Episode 087: 宿帳の写し先
帳面は一冊しかない時に弱い。
夜回りの合図を押さえた翌朝、アシュレイはまず宿主の老婆へ、宿帳を二冊にする話を持ちかけた。正式な控えを作るのではない。毎朝、前夜分の名前と空欄だけを別紙へ写し、宿の外へ置く。それだけだ。
老婆は嫌そうな顔をした。
「そんなことしたら、余計に面倒が増える」
「増えます」
「なら嫌だよ」
当然の反応だった。面倒が増えるのに、すぐ儲かるわけでもない。むしろ危ない。
アシュレイは頷いた。
「だから宿の中には置きません」
「どこへ?」
「施療院です」
セルマがそこで言葉を継いだ。
「朝の粥材控えの裏へ、人数だけ写す。誰がどこに泊まったかを全部置く必要はない。名前が抜けていたか、数が合っていたかだけ分かればいい」
それなら宿主の負担も少ない。しかも施療院の控えは、もともと人数と食数を結びやすい。夜鍋の数と朝の粥材がつながれば、宿帳の空欄はもっと逃げにくくなる。
老婆はしばらく考え、最後に鼻を鳴らした。
「一行だけだよ」
「それで十分です」
十分だった。本当は名前まで欲しい。だが今は、同じ事実が宿の外でも一度記されればいい。
リーゼは、そのやり取りを聞きながら別の帳を見ていた。埋葬側の簡易宿帳だ。遠方から遺体を受け取りに来た親族が一時的に泊まる時の控えで、仮泊宿ほど人数は多くない。
「こっちも空欄が増えてる」
彼女が低く言う。
「埋葬側まで?」
「二夜続けて一つずつ。宿主は『書く前に呼ばれた』って」
つまり、宿帳の空欄は仮泊宿だけの異常ではない。宿全体の運用へ広がりつつある。
《死簿照覧》が二冊の帳面をまたぐ。未記名。先呼出。夜半移し。
敵は紙を一冊ずつ壊すのではない。どの宿でも「名前は後で」という癖を作ろうとしている。
それに対抗するなら、一冊ずつ守るのでは遅い。写し先を増やすしかない。
アシュレイは粗紙を三枚出した。宿、施療、埋葬。三つの控えへ、それぞれ最低限の数だけを残す表だ。
一、夜を越した人数。
二、未記名欄の数。
三、朝までに減った人数。
これなら誰でも書ける。難しい帳面ではない。だからこそ、敵が全部を同時に押さえるのは少し面倒になる。
グラムはその表を見て、珍しく感心したように言った。
「門を通る前に、もう減ってると分かるわけか」
「ええ。門前で札を替えられても、宿側の人数が先に残ります」
敵のやり方は、紙と紙の間に空白を作ることだ。ならこちらは、宿と施療と埋葬の間に、最低限でも同じ数を置く。
セルマは紙の隅へ、小さく鍋印を書いた。
「夜鍋の数も入れたい」
アシュレイは少し考え、頷いた。
「入れましょう。人数と鍋数がずれるなら、それだけで意味があります」
生活の数字は馬鹿にされやすい。だが馬鹿にされるからこそ、意外と残る。役所は帳面を取りに来ても、鍋の数までは押さえきれない。
昼前には、最初の控えができた。昨夜、仮泊宿は八。未記名三。朝までに二減。施療院側の粥材控えは七。鍋は三つ半。数字はまだ揃わない。だが揃わないこと自体が強い。
リーゼが言う。
「次は写しをどこに置く?」
「一つはここ。もう一つは門の外です」
「門の外?」
「裏門の外に数字が一つでもあれば、向こうは宿と門を切り離しにくくなります」
その言葉を口にして、アシュレイは少しだけ先が見えた。六通目は裏門そのものを止める紙になる。その時、宿帳の写し先が外に一つあれば、線はもっと強くなる。
帳面は一冊しかない時に弱い。だが三つに分かれれば、消す側にも順番が要る。敵が順番を必要とするなら、そこへ遅れを作れる。
今必要なのは、英雄的な証拠ではなく、明日も同じ数が残る仕組みだ。その意味で、宿帳の写し先ができたことは小さくない。




