Episode 069: 署名より早い片づけ
正式な閉鎖命令は、たいてい立派な署名で届く。
だが実際に物が片づくのは、その前だ。
マレナの不在札から数えて二日目の朝、旧倉庫裏の戸はまだ閉じていた。
閉じていたが、周囲だけが不自然に整っている。雪が掃かれ、壊れた桶が消え、壁際の藁屑まで片づけられている。こういう時、部屋そのものより先に周辺が清くなる。後で「元から何もなかった」と言うためだ。
アシュレイは足を止めた。
「始まってます」
グラムも同じものを見ていた。
「署名はまだ来てない」
「だから今なんです」
リーゼが戸の脇へしゃがむ。
木屑の中に、昨日まで無かった黒い粉が混じっている。焦げではない。古い封蝋を砕いた時の粉だ。
「封をやり直してる」
それは大きかった。
封をやり直す時、人は「最初からこの状態だった」と見せる準備をする。つまり、ここから先は撤去ではなく改装に見せる気だ。
アシュレイは戸口の下へ指を入れ、わずかに残った布繊維を摘んだ。昨夜までの粗い麻ではない。もっと上等な白布。施療院とも埋葬地とも違う。州都側の保全棚で使う布だ。
「棚扱いに変えるつもりです」
「部屋じゃなく、棚?」
セルマが眉を上げる。
「人を置く部屋があったんじゃない。保全棚が一時的に使われただけだって顔をする」
役所は、部屋を消すより棚へ変える方が得意だ。用途を書き換えれば、責任の線も細くなる。
その時、旧倉庫の角から二人の男が現れた。
荷を運んでいるわけではない。だが縄と板だけを持っている。運ぶ準備をしている者の手だ。
グラムが一歩前に出た。
「何をしている」
男の一人が、嫌そうな顔をした。
「旧棚の補修だ」
「命令札は」
「来る」
「まだ来てないな」
そこで相手は何も言わなかった。
それで十分だった。署名より早い片づけだと、自分で認めたようなものだ。
アシュレイはその沈黙を逃さずに紙へ落としたいと思ったが、今は紙より先に見なければならないものがある。男たちの板の長さ、縄の太さ、戸の高さ。これでは棚の補修ではない。人を横に通せるだけの板床を二段へ変えるつもりだ。
「中を見ます」
セルマが小さく息を呑む。
「今?」
「今です。署名前に片づけているなら、署名前に見た記録が必要です」
グラムは短く戸へ近づいた。見張りが来る前に済ませる。
リーゼは戸の陰へ回り、男たちの動きを遮る位置を取る。彼女は戦えないが、狭い場所で体を入れて時間を稼ぐことには慣れている。
中は、昨日と半分違っていた。
木台は二つ減り、代わりに低い棚板が立てかけられている。水桶も小さくなっている。人を留める部屋から、物を一時保管する棚へ、見た目だけを急いで塗り替えている最中だった。
だが消せていないものもある。壁の刻み傷。床の擦り跡。施療鉢の輪染み。
部屋の記憶はそんなに早く消えない。
《死簿照覧》が棚板の上で光った。
後付け。偽装順、第二段。
第二段。つまり、既に第一段の片づけは終わっている。人を抜き、布を替え、次に棚板を入れる。順番が見えた。
「段取りまで残る」
アシュレイは低く言った。
「何が」
セルマに問われ、彼は棚板を指した。
「消したい順番です。人、布、器具、最後に形」
リーゼが戸口から振り返る。
「じゃあ次は何」
「形の後は、名前です」
そこまで来れば、向こうは「そんな部屋は初めから無かった」と言える。だから今、この途中段階を取るしかない。
グラムは男たちへ向き直った。
「補修なら、記録を出せ」
男たちは答えない。答えないまま、片方が半歩下がった。その逃げ方で十分だった。正規の補修なら、紙を持ってくる。持っていないのは、まだ紙にしていないからだ。
アシュレイは壁の刻み傷を写し、棚板の位置も写した。図がいる。文章だけでは、後から「見間違いだ」と言われる。
署名より早い片づけ。
その事実が押さえられたなら、今度は逆に、署名が来た時に何が書かれていないかを問える。
帰り際、セルマがぽつりと言う。
「最近、勝ってるのか負けてるのか分からない」
アシュレイも少し考えた。
それから答えた。
「向こうが急いでいるうちは、負けてはいません」
たぶんそれが今の唯一の基準だった。




