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処刑台帰りの下級書記官は、死簿に載らない死を読む 〜辺境州で消される名前を紙と印で取り戻す〜  作者: ねむりネコ


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Episode 095: 朝霧の向こう岸

渡し場は、明るくなる前の方がよく見える場所だった。


 夜のあいだは水面と岸が一つに混じる。だが、朝霧が薄く残る時刻だけ、舟の出入りがかえって輪郭を持つ。濡れた板の色、棹の先についた泥の濃さ、岸へ寄せる時のためらい。川は黙っているが、渡る人間は黙りきれない。


 アシュレイは、昨日拾った薄札を袖の内で撫でた。紙そのものは軽い。だが、あの札が示しているのは軽さではない。名を削られた人間が、どこかで受け取られているという重さだ。


 まだ空の白さも弱い。渡し場の番小屋に灯る油皿が、最後の黄色い揺れをしていた。グラムは棹置きの陰に立ち、リーゼは網小屋の脇で足跡を見ている。セルマは来ていない。施療院の朝を空けるわけにはいかなかった。その代わり、熱持ちが一人でも増えたらすぐ伝えるよう、今朝は早くから見習いを外へ出している。


 岸の板敷きは湿っていた。昨日の夕方まで乾いていた場所に、新しい舟靴の跡がある。人数は二人か三人。運ぶ側の重さではない。待っていた側の足だ。


「夜中に向こうから来た」


 リーゼがしゃがんだまま言った。


「棹を引きずってない。もう舟は向こうに置いてる」


 アシュレイはうなずき、番小屋の戸の隙間を見た。帳面の端が見える。渡し場の人間は、夜明け前に必ず一度だけ前日の往復数を写す。数字が少なくても、多くても、そこで一回だけ手が止まる。そういう仕事癖は消しにくい。


 《死簿照覧》が、湿った木の匂いの奥へ細く伸びる。


 帳面。受け渡し印。戻りの欄。そこに、川向こうで押された小さな印がある。州境配給印でも、停留印でもない。円ではなく、少し歪んだ楕円。中心に短い横線が一本。


 見覚えのない印だった。


「グラム、向こう岸の小屋、前からああいう印を使っていましたか」


「見たことはねぇな。渡し番の木札なら四角い」


 違う系統だ。渡しそのものの印ではなく、渡したあとを受ける側の印。


 番小屋の戸が軋み、年を食った番人が出てきた。鼻の横に赤い毛細血管が浮き、眠り足りない顔をしている。アシュレイを見ると、わずかに口の端が下がった。


「またお役所の人か」


「役所というほど立派な机は持っていません」


「紙は持ってる」


「持っています」


 番人は鼻を鳴らした。こういう人間は、脅されることより巻き込まれることを嫌う。だから最初から怒りの形を整えて出てくる。


 アシュレイは薄札を出さず、先に板敷きの泥を見せた。


「夜明け前に向こうから迎えが来ていますね」


「舟は川を行き来するもんだ」


「荷より人間の待ち足です」


 番人の目が、一瞬だけ帳面の方へ揺れた。


 その揺れだけで十分だった。知らないのではない。見ているが、言う気がない。


 グラムが一歩前へ出る。警備の靴音は、こういう小屋では説明より効くことがある。


「今は人の移送を調べてる。荷の話じゃねぇ」


「俺ァ舟を出すだけだ」


「出した先で、誰が受け取る」


「知らん」


 知らない、という言い方が早すぎた。


 アシュレイは帳面の行末を目で追った。今日の往路は一、復路はまだ空欄だ。だが欄の右端に、乾いていない小さな点がある。先に印泥を試した跡だ。戻りを書く前に、向こう岸から届く印を待っている。


 向こう岸の受け皿は、いまも動いている。


 川の向こうで、棹が水を割る音がした。


 霧の向こうから、小舟が一艘戻ってくる。荷はない。人影が二つ。ひとりは舟を操り、もうひとりは膝に布包みを抱えていた。死人を包むには小さすぎる。帳面か、札か、そのどちらかだ。


 出発点を痩せさせる線は見えた。次は、向こう岸でその削りを受け取る手の形を見なければならない。


 川は細い。だが、その細さのぶんだけ、秘密もまた細い紙に収まる。

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