Episode 086: 夜回りの合図
同じ足音が二度鳴るなら、それは見回りではなく合図だ。
その夜、アシュレイたちは宿の裏手に散っていた。グラムは裏門寄り、リーゼは土間の影、セルマは施療院から来る小道の先。アシュレイ自身は宿の軒下で、夜鍋の残り湯が冷える音を聞いていた。
一度目の足音はすぐ来た。乾いた靴底で、一定の速さ。見回りの歩き方だ。宿の前を通り、裏手へ回り、何もせず去っていく。
宿主の老婆が言っていた通り、しばらくして二度目が来た。今度は同じ足音なのに、少しだけ速い。急いでいるというより、終点が決まっている歩き方だ。
足音は宿の裏口手前で止まった。
扉が一度だけ、内側から軽く叩かれる。返事はない。代わりに、土間の奥で木が擦れる音がした。
アシュレイは息を浅くした。音そのものは小さい。だが今の一連で十分だった。一度目で周囲を空け、二度目で動かす。
《死簿照覧》が暗がりの中へ線を伸ばす。確認。再訪。差替。裏門準備。
宿の裏口が開き、若い男が一人出てきた。昼に見た補助係と同じ背格好だ。肩には布包み、手には細い板札。布包みの軽さがおかしい。物ならもっと角が立つ。
そこへ、内側からもう一つ影が出た。小柄で、背を丸めた女。胸元を押さえ、もう一方の手で何かを抱いている。親子だ。
宿帳の空欄が、ようやく目の前の形になった。
グラムはまだ動かない。止めるなら今だが、止めた瞬間に線が途切れる。必要なのは、どこへ回すかまで取ることだ。
補助係は布包みの上へ、昼に見たのと同じ細札を載せた。仮泊札ではない。夜の途中で替える札だ。
セルマが影の中で拳を握るのが見えた。彼女は施療院へ来ていた親子を知っている。だから今すぐ止めたいはずだ。それでも動かない。動かないことで、次に救える人数が増えると知っているからだ。
二人は裏門の方へ歩き出した。途中で、もう一人合流する。門補助の腕章を巻いた男だ。代行証の線とつながった。
アシュレイはその順を頭へ刻んだ。
一度目の見回り。
二度目の足音。
宿から親子。
補助係の細札。
裏門補助の合流。
リーゼが小さく石を投げた。合図だ。追う、という意味。
グラムが先へ回り、アシュレイは少し距離を置いて続いた。裏門前で荷車は待っていない。代わりに、低い二輪車があった。荷札はないが、縄の結び方が昼間の箱車と同じだ。
親子はそこへ乗せられるのではなかった。まず小さな帳台の前へ立たされる。帳台には灯りが一つ、紙が二枚。裏門そのものではなく、門前で名前を変える場所だ。
補助係が親子の札を受け取り、腕章の男が別の札を渡す。札替えは一瞬だった。夜の闇の中、これでは普通の見回りにしか見えない。
だが今は、見る側がいる。
アシュレイは腕章の男の指先を見た。右親指に墨が付いている。門の男ではない。帳面を触る机の男だ。
つまり、机が夜に出てきている。
グラムはそれを見た瞬間、少しだけ息を詰めた。門の仕事が机に侵されていると分かったのだろう。
親子は新しい札を受け取ると、二輪車ではなく、裏門脇の細道へ歩かされた。車の痕を残さないためだ。ここまで慎重なら、相手もかなり追い詰められている。
十分だった。
アシュレイはその場で小さく下がり、控えへ順を書きつけた。音の回数、札替え、裏門前の帳台、門補助と机の手。これだけあれば、宿帳の空欄や荷札の嘘と結べる。
戻る途中、セルマが低く言った。
「止めなくてよかった?」
苦い問いだった。
「よくはありません」
「でも止めなかった」
「次にまとめて止めるためです」
それが薄い言い訳にならないよう、今夜の順番は必ず紙にしなければならない。
リーゼは冷えた指を擦り合わせながら言った。
「二度目の足音ね」
「ええ。あれが合図です」
夜回りの合図が分かった以上、次は待てる。待てるなら、今度は押さえ方を選べる。
宿、裏門、代行証、白い封、仮泊札。全部が一つの夜へ入った。あとは、それを向こうより先に一枚の紙へ入れるだけだ。




