表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
処刑台帰りの下級書記官は、死簿に載らない死を読む 〜辺境州で消される名前を紙と印で取り戻す〜  作者: ねむりネコ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/101

Episode 005: 停留小屋の白布

 停留小屋は、地図に載るには小さすぎ、死ぬには十分な広さを持っていた。


 監査小屋から北西へ曲がった雪道は、人が通る道というより、荷が引きずられた跡だった。橇の刃が固雪へ刻んだ浅い溝の両側に、乾いた草が折れて埋まっている。夜の風は低く、頬ではなく耳の穴へ直接入り込んでくる。アシュレイは喉の奥の薬の苦味を噛みしめながら、前を行くリーゼの灯りを見失わないよう歩いた。


 雪明かりの先に、斜めに傾いた小屋が現れた。保全小屋というより、誰かが「とりあえず置いておく」ためだけに建てた板囲いだった。屋根は中央から撓み、入口の前には踏み固められた雪が薄く赤黒い。血ではなく、泥と灰と吐瀉の混ざった色だとすぐ分かった。


「ここで人を待たせてる」


 リーゼが吐き捨てるように言った。


「待たせてるうちに、勝手に減るのを待つみたいに」


 扉板は内側から棒で留められていたが、鍵はなかった。つまり秘密の施設ではない。見ようと思えば見られる場所に置きながら、見に来る手間と責任だけを遠ざけている。辺境で一番始末が悪いのは、隠された悪意ではなく、半分公然とした悪意だ。


 グラムが先に棒を外す。扉が開いた途端、乾いた咳と酸っぱい臭いが噴き出した。火はない。代わりに、壁沿いへ白布を掛けた簡易寝台が六つ並び、そのうち四つに人がいた。寝ているのではなく、眠るしかない顔だ。


 最も手前の老人は、まだ生きていた。唇が青く、口元の布に凍った痰がついている。奥には若い母親らしい女、その脇に小さな子。残り一人は兵装の外套だけ纏った若者で、足先が不自然に腫れていた。


 《死簿照覧》が冷える。赤い欠落線は寝台そのものではなく、壁へ打たれた札釘へ集まっていた。札はない。あるはずの札だけが外され、番号の痕だけが残っている。


「白布の枚数が多い」


 アシュレイは呟いた。


「四人しかいないのに、六枚分の洗い跡がある」


 リーゼが壁の桶を見た。水は半分凍り、布端が張りついている。


「死んだのを片した後だ」


 グラムは小さく舌打ちした。


「記録は出てねぇ」


 アシュレイは膝をつき、最も手前の老人の胸に耳を寄せた。浅い。だがある。喉の奥は鳴り、熱が残っている。《死簿照覧》の線はこの老人から外へ、施療札ではなく停留控えらしき薄紙へ伸びていた。紙は見えない。見えないが、ある。埋葬前の人間を一時的に「保留」する紙の流れが、この小屋に独自に存在する。


「ここ、検問の延長じゃない」


「どう違う」


「通すか戻すかの場所じゃありません。死ぬまで曖昧にしておく場所だ」


 その言い方をした瞬間、自分の声が少し掠れた。夜気と能力の使い過ぎで、古傷の奥が鈍く痛む。


 奥の母親が、かすかに目を開けた。


「……水」


 セルマがすぐ膝をつく。彼女は施療院から駆けつけたらしく、肩に粗布袋を掛けていた。湯ではなく、ぬるい薬湯を木匙で少しずつ口へ流す。


「飲める。まだ戻せる」


 彼女の短い判断に、アシュレイは救われる思いがした。ここは死者の前室ではない。まだ間に合う人間がいる。そう確定するだけで、場所の見え方が変わる。


 壁際を調べると、粗末な棚の裏に薄い木板が一枚はめ込まれていた。外すと、紙片が二枚。どちらも湿って波打っている。


 停留番号三、停留番号五。


 名前欄はなく、村と症状と搬送可否だけが書かれていた。人の名を抜き、状態だけ残す。こうすれば死んでも誰が減ったのか見えにくい。


「見つけたか」


 グラムの声に、アシュレイは紙片を見せた。


「札じゃない。番号だけだ」


「番号があれば十分です。名を消すための途中紙です」


 老人がまた咳き込み、白布の上へ赤茶けた痰を吐いた。リーゼが無言で布を替える。死者に礼を尽くす人間は、生きている者の扱いでもすぐ分かる。彼女の手つきは荒いが、急いでいても雑ではない。


 アシュレイは小屋を見回した。火なし、水半凍結、札なし、名前なし、白布だけ余る。ここは事故ではない。名を持つ前の人間を薄めるための作業場だ。


「今夜のうちに二人は動かします」


 セルマが顔を上げた。


「無茶よ」


「無茶でも、ここへ置く方が死にます」


 グラムは腕を組んだまま、小屋の梁を見た。


「橇は一台。帰り道は凍る。兵を付ければ検問が空く」


「一人でいい。私は帳面を持つ」


「帳面は人を運ばん」


「でも、運んだ後に生きていた証拠にはなります」


 自分でも、役人じみた言い方だと思った。だがここで必要なのは、その嫌な言葉だった。人を助けるだけでは、明日にはなかったことにされる。助けた事実ごと保全しなければ意味がない。


 グラムはしばらく黙り、やがて老人と母子を見た。


「若いのを先に動かす。歩ける方が途中で死ににくい」


 それは残酷だが、残酷であることまで含めて現場の判断だった。


 アシュレイは、白布の端を握る母親の指を見た。まだ子どもの袖を離していない。ここで誰を運ぶかは、数字ではなく痛みを選ぶことだ。その痛みを紙へどう残すかまで、自分の仕事になる。


 小屋の外では風が強くなっていた。夜は深くなる。帳面の外に置かれた死は、朝まで待ってくれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ