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処刑台帰りの下級書記官は、死簿に載らない死を読む 〜辺境州で消される名前を紙と印で取り戻す〜  作者: ねむりネコ


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Episode 004: 冬の帳面に穴を開ける手

 監査小屋へ戻るころには、空が鉛色から群青へ沈み始めていた。


 北州の夕方は速い。光が落ちるというより、寒さが景色を引き剥がしていく。昼に見えていた轍も、墓地の杭も、雪の上の灰も、薄暗さの中で先に輪郭だけを失う。残るのは火の色と、呼吸の白さと、人の数が足りないことだけだ。


 小屋の扉を開けると、火鉢の炭はもう赤くなかった。リーゼが短い薪を割っている。床には新しい荷がひとつ増えていたが、布の結び目がまだ解かれていない。埋葬前だ。


「通したって」


 リーゼは斧を止めずに言った。


「セルマから使いをもらった」


「ひとりだけです」


「ひとり通れば今日は十分だ」


 検問所で見つけた簡易指示札を机に置くと、リーゼの目つきが変わった。彼女は紙に敬意は払わないが、紙が死を呼ぶことは理解している。


「病人を州境外で止めろ?」


「正式署名はありません」


「でも現場はこれで動く」


 アシュレイは検問控え、埋葬票、施療院控えを並べた。戻し札が出る日は、必ず墓標番号が飛ぶ。墓標番号が飛ぶ日は、薪束の不足が出る。薪が足りない日は、施療院側の『衰弱死』が増える。


 死者の水増しではない。死者の薄め方そのものが組み立てられている。


「木札番号の飛び、薪束の不足、戻し札の文言が一緒に動いています」


 リーゼが机へ歩み寄る。


「誰かが一人でやってる?」


「一人では無理です。少なくとも、配給所、検問、州都監督部のどこかが繋がっている」


「つまり面倒なやつか」


「ええ」


 外で慌ただしい足音がした。扉が開き、セルマが白い息を吐きながら入ってくる。頬が寒さで赤く、袖には薬液と雪が付いていた。


「通った子、熱は下がりきってないけど持ち直した」


 それだけ言って、彼女は火鉢の前にしゃがみ込んだ。


 小さい。だが確かな救いだった。ひとりが夜を越える。それだけで、この章は空疎ではなくなる。


「よかった」


 リーゼが言うと、セルマは肩で息をしながら笑いもせず頷いた。


「でも、その代わりみたいに村外れの爺さんが来られなかった。家族が連れてこようとしたけど、戻されたって」


 喜びはすぐ次の義務に変わる。助かった一人は、救えなかった一人の影を連れてくる。


 アシュレイは紙の上に指を置いた。《死簿照覧》が細く走る。新しい欠落線が、村外れの古い保全小屋へ向かっていた。検問だけではない。戻された者は、その途中の待機小屋で凍えている。


「停留小屋がある」


「そんなの、あったら死ぬでしょ」


「だから死んでいる」


 火鉢の弱い音だけがして、雪が壁を擦る。


「行くのか」


 リーゼが最初に言った。


「行きます」


「いまから?」


「夜の方が記録が薄い。残す気のない場所は、昼より夜にぼろを出す」


「昼なら、まだ誰かに助けを呼べる」


「昼になれば、紙も動きます」


 アシュレイは簡易指示札へ目を落とした。


「あの札が一枚回れば、停留小屋そのものが片づけられるかもしれない。死んだ人間ごと、痕跡が消される」


 それは想像ではなく、処刑台の裏で見た光景の延長だった。都合の悪い紙は、処理される。都合の悪い人間も同じように。


 セルマは火鉢の横から薬包をひとつ投げてよこした。


「喉に溶かして。血を吐かれると、証人の価値が下がる」


 不器用な気遣いだった。


 リーゼは棚の上から予備木札を二枚取った。


「戻らなかったら、名前くらい残してやる」


「戻ったら返せ。木札も足りない」


 場の空気は少しだけ和らいだ。だが温まったわけではない。次に向かう先が、火のない場所だからだ。


 アシュレイは簡易指示札、埋葬票の写し、戻し札の控えを布袋へ入れた。紙が証拠になるかどうかは分からない。だが紙がなければ、明日の朝には全部「そういうことは無かった」にされる。


 それに、もし停留小屋が本当にあるなら、そこにはまだ生きている人間がいる可能性がある。発熱者、凍傷者、歩けなくなった老人。施療院へ届く前に、帳面の外で薄められていく人たちだ。自分が今夜行かなければ、明日の死簿にすら残らない者が出るかもしれない。


 帝都の処刑台からここへ落ちてきて、まだ数日も経っていない。それなのに、アシュレイはすでに理解していた。自分が今立っているのは左遷先ではない。死を薄めるための中継地点だ。


 なら、ここで終われない。


 監査小屋の帳面に穴を開けている手があるなら、その先の小屋まで辿る。その一歩目としては、たった一人を通しただけだ。だが、その一人が夜を越えたという事実は、明日以降の紙を少しだけ変える。


 それで十分ではない。けれど、十分ではないことを知った上で動けるなら、まだ間に合う。


 アシュレイは喉の薬を噛み砕き、雪道へ足を踏み出した。


 寒さで、首の傷がまたじくじくと疼いた。夜道へ出るたび、この痛みは「今日はここまでにしろ」と言ってくる。だが、その忠告に従った結果が処刑台だった。紙が人を殺す仕組みを見ながら、明日まで待てと言う声に従い続けた結果だ。


 次に同じことをするなら、本当に誰かの名前が消える。

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