Episode 050: 不達印の山
不達という語は便利だ。
届かなかった。受け取られなかった。見つからなかった。
どの意味でも使えるから、責任の線をぼかすにはちょうどいい。
その日、アシュレイは差し戻し机の裏棚で、不達印の束を見た。
見た、というより、積み上がっていた。
十や二十ではない。小さな木皿に、赤い不達印が山のように転がっている。普段なら机一つにつき数個あれば足りるはずだ。これだけあるということは、日常的に「届かなかったこと」にしている。
セルマはその皿を見た瞬間、眉をひそめた。
「こんなに使うわけがない」
「ええ」
「施療院の紙なんて、私が取りに行くか、向こうが持ってくるかのどっちかよ。途中で消えるような距離じゃない」
それが本質だった。辺境州の現場は、広いようで狭い。州都の大倉庫みたいに、どこかで紛失してもおかしくない規模ではない。だから不達が多い時は、たいてい紛失ではなく「不達にしたい」時だ。
リーゼは木皿の底に残る墨を見た。
「印の色が新しいのと古いのが混じってる」
「使い分けてる?」
「そう。乾き方が違う。新しい方は最近彫った印」
つまり、不達印の運用を増やすために、印そのものを増やしている。現場で自然に増えた量ではない。制度側が必要として増やした量だ。
アシュレイは皿の横に置かれた返送紙を一枚取った。
不達。
理由欄なし。再送不要。
再送不要。そこが危ない。
届かなかっただけなら、普通は再送する。不要と書かれた時点で、その紙は単に迷ったのではなく、「もう届かなくていい」と判断されている。
《死簿照覧》が返送紙の端を照らした。
不達処理。
実際には到着済み。
受け取り拒否ではない。
また同じだ。事実の不在ではなく、言い換えだ。
グラムが皿をひっくり返しそうな勢いで持ち上げた。
「こんなもの、見える場所に置いていいと思ってるのか」
「見える場所に置いても、誰も数えないと思ってるんでしょう」
アシュレイが言うと、彼は舌打ちした。正論だから腹が立つ、という顔だった。
その日の午後、側柵列にいた若者が一人、停留小屋へ戻ってきた。配給控えを握り、目だけが赤い。
「不達だって」
差し出された紙には、確かに不達印が押されていた。だが若者は朝、自分の手で窓口へ渡している。しかも担当書記と短い言葉まで交わしていた。
「届いてないわけないだろ」
怒鳴るのではない。呆然とした声だった。こういう声は厄介だ。怒っている相手より、何が起きたか分からない相手のほうが制度に負けやすい。
セルマが横から紙を取り、すぐに裏へ返した。
「時刻がない」
不達印の紙に、返送時刻がない。つまり、いつ届かないことになったのか分からない。
アシュレイは若者の控えを見た。朝の受理刻は残っている。グラムの兵も、その刻に窓口前へいた。なら、不達ではなく「受けたあとで消した」になる。
彼は木皿の山をもう一度見た。
不達印はただの便利な印ではない。
配給、施療、停留、埋葬のどこでも使える、最も安い消去法だ。焼却も隔離も大がかりだが、不達は一押しで済む。だから数が増える。
リーゼが低く言った。
「死者の名札にも、あとで不達を押せるのかな」
「押せます」
アシュレイは答えた。
「『照合先不明』に言い換えれば、埋葬側でも使える」
言いながら、自分でも嫌になる。制度の語は、分かった瞬間から応用が見えてしまう。だからこそ、早く止めなければならない。
その日、彼は不達印の紙だけを別に束ねた。
配給。施療。停留。
三つの不達を並べ、受理刻のある控えと突き合わせる。すると見えてくる。届いていない紙の山ではない。届いたあとで、届かなかったことにされた紙の山だ。
山の正体が分かれば、次の一手は決まる。
不達印の山は、向こうが一番気軽に使っている武器だ。
だからこちらも、一番早く効く反証を用意しなければならない。
受理刻と担当名。
それだけで折れる不達が、きっとある。




