Episode 089: 空になった粥鍋
裏門を塞がれた時、次に削られるのはたいてい、出る前の口数だ。
六通目を出して二日後、施療院の土間でセルマが鍋底を見せた。大鍋はいつもより早く空になっている。なのに、名簿の人数は増えていない。
「粥が足りない?」
アシュレイが訊くと、セルマは首を振った。
「足りないんじゃない。消えるのが早い」
朝の鍋を昼前に空にするには、人数が増えるか、一人あたりの量が増えるか、外へ持ち出されるかのどれかだ。今の施療院で量が急に増えるとは考えにくい。なら人数か持ち出しだ。
《死簿照覧》が鍋底の焦げ跡と名簿の端をつなぐ。名簿外。朝食先出し。出発前。
セルマは木杓子を机へ置いた。
「今朝、空椀が四つ先に減ってた」
「誰に配ったか分からない?」
「分からないようにしたのよ。いつもは施療名簿を見て渡す。でも今日は名簿を出す前に、白布の下へ椀が寄せてあった」
白布。嫌な言い方だ。白い封と同じように、ここでも白が先に動く。
リーゼはその白布を指で持ち上げ、裏の縁を見た。
「埋葬側の仮覆布じゃない。でも似せてる」
似せている、というのが大事だった。敵は同じ物を使うのではなく、現場ごとに少し違う物で同じ効果を出している。
アシュレイは鍋の周りを見回した。湯気はもう薄い。椀を並べる棚の前に、水滴が四つ続いている。持ち出した椀が、湯をこぼしながら移された跡だ。
「門や宿へ出す前に、ここで一度食べさせてる」
「何のために?」
セルマの問いは当然だ。
「移す途中で倒れないようにです」
それが一番いやな答えだった。人を助けるためではなく、運びきるために食べさせている。
施療院の粥は、命をつなぐためのものだ。それが今は、名簿の外へ押し出すための燃料にされている。
セルマは無言で鍋の縁を拭いた。怒っている時ほど、彼女は手を止めない。
鍋底に残った焦げは、いつもより広かった。急いで最後まで掻き出した跡だ。粥が足りなかったのではなく、足りなく見えないよう使い切った痕跡でもある。こういう小さな手つきが入ると、もう偶然とは呼びにくい。朝のうちに配る相手が決まっていたからこそ、鍋はここまで綺麗に空になる。
「名簿にないなら、最初から患者じゃない扱いね」
「ええ」
「でも鍋は減る」
「だから鍋の数が効きます」
役所は名簿の穴には慣れている。だが鍋が空になる早さは言い訳しにくい。生活の記録は、手続きより遅くて鈍い代わりに、嘘が下手だ。
アシュレイは、朝の鍋量、残量、椀四つ、水滴の跡、白布の位置を控えた。名簿にない者へ先に食が回されている。これで「出る前に痩せる」だけではなく、「出るために食べさせる」段階まで見えてくる。
グラムが門側から戻ってきたのは、その後だった。今日はいつもより早い時間に、裏門近くの水桶が一度空になったという。
「水桶も?」
「誰かが四人分くらい使ってる」
鍋と水桶が同じ朝に減るなら、出発前処理はますます濃い。食べさせ、洗わせ、札を替え、出す。その順ができている。
アシュレイは、粥鍋の控えを宿帳控えの横へ置いた。夜を越した人数の線へ、朝に減る口数の線が乗る。
裏門を押さえたつもりだった。だが敵は裏門の前で準備を始めていた。出る瞬間ではなく、出る前の身体を整えるところから線を引いていたのだ。
四つの椀で救えたものがある一方で、その四つの外側には、名もないまま並ばされる口がまだ残っている。鍋の底に広がる焦げつきは、助かった人数より先に、間に合わなかった人数を思い出させた。今日の昼を越せた四人の陰で、同じ鍋を見ながら順番の外へ置かれた人間がいる。その「外側」が見えてしまった以上、粥鍋の話はもう食事の話だけでは済まなかった。
なら次は、施療名簿そのものを見る必要がある。名簿に書かれる前に食べさせたのか、書かれた後に消したのか。その違いで、敵の机の場所が変わる。




