Episode 054: 印のない施療食
施療院の裏口には、正面の窓口には現れない種類の列ができる。
声を荒らげる者は少ない。正面で言い争うだけの力も、顔も、もう残っていないからだ。
セルマが朝いちばんにアシュレイを呼んだ時、裏口には三つの桶と二つの空籠、それから子どもを背負った女が二人いた。
どちらも施療印の木札は持っている。だが、食当印がない。
「薬だけ渡しても持たない」
セルマは短く言った。
机に置かれた薬包は軽い。軽いということは、入っている量が少ないということではない。薬を受け取った後の食が途切れているということだ。飲めても続かない。
アシュレイは籠の中を覗いた。
薄い粟。乾いた根菜。昨日の夕方に配られた最後の粥材の名残。そこにあるはずの継続食札がない。
「昨日、配給小舎で弾かれた人たちですか」
「そう」
セルマは頷いた。
「施療の札は通ってる。でも食当だけが保留になってる」
保留。
その言い方も、最近急に増えた。足りないとも、駄目とも言わない。いま決めない、という形で人を止める語だ。そして止められた時間の分だけ、体の方が先に駄目になる。
アシュレイは裏口へ並ぶ人々の顔を見た。
熱の残る子。咳をこらえる老人。爪の間に煤が入ったままの炭車引き。施療院裏口の列は、病人の列であると同時に、配給からこぼれた生活の列でもある。
《死簿照覧》が、施療継続印と食当印のあいだに、細い空白を示した。
本来なら同じ日に重なるはずの二つの印が、今は日付をずらされている。薬は今日、食は明日以降。そうなると、今日飲んだ薬の効果が明日の空腹で削られる。
セルマは薬包の封を指で押さえたまま、苛立ちを隠さなかった。
「こういうやり方が一番いやなの」
「施療だけは通した形になるからですか」
「ええ。向こうは『治療は拒んでいない』って言える。でも、治療が続くかどうかは別の話になる」
言い訳のための優しさ。
それは優しさではない。責任の切り分けだ。
リーゼが裏口へ顔を出した。
今日は埋葬台の掃除当番のはずだが、施療院の様子を見に来たらしい。
「こっちにも来てるのね」
「来ています」
アシュレイは答えながら、木札の束を一枚ずつ見た。
施療継続印の横に押されるはずの小さな食当補助印が、ことごとく抜けている。抜けているだけなら見落としと言える。だが、抜けている札が全部、昨日配給列から隔離保全へ回された者のものだとすれば、話は別だ。
「印がない」
リーゼが言った。
「わざと?」
「そう見えます」
印は押されないだけで、人を飢えさせられる。
殴らなくても、閉じ込めなくても、何も持って行かなくても、ただ印を一つ欠かせばいい。制度の暴力は、いつもそのくらい静かだ。
裏口の女の一人が、背の子を揺らしながら声を絞った。
「院で食べさせてもらえませんか」
セルマはすぐに首を振らなかった。
そこが辛いところだ。施療院には施療院の備えしかない。今日四人を抱えれば、明日来る別の五人が空になる。
「少しなら出せる」
彼女はようやく言った。
「でも、毎日は無理」
それは拒絶ではない。真実だ。
真実だからこそ重い。もしセルマが冷たい人間なら、もっと簡単だった。規則を盾に断れば済む。だが、彼女は断れない分だけ、自分が配れない量を毎回数えてしまう。
アシュレイは食当補助印の抜けた札を並べた。
六枚。どれも施療継続対象。どれも昨日以降に配給から外れている。
「ここで仮印を作れますか」
セルマの目が細くなる。
「本来は駄目」
「本来の道が塞がれています」
「分かってる」
分かっているから苦しいのだろう。
正しい手続きが回っていれば、現場の人間は不正を考えずに済む。だが、上が手続きを武器に変えた時、現場は違反をしなければ生き延びられなくなる。
セルマは一枚の古い控えを引き出しから出した。
昔、疫病時にだけ使われたという、施療食継続証の雛形だ。正式な食当印ではない。だが、施療院から外へ粥を出した理由を帳面に残すための紙としては使える。
「これを切れば、あとで叩かれる」
「切らなければ、今ここで倒れる人が出る」
セルマはしばらく黙り、それから紙を一枚、二枚、三枚と切った。
筆先が迷わない。迷っているのは気持ちだけで、手は決まっている。そういう人だとアシュレイは思った。
リーゼは裏口の外を見張った。
「今日だけの抜け道じゃ駄目だよ」
「分かっています」
アシュレイは答えた。
「必要なのは、なぜ食当印だけ抜けるのか、その線です」
《死簿照覧》が、施療札の束の端で小さく脈打った。
抜けた印は、抜けたまま消えているのではなかった。別の整理札の方へ吸われている。印のないのではない。別の名前で処理されている。
「セルマ、その札、写させてください」
「持って行く気?」
「持って行きません。写すだけです」
持ち出せば露骨だ。だが写しなら残る。
今ほしいのは勝ちではない。後から言い逃れのできない形だ。
裏口の風は冷たい。
それでも、施療食継続証を受け取った女の肩が、ほんの少しだけ下がった。緊張が解けたのだろう。子どもを抱く腕の力みも、わずかに弱くなった。
そういう変化を見ると、制度の話を書いているだけでは駄目だと分かる。
印の一つ、札の一枚、その向こうでほどける肩の硬さまで見なければ、何のために追っているのか分からなくなる。
アシュレイは六枚の写しを懐へ入れた。
隔離保全という語が出てきた翌日に、食当印だけが抜け始めた。偶然ではない。向こうは人を直接追い払う前に、食と薬のあいだを裂いている。
その裂け目が見えたなら、次に追うべきは明確だった。
閉じた札束だ。
押されなかったのではなく、別の束へ入れ替えられた印。その入口に手が届けば、隔離保全の中身も剥がせる。




