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処刑台帰りの下級書記官は、死簿に載らない死を読む 〜辺境州で消される名前を紙と印で取り戻す〜  作者: ねむりネコ


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Episode 090: 施療名簿の空欄

名簿に空欄がある時、その空欄は誰もいなかった印ではない。誰かがいた印だ。


 セルマが持ってきた朝の施療名簿は、いつもより新しい紙だった。角がまだ立ち、折り癖もない。つまり朝の早い時刻に書き直された可能性が高い。


 アシュレイはまず、紙の端を見た。いつもの名簿なら水気と薬粉で少しざらつく。今日の紙は、中央だけ触れられていて端が綺麗すぎる。急いで必要な欄だけ埋めた紙だ。


 空欄は三つ。発熱群の列の途中に、名前だけ抜けた欄がある。人数欄は埋まっているのに、個別欄がない。


「数字だけ残してる」


 リーゼが覗き込みながら言う。


「ええ。全体人数は減らしたくない。でも個別名は置きたくない」


《死簿照覧》が空欄三つへ薄く伸びる。朝前記入。後差替。昼前削除。


 つまり一度は書いたのだ。書いた上で、削った。


 セルマは悔しそうに唇を噛んだ。


「今朝、私が湯を見に行ってる間に帳面が替わった」


「前の紙は?」


「燃やされたか、持って行かれたか」


 名簿を書き直すということは、それを触れる位置にいる人間がいる。施療院の中だけでできる仕事ではない。少なくとも補助係か、外から来る帳面係が混ざっている。


 アシュレイは空欄の隣の欄を読んだ。そこには「軽快見込」「昼後転出可」と小さく書いてある。軽快していない人間を、軽快見込として動かすための文句だ。


 こういう小さな文句が、一番危ない。露骨な嘘ではなく、半歩だけ先の可能性へ押しやるからだ。


 セルマは肩を落とした。


「これ、現場の言葉を使ってるのが最悪」


「ええ。だから止まりにくい」


 役所の外から来た命令なら、まだ反発しやすい。だが現場の言葉で包まれると、少しずつ飲まれてしまう。


 施療院の朝は忙しい。湯を足し、布を替え、薬を刻み、寝台を回る。そのわずかな隙に帳面だけ差し替えるのは、現場を知っている人間でなければできない。知らない人間なら紙の置き方を誤り、誰かの目に止まる。だからこそ、この空欄は厄介だった。外からの乱暴な命令ではなく、内側の手つきで作られている。


 そこへ、施療補助の若い女が桶を持って入ってきた。アシュレイを見るなり、目を逸らす。昨日まではそんな反応ではなかった。


「何か言われましたか」


 女はすぐ答えなかった。


「……名簿は私が触るなって」


「誰に」


「外から来た帳面の人」


 やはりいた。帳面だけを触る人間が。


 リーゼが低く訊く。


「名前は?」


「名乗らない。袖に灰の糸」


 灰の糸。封緘の代行や臨時係で見た印だ。同じ側が、施療院まで入っている。


 アシュレイは空欄三つの位置を写し、昨日の鍋数と重ねた。四つの椀が先に減り、名簿の三人が削られ、残り一人は宿帳側へ流れている可能性が高い。まだ一対一ではないが、朝の欠落が見え始めた。


「この名簿、残します」


 セルマが頷く。


「写しを二つ作る」


「一つは施療院。もう一つは?」


「停留小屋です」


 出る前に痩せるなら、停留小屋の夜控えと朝の施療名簿がつながるはずだ。夜にはいた人間が、朝には名簿の空欄になる。その線を押さえられれば強い。


 補助の女はまだ不安そうだった。


「私、何か書いた方がいい?」


 アシュレイは少し考えてから答えた。


「今は書かなくていいです。見た時間だけ覚えていてください」


 証言は多いほどいいが、早く集めすぎると壊れる。今は時刻だけで十分だ。


 施療名簿の空欄は、小さな穴に見える。だが、鍋や宿帳や代行証と重なると、もう穴ではない。人を出発前に細らせる新しい刃だ。


 次は夜控えを見る番だった。夜に確かにいた人間が、朝にはどこから消えるのか。それを一枚の紙へ乗せられれば、七通目の骨が立つ。

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