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処刑台帰りの下級書記官は、死簿に載らない死を読む 〜辺境州で消される名前を紙と印で取り戻す〜  作者: ねむりネコ


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Episode 074: 仮保全の杭

紙の外に置かれた印は、たいてい意図して見えにくくしてある。


 乾燥小屋を見つけた翌朝、アシュレイはヘルツの言葉を確かめるため、北側の雪泥をもう一度見に行った。今度はセルマも同行している。排水溝の白い澱の正体と、外側に残る仮保全の痕を見極めるためだ。


 朝の小屋周りは静かだった。夜のあいだに風が少し吹いたのか、前日より表面の泥が締まっている。だからこそ、新しく刺された物は浮く。


「あった」


 グラムが先に見つけた。小屋の北西角、壁から半歩離れたところに、短い杭が二本。昨日は雪に半分埋もれていたのが、今朝は周囲の泥が落ちて頭が見えている。


 ただの杭と言われれば、それで終わる。だが近づいて見ると、片方の頭に青灰の染みが残っていた。印泥を拭き切らないまま打ち込んだような色だ。


 ヘルツの言葉が蘇る。紙に打てない時は、杭を立てる。


 アシュレイはしゃがみ、地面の高さと杭の間隔を測った。二本は入口を塞ぐ位置ではなく、壁に沿うように立っている。人を止める杭ではない。位置を定める杭だ。


《死簿照覧》が淡く震える。仮保全外印。位置固定。照合前撤去不可。


 それだけで十分だった。今の敵は「補助棚移し」と呼んでいるが、実際には外印を打つ必要のある仮保全運用をしている。つまり、部屋は正式な保管棚ではない。


「抜く?」


 リーゼが尋ねた。


「抜きたい」


 気持ちはアシュレイも同じだった。ここで現物を手に入れられれば強い。だが抜いた瞬間に、相手は「古い境杭の残り」と言い換えられる。地面と位置の関係が残っている今の方が強い。


「まだ抜きません」


 セルマは杭の脇の泥を指で少しだけ削った。


「ここ、灰じゃなくて石灰混じり」


「施療院の消毒と同じですか」


「少し違う。もっと粗い。でも人を置く所の泥を切る時に使う」


 つまり、この小屋は荷置きだけではない。人の出入りを前提に床を持たせている。


 セルマは小さな瓶へ泥を取った。


「証拠になる?」


「単独じゃ弱い。でも、排水の白と合わせれば効く」


 役割が違うと、見える異常が増える。セルマには泥の粒が見え、リーゼには台脚の筋が見え、グラムには見張りの死角が見える。アシュレイには、それがどう記録されないかが見える。


 彼は図面の写しの余白へ、杭の位置を描き足した。入口、排水、杭、台脚。部屋の外だけで、だいぶ話ができるようになってきた。


 その時、グラムが顔を上げた。


「人が来る」


 道の向こうから、荷縄を肩へ掛けた男が二人歩いてくる。荷役夫に見えるが、足元が妙に揃っている。現場人足はもっと雑に歩く。


 アシュレイは図を畳んだ。セルマは泥瓶を懐へ入れる。リーゼは何でもない顔で排水溝を見ていた。こういう瞬間、証拠を見つけた顔をするのが一番悪い。


 二人は小屋の前まで来ると、杭には目もくれず扉の錠前だけを確かめて去った。つまり杭は「見る者だけが見る印」だ。現場の合図ではなく、照合用の痕だろう。


「やっぱり抜かなくて正解だった」


 リーゼが小さく言った。


「ええ。無くなっていたら、こちらが触ったと分かる」


 グラムは男たちの背を見送りながら眉をしかめた。


「今夜には杭ごと消えるかもしれん」


「その前に写しを増やします」


 アシュレイはその場で簡略図をもう一枚起こした。杭の間隔、壁までの距離、泥の色の違い。書いているうちに、ただの杭ではなく「撤去前に照合される位置印」という輪郭が固まっていく。


 役所はよく、紙がなければ証拠でないと言う。だが逆だ。紙がなくても、紙に変えられる形が先にある。杭はそのための形だ。


 戻る道で、セルマがぽつりと言った。


「こういうのって、本当に昔からあったのね」


「ええ」


「昔は誰かを守るためで、今は誰かを消すため」


 その言い方に、アシュレイは少しだけ肩の力を抜いた。制度の恐ろしさは、悪意だけでは動かないところだ。元は必要だった仕組みが、義務を削られた途端に刃へ変わる。


 だからこそ、古い言葉を取り戻す価値がある。仮保全なら、復帰先を書かなければならない。外印なら、撤去前に照合が要る。相手がその義務を落としているなら、そこが責めどころだ。


 杭は抜かなかった。だが抜かずに済ませたことで、こちらは一つ先へ進めた。紙が来る前に、地面にある印をこちらの語彙へ戻せたのだ。


 次は、その語彙を相手の照会文へ押し込む番だった。

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