Episode 060: 施療鉢の欠けた印
隔離庫から人を戻すなら、施療院の紙より先に、施療院の器具を見た方がいい。
セルマがそう言った時、アシュレイは一瞬だけ意味を測りかねた。だが施療院の裏棚へ案内されてすぐ分かった。
鉢が足りない。
正確には、数はあるが揃っていない。施療用の浅鉢が本棚下の箱へ押し込まれ、代わりに欠けた深鉢が上段に残っている。現場で急いだ者は、上にある物から使う。つまり欠けた鉢が優先される。
「この欠け、見覚えがありますか」
セルマは鉢の縁を指で叩いた。
欠け目のすぐ横に薄い朱が残っている。印が押され、擦られ、半分だけ残った痕だ。
「隔離庫にあった水桶の横の鉢と同じだ」
「あっちの方がもっと汚れてたけどね」
リーゼが言う。彼女は施療院の人間ではないが、布や器の使われ方を見る目は鋭い。
アシュレイは欠けた縁へ触れた。《死簿照覧》が淡く震えた。
施療継続仮印、取消未処理。
隔離庫に置かれていた器は、もともと施療を続ける者のためのものだった。正式に打ち切られたのではない。消し切れない仮印ごと、部屋の奥へ押しやられていた。
「打ち切りじゃない」
セルマが頷く。
「だから腹が立つのよ。やめたならやめたって書けばいい。中途半端に残して、責任だけ流してる」
施療院の仕事は、人を助けるだけではない。助けられなかった時、どこで何が切れたかを知ることでもある。その意味で、セルマは誰よりも「途中で捨てられる」ことに敏感だった。
棚の下には、古い施療鉢の貸出控えがあった。紙ではなく木板で、紐穴が擦り切れている。
日付、鉢数、持ち出し先。そこに、ここ五日だけ異様な偏りが出ていた。通常なら施療院内、仮施療幕、夜番所と記されるはずの欄に、「西裏」「裏保管」「補助置き」といった曖昧な語が並んでいる。
「裏保管なんて棚はないわ」
「西裏も場所としては雑すぎる」
「わざと曖昧にしてる」
セルマは板を睨みながら言った。
彼女は普段、言葉をそこまで嫌わない。だがこういう曖昧な語だけは本気で嫌う。曖昧な語は、現場で人を救う手順には不要だからだ。必要なのは、責任を滑らせる側だけである。
アシュレイは木板を写した。
欠けた印、曖昧な持ち出し先、戻ってこない器具。これで、隔離庫が施療院と無関係の場所ではないことが一つ増える。
「器具の話で勝てる?」
リーゼが聞いた。
「器具だけでは勝てません」
「じゃあ何にする」
「施療継続を切っていないのに、切ったのと同じ扱いをしている証拠にする」
それなら効く。
施療を継続すべき者を、施療の外へ押し出した。しかも紙の上では完全に切っていない。中途半端だからこそ、責任を押し付け合える構造になっている。
その時、奥の寝台から咳が聞こえた。ヤレクだ。
顔色はまだ戻り切っていないが、視線はしっかりしてきた。彼は声を出すのに少し時間がかかり、それでも言った。
「あの部屋……暗いところ」
セルマがすぐ近づく。
「覚えてる?」
「全部じゃない。でも、鉢の底に赤い欠けがあった」
欠けた印のことだ。
本人の口から出たのは大きかった。紙だけではない。施療を受けた側の記憶にも、隔離庫と施療院の接続が残っている。
アシュレイはそこで初めて、少し肩の力が抜けた。
昨日までの隔離庫は、見つけた側だけの事実だった。今は違う。中に入れられた者の記憶が、同じ線を指し始めている。
セルマはヤレクへ水を飲ませながら、こちらへだけ聞こえる声で言った。
「二人戻すなら、今日のうちにこの鉢を持っていく」
「わざとですか」
「ええ。向こうの部屋に、正式な施療継続印の道具が入る。『あそこは施療外です』って言い訳しづらくなる」
危険なやり方だった。
だが、正規の道具は正規の論理を連れてくる。施療院の物が隔離庫へ入れば、その瞬間に「無関係な部屋」という言い分が少し崩れる。
リーゼが半ば呆れたように笑う。
「あんたら、ほんと嫌な攻め方するね」
「正面から勝てない時は、道具の方を先に入れるんです」
アシュレイが言うと、セルマは珍しく口元だけで笑った。
「役人っていうより施療院向きかも」
それは半分くらい褒め言葉だった。
たぶん今は、その半分で十分だ。
欠けた施療鉢を布に包みながら、アシュレイは考えた。
隔離庫を暴くために必要なのは、劇的な新証拠ではないのかもしれない。こういう、普段なら誰も気にしない器具の戻り方の方が、制度の嘘を深く抉る。
大きな嘘は大きく隠される。
だが小さな器具の動きは、雑に扱われる。
そして、雑に扱われたものの方が、後でよく喋る。




