Episode 098: 帰らない小舟
翌朝、渡し場に舟は出たが、戻ってこなかった。
最初の一艘は夜明けの少し前に出た。棹の音、舟底の擦れ、岸番の短い怒鳴り。いつもと変わらないように見えたが、昼になっても、夕方になっても、その舟は戻らない。
戻らないこと自体は珍しくない。向こう岸で別の積み込みに使われる日もある。だが今日は違った。番小屋の帳面には、往路一のまま、それ以上何も書き足されていない。
「書けないんじゃなく、書きたくない顔だ」
リーゼが戸を見ながら言った。
番人は机から動かない。昼を過ぎても、油差しも綱も外へ出さなかった。舟を待っている人間の顔ではない。帰ってこないと知っている人間の顔だ。
アシュレイは川面を見た。流れは遅い。増水もない。流されたなら破片の一つは寄るはずだ。つまり、舟は消えたのではなく、向こうに留め置かれている。
問題は、舟だけなのか、人もなのかだった。
セルマが施療院から伝言を寄こした。今朝、施療継続印を出したはずの老婆が来ていない。家も空。鍋は冷え、火だけが途中で消えていた。
ここ数日の線が、一箇所で重なった。出発点を痩せさせ、受取帳で保留し、さらに送り先を先延ばしにする。舟が戻らない日は、人が「渡ったまま」になる日なのだ。
グラムは腰の短剣を確かめる仕草をしたが、抜く気ではない。
「向こうへ行くか」
「行きたいです」
「だが行けない」
その通りだった。今ここで川を渡れば、証拠を持ったまま呑まれる。向こう岸に着いた瞬間、こちらは勝手に入り込んだ不審者になり、現場の理屈を失う。
制度と戦う時、一番怖いのは力負けではなく、立場を失うことだ。
川を渡れば、こちらは急に紙を持たない側になる。そこが嫌だった。今のアシュレイが辛うじて踏みとどまれているのは、監査小屋、施療院、停留小屋、宿、渡し場という複数の「こちら側」を行き来できるからだ。向こうへ行った瞬間、その全部が細い噂に変わる。証拠を持っていても、証拠を読ませる机を失う。
アシュレイは代わりに番小屋の周囲を見た。板敷きの端、舟を結ぶ杭の根元、泥を落とすための桶。そこに、包みをまとめるための細縄の切れ端があった。白い粉がついている。
セルマを呼ぶと、彼女は指先で少しだけ粉をなぞった。
「眠り草を乾かした粉」
「施療院のものですか」
「うちの使い方じゃない。もっと雑で濃い」
向こう岸で使われた薬が、今度は出発側にも混ざり始めた。
リーゼが桶の底から小さな布片を引っ張り出した。濡れて重くなっている。施療布に見えたが、縁の色が違う。施療院のものより白い。
「向こう岸の布だ」
「分かるの?」
「糸が太い。急いで織った布」
急ごしらえの収容所や保留小屋では、よくあることだった。使い捨てる前提で、安い糸を荒く織る。
アシュレイは帳面を見た。今日は往路一。復路なし。そこに昼過ぎ、番人が小さく追記した。天候留。
空は晴れている。
あまりに雑な言い訳だった。雑にならざるを得ないほど、向こう側で処理が追いついていないのかもしれない。
「帰ってこないのは舟じゃない」
アシュレイが言う。
「戻す前に名前を剥がしている」
戻す人数を減らし、戻ってきた時には「別勘定です」と言うつもりなのだろう。川そのものが境界ではない。名を失わせるための猶予だ。
その日の夕方、番小屋の裏で小さな火が焚かれた。鍋を温めるには弱すぎる。紙を炙るにはちょうどいい火だ。
火は高く上がらない。ただ、じわじわと紙の水気だけを抜く温度だった。ああいう火で乾かすと、破る前の紙はよく裂ける。番人は火を見ていたが、暖を取る目ではなかった。何を先に片づけるか、頭の中で順番をなぞっている人間の目だった。
帰らない小舟は、事故ではない。
向こう岸へ運ぶための舟ではなく、名を返さないための猶予装置になっている。




