Episode 068: 戻した二人の値段
人を戻すと、どこか別の場所で帳尻が合わされる。
それは辺境に来てから何度も見てきたが、今回は早かった。
隔離庫から優先して戻した二人――熱の高い男と少年――は、施療院の奥でどうにか持ち直していた。
だがその代わりに、昼過ぎには配給小舎の裏で二つの名が止まった。
セルマが先に知らせに来た。
「薬じゃない。食当」
「誰の」
「昨日まで通ってた老夫婦。片方だけ先に切られてる」
片方だけ。
そういう切り方は、いつも嫌な意味を持つ。一緒に止めれば騒ぎになるものを、片方ずつずらして奪う。制度のやり方としては実に手堅い。
アシュレイが配給小舎へ行くと、老夫婦は列の端で立ち尽くしていた。夫の方は印がある。妻の方だけが「照合待ち」に回されている。照合待ちなど、本来ここで長く使う語ではない。今日食べる物に、明日以降の正しさを持ち込めば、その時点で削れる人間が出るからだ。
「何を照合していると」
アシュレイが臨時係へ問うと、返ってきたのは薄い笑みだった。
「順次、整理しております」
またその語だ。整理、整流、保全。人を減らす時ほど、向こうは静かな語を使う。
リーゼは老女の手元を見ていた。握っている袋の口が開きかけている。空腹が長い時の手つきだ。
「二人戻したから、二人削った」
リーゼが言う。
「同じ数にしたがってる」
アシュレイは臨時係の机の横を見た。板札の束が二つあり、そのうち片方だけ紐の色が違う。淡い灰青。閉鎖札と同系の色だ。つまり、ここでもすでに「通常列ではない」扱いが始まっている。
《死簿照覧》が老女の照合待ち札へ薄く走った。
補填差引。
単なる照合ではない。どこかで戻った二人の分を、どこかの二人から引いている。
「セルマ」
「分かってる」
彼女はすでに施療院の継続対象札を取り出していた。だが今回は同じ手がそのまま使えない。老女は病人ではない。無理に施療へ寄せれば、今度は施療の方が不正に見える。
グラムが一歩前に出た。
「境門の寒波待機者として処理できる」
「境門で?」
「今夜だけならな。外気が強すぎる時、門の手前で一夜分の温食を認める例外がある」
セルマが顔をしかめる。
「それ、守備隊側の持ち出しでしょ」
「そうだ」
「削られるわよ」
「もう削られてる」
グラムの返しは短かったが、実務者らしい諦めの無さがあった。守備隊の勘定から一夜分の温食を捻り出す。制度としては小さいが、だからこそ今夜を越えるには使える。
アシュレイは老夫婦の前へしゃがみ、事情を手短に伝えた。
全部は言わない。いま必要なのは、どこが悪いかより、今夜どう越えるかだ。
老夫は黙っていたが、老女の方が先に言った。
「戻されるより、忘れられる方が怖いね」
その一言で、胸の奥が少しだけ刺された。
まったくその通りだった。戻される、待たされる、遅れる。それらはまだ人として扱われている。忘れられる時に、人は初めて帳面の外へ落ちる。
グラムの例外処理で、老夫婦はとりあえず今夜の温食へ繋がった。
大きな勝ちではない。むしろ、こちらが二人戻したことで、向こうがどれほど早く別の二人を削れるかがはっきりしただけだ。
帰り道で、セルマが低く言う。
「優先順位を変えないと駄目ね」
「何をです」
「人を戻す順番。症状だけじゃなく、向こうが差し引きやすい人も見なきゃならない」
嫌な言い方だった。
だが正しい。今はもう、助けたい順だけでは動けない。敵がどこを切りやすいかまで読まないと、助けた数がそのまま別の減算へ回る。
アシュレイは歩きながら、老女の言葉を反芻した。
忘れられる方が怖い。
結局、いま戦っているのは食当でも施療でもないのかもしれない。人が「待たされている人」でいられるか、「いなかった人」にされるか、その境目なのだ。




