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処刑台帰りの下級書記官は、死簿に載らない死を読む 〜辺境州で消される名前を紙と印で取り戻す〜  作者: ねむりネコ


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Episode 044: 封緘係マレナ

 マレナがこちらへ寄る時は、いつも半歩だけだ。栗色の髪をきつく編み込んで後ろへまとめ、頬の薄いそばかすまで几帳面に隠そうとするみたいに顎を引いて歩く。その姿勢だけで、紙を乱さず持つことに慣れた人間だと分かる。


 助けると決めた顔ではない。だが見捨てると決めきれない顔はしている。封緘の仕事を長くやる人間に、そういう顔は多い。誰の札がどこで止まり、どの紙がどこへ送られるかを毎日見ながら、全部を止める力は持たない。見えているだけに、黙るほうが傷になる。


 その夕方、封緘棚の裏でマレナはようやく自分から口を開いた。


「署名を消した紙、あなただけじゃなくて私も見た」


 風の強い日だった。棚の隙間から埃が入り、紐の束が細かく揺れている。誰かに聞かれたくない時は、人は自然と音のある場所を選ぶ。


「誰が消したか分かりますか」


「分からない。けど、どこで消せるかは分かる」


 彼女は棚の最下段を指した。そこには返送前の保留束を一時的に置く薄い引き板がある。外から見えにくく、立ったままでは覗けない。封緘係か、そのすぐ傍の者しか触れない場所だ。


「ここに一度置かれた紙なら、印も署名も、いくらでも薄くできる」


「封緘棚の中で?」


「中というより、手前ね。棚へ入る前の一息」


 その「一息」が問題だった。制度の改ざんは、たいてい大きな部屋では行われない。机と棚のあいだ、受理と封緘のあいだ、正式と仮のあいだ。そういう半端な場所で一番よく起きる。


 アシュレイは棚の構造を目で追った。


 上段は正式封緘。

 中段は照合待ち。

 下段手前は一時置き。

 そして、そこから右へ小箱が出れば停留再配分口へ流れる。


 封緘は終点ではない。

 ここは、終わったように見せかけて線を分ける場所だ。


 マレナは視線を落としたまま続けた。


「最初は、本当に保留のための棚だった」


「今は違う」


「今は、迷ったふりをする場所」


 迷ったふり。


 綺麗な言い方ではない。だが正確だった。決めていないから置いているのではない。後でどちらにでも言い換えられるよう、一度棚の手前へ置く。責任を宙に浮かせるための場所だ。


 リーゼはその話を聞いたあとで、珍しくすぐには口を挟まなかった。代わりに棚の高さを確かめるように見上げた。


「埋葬側の名札も、そこを通る?」


 マレナは少し迷ってから頷く。


「全部じゃない。でも、戻したくない名は通る」


 セルマの顔が険しくなる。


「施療継続札は」


「一枚ものは通りやすい。束に紛れないから」


 つまり、守るために出した札ほど、逆に目立つ。救済のための紙が、選別のための標にもなる。制度が敵に回った時、一番つらいのはそこだ。善意で差し出した手順が、そのまま切り離しの目印になる。


 アシュレイは静かに息を吐いた。


「マレナ、あなたはどうして今それを言うんですか」


 問うと、彼女は初めて顔を上げた。


 疲れている顔だった。目尻の細い皺と、下唇の噛み跡がいまの生活をそのまま残している。だが疲れているだけではない。見てしまった人間の顔だ。


「昨日、封緘棚の手前に置かれた紙の中に、私が午前中に処理したはずの札が混ざってた」


「戻された?」


「戻されたんじゃない。最初からそこへ置くつもりで、私に一度だけ触らせたの」


 封緘係の手を通した、という事実だけを作るために。


 その瞬間、アシュレイは署名を消した返送紙と棚の引き板が、一本の線で繋がるのを感じた。


 責任は消す。

 だが、誰の手を通ったことにするかは作る。


 これが今の敵だ。何も残さないのではなく、残るべき順番だけを歪める。


 マレナは低く言った。


「私の名前で通したことにされる前に、止めたい」


 それは協力の申し出というより、遅すぎる自己防衛だった。だが十分だ。人が本気で動く理由としては、むしろその方が信用できる。


 アシュレイは頷いた。


「なら、あなたの手を通った紙と、通っていないのに通ったことにされた紙を分けます」


「できる?」


「やります」


 封緘係マレナは、この日から味方になったわけではない。

 ただ、自分の手が誰かを消すために使われる線を、もう見ないふりできなくなった。


 それで十分だった。


 制度を壊すのは、いつも大きな裏切りではない。こういう、小さくても戻れない側への傾きだ。

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