Episode 006: 布の数より息が足りない
停留小屋の中で数えられていたのは、人間ではなく減り方だった。
セルマが母子へ薬湯を含ませ、リーゼが凍りついた白布を剥がしているあいだ、アシュレイは棚裏の紙片と布桶の洗い跡を見比べていた。布の乾き方に差がある。二枚は古く、二枚は浅く湿っている。つまり今日だけでなく、ここ数日同じ処理が繰り返されている。
「布はどこから来る」
セルマが振り返らずに答えた。
「本来は施療院。足りなくなると埋葬小屋から借りる」
「返ってきてない」
「返ってきた頃には、だいたい別の用途になってる」
別の用途、という婉曲さの中身は、ここにある。生きたまま死者の布を使わせる場所だ。
老人の脈を確かめたセルマが舌打ちした。
「熱は高いのに、解熱包を入れられてない。喉より先に胸へ落ちてる」
アシュレイは紙片へ目を落とす。停留番号三、症状欄「発熱」。配布欄は空白。だが空白の脇に赤い欠落があり、別の薬束番号へ伸びている。ここでも薬の種類がすり替わっている。
「解熱包が抜かれてる」
「見れば分かる」
「見えないところでも抜かれてる」
セルマは眉を寄せたまま薬箱を開けた。包み紙はあるのに、中身が軽い。現場にいる人間には異常でも、紙だけ追う人間には「支給済み」で終わる類いの穴だった。
「これ、施療院で減ったんじゃない」
「どこで」
「配給所の前。袋詰めの前後」
セルマはそこで初めて、アシュレイの手元の紙を覗き込んだ。
「そこまで見えるの」
「全部は見えません。欠けだけです」
「便利ね」
棘のある言い方だった。だが羨望ではなく、便利で終わってしまうことへの警戒だと分かった。異能がある人間は、だいたい途中から人として扱われなくなる。現場で欲しいのは万能な奇跡ではなく、一緒に不足を数える手だからだ。
「便利ではありません」
アシュレイは首に触れた。冷たい指が包帯越しの熱へ触れる。
「深く読むと、喉が焼けます」
「それでも読む」
「読まないと、ここは何も起きていないことになる」
セルマは返事をしなかった。その代わり、薬箱の底から自分用の控え札を一束取り出して、アシュレイの前へ置いた。協力というより、試している顔だった。
「じゃあ合わせて。施療院側の控えと、ここの停留紙」
札の角は擦り切れ、指脂で黒ずんでいる。毎日触っている証拠だ。セルマは記録を嫌っているのではない。役に立たない記録の形を嫌っている。
アシュレイは札を順に追った。村名、年齢、おおよその症状、到着予定時刻。そこへ停留紙の番号を重ねると、二人分が途中で消えていた。一人は昨日の夕方着くはずだった老夫婦の夫。もう一人は三日前の荷運び人で、施療院控えには「未着」とある。
「消えてる人が二人いる」
「死んだ?」
「分かりません。少なくとも、施療院にも埋葬票にも載っていない」
リーゼが、白布を結び直しながら短く言った。
「埋めたなら私が知る」
その一言で、空気が締まった。埋葬係の証言は重い。死体を運んだ手が「知らない」と言うなら、記録の外で処理された可能性が高い。
アシュレイは小屋の角に積まれた木箱へ目を向けた。火もないのに、そこだけ雪が溶けている。近づくと、底へ炭袋と古い薬包の殻が押し込まれていた。必要な薬が患者へ届かず、空包だけが残る。帳面の上では支給済み、実際には途中で抜かれている。
その光景に、処刑台の黒い荷箱が重なった。都合の悪い中身は、いつも箱へ押し込まれる。帳面の欄外と、木箱の底はよく似ている。
「……最悪」
今度はセルマではなく、アシュレイが言った。
「今さら?」
「今までは、紙が悪いと思っていました」
「違うの?」
「紙にする前の手が悪い」
セルマはそこで、ほんの少しだけ口元を動かした。笑いではない。ようやく会話が通った時の、疲れた人間の緩みだ。
外で風が鳴る。グラムが橇の縄を確かめ、リーゼが運ぶ順番を決めている。老人を先に動かせば途中で危ない。だが母子を先にすれば、老人が夜を越えられないかもしれない。
答えは数字にない。数字はもう見た。そのうえで、誰の息を先に守るかを決めなければならない。
「老人を先に」
アシュレイが言うと、セルマが鋭くこちらを見る。
「根拠は」
「母親はまだ子どもを抱いていられる。老人は次の咳で落ちる」
セルマは数秒だけ考え、静かに頷いた。
「じゃあ私は母子を残して温度を持たせる」
その判断が共有された瞬間、小屋は少しだけ機能になった。死を待つ場所ではなく、優先順位を持つ場所へ変わる。そこに必要なのは奇跡ではない。誰が何を見て、どの順番で動くかの合意だ。
そしてアシュレイは理解した。自分が読んでいるのは死そのものではない。死へ落ちる順番だ。その順番に手を入れられるなら、まだ遅くない。




