Episode 007: 管理人は死者を数えていない
停留小屋に火がない理由は、怠慢だけではなかった。
老人を橇へ移す準備をしている最中、小屋の裏手で足音がした。雪を恐る恐る踏む足取り。逃げるほど強くもなく、堂々と出るほど覚悟もない音だ。
グラムが先に回り込み、男を引っ張り出してきた。四十前後、肩の落ちた痩せた男で、外套の胸元に州境停留管理補という擦れた布札を縫いつけている。役職名だけは大きいが、中身は寒さと不眠で擦り切れた顔だった。
「名前」
アシュレイが言うと、男は目を逸らした。
「ロッツ」
「停留管理補?」
「補佐だ。正式じゃない」
正式でない役職に、正式でない責任ばかり押し込まれている顔だった。こういう人間は、制度の悪意そのものではない。悪意を実務として受け渡す継ぎ目だ。
グラムが男の背を小突く。
「こいつが小屋番だ。昼間はいない振りしてる」
「いなきゃ回らねえんだよ」
ロッツは初めて顔を上げた。怒鳴る気力もないが、言い返さないと自分が消えると分かっている人間の声だ。
「到着した病人をすぐ州内へ入れろって言うのか。寝台は足りねえ、施療院は詰まる、配給所は食わせるなって札をよこす。俺はその間で待たせてるだけだ」
「待たせてるうちに死ぬ」
リーゼが言った。
「知ってる」
「知っててやるのか」
「知らなかったことにしても、死ぬ数は同じだろ」
その返しは卑怯だったが、現場ではよくある卑怯さだ。全体を変えられないなら、自分の持ち場だけで責任を薄める。そのために、言葉も数字も曖昧にする。
アシュレイは棚裏の紙片を見せた。
「停留番号。名がない」
「名を書いたら、後で照合される」
「照合されると困るんですね」
「困るのは俺だ」
ロッツはそう言ってから、少し遅れて唇を噛んだ。言い過ぎたと思ったのだろう。
「……いや、違う。困るのは、俺だけじゃ済まない」
その言い直しで、アシュレイはほぼ答えを得た。上から言われている。しかも、数字としてではなく人の身分に触る種類の脅しで。
「誰に」
ロッツは答えない。代わりに小屋の梁を見た。そこに逃げ場があるわけでもないのに、上を見る人間はだいたい上からの圧を思い出している。
「ここへ回されるのは、全員が全員同じじゃない」
掠れた声で、ようやくそれだけ言った。
「戻していい病人と、戻しちゃいけない病人がある」
「どう分ける」
「村。家。借金。徴発残。……あとは、口の軽さ」
セルマが低く息を呑んだ。リーゼの目つきは冷えたままだ。グラムだけが、怒る代わりに顔を硬くした。知っていたのかもしれない。全部ではなくても、匂いだけは。
アシュレイはロッツへ一歩近づいた。
「あなたは名を書かなかった」
「書けなかった」
「違う。書かなかった。書かない方があとで生き残れるから」
ロッツの頬が痙攣した。図星だった。だが責めて終わる話ではない。こいつを悪役にしても、小屋の仕組みは残る。
「誰の印で回ってる」
「印なんかない」
「なら、どの帳面に寄せている」
そこではじめて、ロッツはアシュレイをまともに見た。問いの立て方が、普通の告発者と違うと気づいたのだろう。人を責めているのではなく、紙の帰り先を探している。
「……州境雑控え」
「どこにある」
「検問所じゃない。配給所の裏帳だ」
外の風が強く鳴った。見えた。停留小屋は孤立した地獄ではない。配給所の裏帳にぶら下がる、一段低い工程だ。病人を止め、死にかけを選別し、数字を崩さないよう薄めるための工程。
グラムがロッツの襟を離した。
「最初から言え」
「言ったら俺が消える」
「言わなくても消える数が増える」
ロッツは何も返せず、白布の敷かれた床を見た。彼がやっていたのは殺しではなく待機だと、自分に言い聞かせてきたのだろう。だがその待機が、どんな仕事なのかはもう見えている。
アシュレイは紙片を布袋へ入れた。ロッツの証言はまだ弱い。だが「停留管理補」が存在し、「州境雑控え」という裏帳があり、選別がある。そこまで繋がれば十分次へ進める。
「今夜は二人を動かす」
ロッツが顔を上げる。
「それをやったら、明日には俺が責任を食う」
「明日まで生きている人間が増えます」
「それで俺の首が助かるのか」
「助からないかもしれない」
アシュレイは正直に言った。
「でも、いま何もしないなら、あなたの首が助かる代わりに、名前のない死が増える」
ロッツは目を閉じた。嫌な二択だ。だが今まで彼が選んできたのは、いつも同じ側だった。今日は初めて、別の選び方を迫られている。
長い沈黙のあと、男は棚の裏を指した。
「床板の下に、前の分もある」
そこでやっと、協力と呼べるものが落ちてきた。




