Episode 073: 空き台の次の部屋
空き台は、消えた部屋の痕だ。だが痕は、次の部屋を指すこともある。
図面が足元箱へ滑った以上、待っているだけでは遅い。アシュレイはリーゼとグラムを連れ、旧倉列の北側を回っていた。隔離庫が畳まれた後に荷車が向かった方向、その先に、まだ見ていない乾燥小屋が一つあるとグラムが言ったのだ。
「前は塩袋置き場だった」
グラムは低い声で説明した。
「春先に一度、板を打ち直してる。だが荷の出入りが少ない割に、人の足跡が多い」
言われて見れば、雪泥の薄く残る地面に車輪より靴跡が多い。しかも広がらず、扉前だけで向きを変えている。中へ物を運ぶ足より、中を覗いて戻る足の形だ。
乾燥小屋は、呼び名ほど乾いていなかった。壁板の下半分は水を吸って黒くなり、扉の蝶番には白錆が浮いている。人を長く置く場所ではない。だからこそ、短く「置いておく」には都合がいい。
リーゼは扉の脇にしゃがみ込み、泥の上の細い筋を指した。
「これ、戸車じゃない」
「何だ」
「台の脚。重い物を引きずった跡にしては細い」
埋葬台を押す時と似た筋だ、と彼女は言った。死者用の台と、生きた人間を一時的に横たえる台は、木の脚の減り方が違う。その違いを見分けられるのはリーゼの役割ならではだ。
アシュレイは扉板へ手を当てた。冷たさが普通ではない。外気で冷えているのではなく、内側の湿気が板を締めている冷たさだ。
《死簿照覧》が細く走る。入口脇。台二。短期収容。通気不足。正規記録なし。
見えた文字は短かったが十分だった。ここは空き小屋ではない。
「開けるか」
グラムが言う。
その言葉に、アシュレイはすぐ頷かなかった。開ければ中身は見える。だが見た瞬間から、こちらは「見た側」として処分されやすくなる。今必要なのは発見そのものより、次に残せる線を増やすことだ。
「まだです」
「まだ?」
リーゼが顔を上げる。
「中に人がいるなら早い方が」
「ええ。でも、今ここで開けたら、向こうは『不用意な侵入』で片づけられる」
アシュレイは扉の縁、板の継ぎ目、下に挟まった藁の量を見た。中は完全密閉ではない。今日すぐ窒息する部屋ではない。ただし、明日も放っていい部屋ではもっとない。
「今日は場所を固定します」
グラムは不満そうに息を吐いた。だが反対はしない。彼もこの数ヶ月で知っている。助けることと残すことは、同じ日に両立しない時がある。
乾燥小屋の西壁には古い番号札の跡があった。数字そのものは剥がされているが、釘穴の間隔は残る。アシュレイは紙片を当てて測り、図面の余白へ写し取る。
リーゼは北側の排水溝へ回った。
「ここ、水捨てしてる」
底に白い澱が少し溜まっている。施療院の薬湯ほど濃くはないが、ただの泥水でもない。隔離庫で見た洗い流しと似た匂いがした。
セルマに見せれば判断がつくかもしれない。人を置く部屋なら、必ず水の痕が出る。
扉の前へ戻ると、グラムが地面を靴先で掘っていた。そこから出てきたのは、折れた細札の半分だった。文字はほとんど消えているが、一箇所だけ残っている。
……移し
完全な証拠ではない。だが、誰かがここを「移し」の場として扱っていた痕ではある。
アシュレイはそれを布で包んだ。
「空き台の次は、ここかもしれません」
「かもしれない、で足りる?」
リーゼの声は鋭かった。
「足りません」
「じゃあ開ける?」
アシュレイは扉の下の隙間を見た。中から音はしない。音がないこと自体が、良いか悪いか判断しづらい。
「今日は開けない」
自分でも苦い判断だった。だが、前の隔離庫で学んだ。部屋を見つけた瞬間に踏み込むと、次に残る線が短くなる。部屋は一度きりの現場だが、紙は複数作れる。
「先に残します。番号跡、排水の白、細札、台脚の筋」
グラムは扉を睨んだまま言う。
「中にいる奴が、明日も持つ保証はない」
「ありません」
「それでも残す?」
「今日は残して、今夜は別線で動きます」
リーゼが眉を寄せた。
「別線?」
「図面と杭と照会文です。ここを『空き小屋』って言わせない形を先に作る」
その言葉を口にした時、アシュレイはようやく自分が何を恐れているのか分かった。部屋を見つけることではない。見つけた部屋を、翌日には「最初から空だった」と言い換えられることを恐れていたのだ。
乾燥小屋の扉は、相変わらず沈黙している。だが沈黙しているからこそ、周囲を固められる。入口、排水、台脚、折れ札。今はそれでいい。
帰り際、グラムがふいに言った。
「次に来る時は、もう開けるぞ」
「ええ」
「止めても開ける」
「その時は止めません」
リーゼは折れ札の包みを確かめ、短く頷いた。
「じゃあ今日は、次に開けた時に消されないための日ね」
それが正しい言い方だった。
空き台の次に現れた部屋は、今のところまだ疑いの部屋でしかない。だが疑いの段階で、ここまで外側を残せたことは大きい。部屋そのものが消えても、外側の証拠線は残る。
そして、その線は今度こそ図面だけでは終わらない。




