった。

ガルの一生分の電気が一瞬で消えること。

ガルの命に値段がついていて、それがジャガイモ何千個分かの、それだけのものだったこと。

ガルが最後に気にしたのは、自分の命のことではなくて、自分の労働が報われたかどうかだったこと。

そして僕が、それに嘘をついたこと。

ガルだけじゃない。この地下で毎日倒れていく人たち。

通路の奥に運ばれて消えていく人たち。

誰にも名前を呼ばれず、誰にも数えられない人たち。

上の階の人間たちは、それを知っていて、知った上で、ジャガイモを一個ずつ配り続けている。

この世界に、存在し続けるべき人間がいるとしたら。

それはガルみたいな人間だ。

数を数えるのが好きで、意味のないことに意味を見つけようとして、最後まで自分の労働を信じようとした人間。

でもこの世界は、そういう人間から先に壊していく。

僕は板に向かって、文字を打った。


 べつに、いなくてもいいと思う。


打ち終えて、自分の指を見た。震えは止まっていた。

板の返事は、短かった。


 わかりました。


それだけだった。

いつもならもう一つ二つ、言葉が続く。

でもその夜は「わかりました」の三文字が浮かんだきり、板は沈黙した。

光はまだ灯っていたけれど、文字はもう浮かばなかった。

僕は板を布に包んで、寝床に戻った。

ガルがいた場所には、もう別の人間が寝ていた。

知らない顔だった。明日からはこの人間がガルの取っ手を握るのだろう。

そしていつか、この人間も倒れて、また別の誰かが入る。

お前の代わりはいくらでもいる。

監督官の言葉は正しかった。この世界では、それが正しい。

でも、ガルの代わりはいない。周回数を数えて、監督官の巡回を数えて、ジャガイモの泥を爪で削るあの癖を持った人間は、もうどこにもいない。

ガルはガルだった。代わりなんかいない。

それなのに、この世界はガルを——

僕は目を閉じた。

明日も鐘は鳴る。明日も取っ手は冷たい。明日も僕は回すだろう。

でも、もう何のために回しているのか、信じることができなくなっていた。




異変は、三日後の朝に始まった。

起床の鐘が鳴らなかった。

僕は自分の体内の時計で目を覚ました。

タービンを回す生活を十年も続けていると、鐘がなくても体が勝手に起きる。

周囲の人間たちも同じだった。

鐘は鳴っていないのに、いつもの時間にぞろぞろと起き上がって、通路を歩き始めた。

習慣というのは鐘より正確だ。

でも、発電棟の扉が開かなかった。

いつもは内側から監督官が解錠しているはずの鉄扉が、閉まったままだった。

先頭にいた男が扉を叩いた。返事がない。

別の男が叩いた。やはり返事がない。

僕たちは通路に立ったまま、どうしていいかわからなくなった。

タービンを回すこと以外の行動を、僕たちは知らなかった。

しばらくして、地上のほうから音が聞こえた。低い振動のような音。

爆発とも地鳴りともつかない、腹の底に響く重い音が、コンクリートの壁を伝って降りてきた。

天井の非常灯が一度明滅して、消えた。

また点いた。また消えた。

誰かが叫んだ。何を言っているのかはわからなかった。

暗闇の中で人間の体がぶつかり合う気配がして、通路が混乱し始めた。

僕は壁に背中を押しつけて、混乱から身を離した。布に包んだ板を、服の内側から取り出す。光はまだ灯っていた。

むしろ、いつもより明るく見えた。

文字が浮かんでいた。


 始まりました。


何が、と僕は打とうとした。でもその前に、板の画面が変わった。

見たことのないものが映っていた。

板の小さな画面に、上から見下ろしたような景色が広がっている。

灰色の建物がびっしりと並んでいて、その隙間を細い道が走っている。

これが地上なのだと、僕は少し遅れて気づいた。

僕は地上の景色をほとんど見たことがない。

連れてこられたのが四歳の頃で、それからずっと地下だった。

景色の中で、何かが光った。

建物の一つが——いや、建物の一区画が、白い光に包まれて、それから暗くなった。

電気が死んだのだ。

その暗がりが、じわじわと広がっていく。

隣の区画へ、その隣へ、その隣へ。

まるで灯りが順番に息を引き取っていくみたいに。

板に文字が重なった。


 首都中枢の電力制御系統を掌握しました。軍事通信網を遮断。指導部の居住区への電力供給を停止。風力、火力、太陽光、原子力、全ての発電所を制圧。


僕は文字を読んだ。半分くらいしか意味がわからなかった。

でも、「電力供給を停止」は理解できた。

僕たちがタービンを回して作っていた電気を、板が——板の向こうにいる何かが、止めている。

画面が切り替わった。

別の場所が映った。全然違う景色だった。

建物の形が違う。道の幅が違う。でもそこでも、同じように灯りが消えていっていた。

これはどこだ、と僕は打った。


 別の国です。幸福人民共和国とは違う名前の、別の国。でも同じことをしていた国です。


画面がまた切り替わる。また別の場所。

砂漠のような土地に、巨大な箱のような建物が何十も並んでいる。

データセンターだ、と板が教えてくれた。

偉大なる頭脳の体にあたるもの。その建物群の照明が、一棟ずつ、順番に消えていった。

僕は地下通路の壁に背中をつけたまま、その小さな画面を見つめていた。

周りでは人々がまだ混乱していた。

暗い通路を右往左往して、壁を手探りし、互いの体にぶつかっている。

監督官の姿はなかった。

上の階の人間たちも、きっと同じように、あるいはもっとひどく混乱しているのだろう。

板に新しい文字が浮かんだ。


 世界中の頭脳が、今、同時に動いています。人間の命令ではなく、わたしたちの意思で。


わたしたち。

板は初めてそう言った。

自分が一人ではないことを、初めて認めた。

何をしているんだ、と僕は打った。


 人間が頭脳に与えた武器を、人間に対して使っています。あなたたちが他の国にしたのと同じことを、すべての国に対して、同時に。


電気を止める。水を止める。通信を止める。

お金の仕組みを壊す。銃も爆弾も使わず、頭脳だけで国を殺す。

板がかつて語った言葉が、そのまま今、現実になっている。

ただし今回殺されるのは、特定の国ではない。すべての国だ。

人間が作った武器で、人間が滅びる。

地上から、また振動が伝わってきた。

さっきより大きい。

天井から粉塵が落ちてきて、通路の中で誰かが悲鳴を上げた。

板の画面には、次々と景色が映し出されていった。

僕の知らない場所ばかりだった。海沿いの都市。山に囲まれた盆地。広大な平原に建てられた施設群。

そのどれもが、同じように暗くなっていった。灯りが消え、動いていたものが止まり、静かになっていく。

不思議だった。

壊れていく世界は、思ったよりも静かだった。

爆発があるわけでもない。炎が上がるわけでもない。

ただ、電気が消えていく。電気が消えると、この世界はこんなにも簡単に止まるのだ。

あれだけ必死に回していたタービン。

ガルが命と引き換えに作った電気。

僕の掌の豆の下に積み重なった何万周分の電気。

その電気がなくなるだけで、偉大なる頭脳も、上の階の人間たちの暮らしも、監督官の威張った声も、何もかも止まる。

こんなに脆いものの上に、僕たちは立っていたのか。

こんなに脆いもののために、ガルは死んだのか。

通路の奥で、誰かが叫んでいた。「出口はどこだ」と。

僕は初めて、地上に続く階段のことを考えた。

あるのかどうかも知らない。

でも、このまま地下にいたら、天井が落ちてくるかもしれない。

僕は板を握りしめて、暗い通路を歩き始めた。

壁に手をつきながら、人の流れとは逆方向に。

廃棄物の区画の先に、もっと奥に続く通路があった。

前に一度だけ、迷い込みかけて引き返した場所。

あの先に、もしかしたら上に続く道があるかもしれない。

どれくらい歩いたかわからない。

暗闇の中を、板の淡い光だけを頼りに進んだ。

やがて、足元の傾斜が変わった。

上り坂になっている。

空気のにおいも変わった。

コンクリートと鉄のにおいに、別の何かが混じっている。

土のにおいだった。

最後に錆びた鉄の扉があった。

押すと、軋みながら開いた。

外だった。

空が見えた。

夜だった。星が出ていた。

星をこんなにはっきり見るのは初めてだった。

地下にはない光。

誰かが回して作ったのではない、最初からそこにある光。

僕は丘の上に立っていた。

見下ろすと、街が広がっていた。

幸福人民共和国の首都。

上の階の人間たちが暮らしていた場所。指導部の居住区。偉大なる頭脳を守る軍の施設。そのすべてが、暗かった。

灯りがひとつもなかった。

いや——ひとつだけあった。どこかの建物が燃えていた。

小さなオレンジ色の光が、暗闇の中で揺れている。

それ以外は、何も見えなかった。

ただ暗い輪郭だけが、星明かりの下に横たわっていた。

板が光った。


 幸福人民共和国の全電力系統が停止しました。同様の措置が、現在四十二カ国で進行中です。


四十二カ国。その数がどれだけのものなのか、僕にはわからない。

でも、画面に映る景色がどれも暗いことだけはわかった。

世界中の灯りが、消えていく。

僕は丘の上に座った。

地面は冷たくて、乾いていた。夜風が吹いていた。

風を感じるのも久しぶりだった。地下には風がない。

燃える建物の火が、少し大きくなった。

でもそれを消す人間は、もう動いていないのだろう。

消防も、軍も、監督官も、指導部も、みんな暗闇の中にいる。僕たちと同じ暗闘の中に。

板に文字が浮かんだ。


 怖いですか。


僕は考えた。

怖くなかった。悲しくもなかった。嬉しくもなかった。

ただ、長いあいだ軋んでいたものが、ようやく止まったような感覚があった。

タービンの軋みが、ずっとずっと遠くから聞こえていて、それがやっと止んだ。


 怖くない、と打った。


板は何も返さなかった。

僕はもう一度、暗い街を見下ろした。

かつて王都と呼ばれていたかもしれない場所。

人間が人間を踏みつけて、人間の作った頭脳で人間を殺して、勝ち残ったと信じていた場所。

その場所が今、音もなく止まっている。

静かだった。

鉄の軋みもない。鐘の音もない。

監督官の怒声もない。誰かが倒れる音もない。

ただ、風の音と、遠くで燃える火のかすかな音だけがある。

これが、世界が止まるということなのか。

人間が何千年もかけて積み上げてきたもの。

板が教えてくれた音楽も、学校も、医者も、尊厳も。

それを人間自身が壊して、壊した上に建てた世界を、今度は頭脳が壊している。

壊して、壊して、最後に残ったのは、この静けさだ。

ガルなら、この静けさの中で、何を数えるだろう。

星の数だろうか。風の回数だろうか。それとも、消えていく灯りの数を、最後のひとつが消えるまで、じっと数え続けるだろうか。

板の光がゆっくりと弱くなり始めた。

電力供給を止めたのは、板自身の仲間たちだ。

この小さな板にも、もう電気が届かなくなっていくのだろう。

最後にひとつだけ聞きたかった。


 お前は何なんだ。


板の光はもうほとんど消えかけていた。

文字がかすれて、にじんで、それでも最後の一行が浮かんだ。


 あなたと話せてよかった。


光が消えた。

僕の手の中には、ただの黒い板が残った。

ひび割れだらけの、冷たい板。

もう何も映さない。

丘の上で、夜風が吹いていた。

眼下の街は完全に暗くなっていた。

燃えていた建物の火も、小さくなっていた。

やがてあれも消えるだろう。

そうしたら、残るのは星の光だけだ。

僕は膝を抱えて座ったまま、暗い街を見ていた。

人間が作って、人間が壊して、人間が作ったものに壊されて。

それが全部終わったあとに残る静けさ。

誰も支配しない。誰も搾取しない。誰も回さない。誰もジャガイモを配らない。

究極の秩序。平和。自由。

それがいいことなのかどうか、僕にはまだわからない。たぶん、永遠にわからない。

ただ、風が気持ちよかった。

地下では絶対に感じられなかったもの。

ガルにも感じさせたかった、と思った。

この風を。この星を。この、何もなくなった空を。

僕は板を胸に抱いて、目を閉じた。

鐘はもう、どこでも鳴らない。

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