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処刑台帰りの下級書記官は、死簿に載らない死を読む 〜辺境州で消される名前を紙と印で取り戻す〜  作者: ねむりネコ


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Episode 096: 濡れた帳面

小舟が岸へ触れた時、板敷きが低く軋んだ。


 朝霧は薄くなっていたが、川風はまだ冷たい。舟の縁には泥が残り、返ってきた二人の外套の裾は膝まで濡れている。向こう岸の土は、こちらより黒い。水を多く含むせいで靴底へ張りつき、乾くまで色が抜けない。その泥が、舟頭ではない方の裾にだけ濃く残っていた。


 つまり、向こう岸で待っていた人間だ。


「朝早いな」


 グラムが言うと、舟頭の男は露骨に嫌そうな顔をした。


「川は夜明けを待たん」


「帳面は待つ」


 アシュレイはそう返して、もう一人の抱えている布包みを見た。大きさは両手幅ほど。抱き方が丁寧すぎる。食料なら脇に抱える。札束なら濡らさぬよう胸に寄せる。これは、どちらでもなく、濡らしてはいけない紙の束だ。


 男は無言で番小屋へ向かおうとした。


 アシュレイが一歩だけ前へ出る。


「その包み、中身を確認します」


「命令書でも持ってるのか」


「命を減らした帳面なら、持っているかもしれません」


 男の眉が動いた。言葉の意味ではなく、こちらがどこまで見えているかを測る動きだった。


 番人が舌打ちし、小屋の戸を大きく開ける。


「朝から騒ぐな。中でやれ」


 追い払うふりだが、実際は外で見られたくないのだろう。小屋の中は狭い。机、印泥、古い竿袋、湿った綱。その机の空き場所に、男はようやく布包みを置いた。布は古い施療布の切れ端だった。配給でも渡しでもなく、施療所流れの布を使っている。


 セルマの手元から回った布か、施療名目で運ばれたものか。どちらにせよ、線がつながる。


 男は結び目を解き、革表紙の薄い帳面を出した。配給帳でも停留帳でもない。表紙の字は擦れているが、最後の二字だけ読めた。


 受取。


 受取帳だ。


 《死簿照覧》が頁の上を走る。日付、舟数、札種、人数、受取印。並びは簡潔だった。あまりに簡潔で、逆に不自然だ。年齢も病状もなく、名もない。ただ番号と印だけが残る。


 頁の下端に、小さく別欄があった。通常受取外。


 その欄に、昨日の日付で三つの記号が並んでいる。


「その欄は」


 アシュレイが問うと、番人の方が先に口を開いた。


「水の悪い日用だ」


「水の悪い日に、人の欄が増えるんですか」


 番人は黙った。


 リーゼが後ろから帳面を覗き込み、鼻をひくつかせた。


「川の臭いだけじゃない」


「何が分かる」


「薬臭い。しかも施療院の煎じじゃない。もっときつい」


 帳面の下端に薄い黄褐色の染みがついていた。嗅いだ人間にしか分からないが、施療で使う穏やかな匂いではない。眠りを深くする側の薬だ。


 向こう岸では、受け取るだけではなく、受け取った後で静かにさせている可能性がある。


 アシュレイは頁をめくった。三日前、四日前、五日前。通常受取外の欄が徐々に増えている。昨日だけの例外ではない。しかも、宿帳の写しで消えた人数とほぼ重なる。


 表紙の内側を撫でると、そこに筆圧だけ残った三文字があった。保、留、舎。


 仮の呼び名か、古い施設名か。いずれにせよ、渡し場の向こうには、名を消した人間を一時的に受ける場所がある。


 帳面を閉じる時、革表紙の間から小さな紙片が滑った。受取欄へ押す前の確認片だ。そこに押されていた印は、これまでのものより少し濃く、中心の横線が二本に見えた。


 受取印にも段がある。


 つまり、向こう岸の先にも、さらに送る先があるのかもしれない。


 アシュレイは紙片を拾い上げ、男へ返さなかった。


 川を渡れば終わりではない。そう分かった瞬間、この仕事はまた一段重くなった。だが重さが見えたなら、次はそれを支える紙を作ればいい。

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