Episode 039: 生者の混入
埋葬簿は、死者のための帳面だ。
だからこそ、そこへ生者が混じる時、その一行はただの記載誤りでは済まない。
その朝、リーゼは埋葬台の脇で一枚の札を黙って差し出した。札の角は湿り、指の跡で少し曲がっている。誰かが強く握ったあとだ。
「見て」
名はまだ消えていない。
だが、添えられた符号が違う。
埋葬前照合待ち。
アシュレイは顔を上げた。
「この人は」
「生きてる」
リーゼの声は低かった。怒鳴らない代わりに、怒りが沈殿している。
「昨日、施療院の列にいた。咳が続いて、粥も足りてない。セルマも見てる」
埋葬簿に入る理由がない。誤記なら一度で済む。だが今は、施療札の外配りを弾かれた者が、埋葬前照合の列へ寄せられ始めている。
つまりこれは、生者の混入ではなく、混入させる流れだ。
《死簿照覧》が札の縁に鋭く色を走らせた。
施療継続対象。
停留再配分候補。
埋葬勘定仮置き。
勘定の渡り方が見えた。施療で拾えない。配給でも遅らせる。なら「一時的に」埋葬勘定へ置き、後で行き先不明として処理する。
死んでから埋葬するのではない。
埋葬の列へ入れてから、死ぬのを待つ。
アシュレイは札を持つ手に力が入るのを感じた。冷静さを失えば負けると分かっていても、こういう瞬間だけは別だ。制度が人を殺すという言葉は前からあった。だが、今日はそれが帳面一行の形で目の前にある。
セルマはすぐ呼ばれた。札を見るなり、彼女の顔色が変わる。
「冗談じゃない」
「昨日の列、確かにいましたね」
「いたどころじゃない。熱は高くなかったけど、弱ってた。あと一日二日、粥が切れたら危ない」
「名前を書けますか」
「書ける」
その一言で十分だった。
埋葬、施療、停留。三つの線を今ここで結べる。
問題は、誰がこの札を埋葬側へ回したかだ。リーゼは埋葬台の裏を指した。
「朝いちばん、封緘側の若いのが一束置いていった。いつもの束より軽かった」
軽い束。中身を選んだ束だ。
アシュレイは埋葬前照合の机へ回った。今日の担当は昨日と同じ老書記だが、目が合ってもすぐ逸らした。知らないふりをする目だ。
「この札、誰から受けましたか」
「封緘側から」
「誰ですか」
「そこまでは」
「記録は」
「今日は混んでいて」
言い淀みの形で分かる。記録がないのではない。言いたくないだけだ。
グラムが一歩前へ出ると、老書記はようやく声を落とした。
「若い女だ。封緘係の補助みたいな格好をしていた」
マレナ本人か、その近くの者か。いずれにせよ、封緘側から埋葬へ「仮置き」できる線が開いている。
リーゼは怒りを抑えた声で言った。
「死んでから預かるので十分だよ」
埋葬の現場には、冗談にもならない線がある。彼女の言葉は短いが、その一線を誰よりもよく知っている者の声音だった。
アシュレイは札を控え帳へ写し、セルマの証言を隣へ置いた。施療院来訪。熱あり。粥不足。埋葬前照合へ回す理由なし。
そして、その札を今日中に埋葬の束から引き抜く必要がある。
夕方までに本人を見つけられなければ、明日には「行方不明」か「不着」として処理される可能性がある。帳面から消えるのは、一日あれば十分だ。
帰り際、リーゼが低く言った。
「あんた、最初の頃は『欠落がある』って顔してた」
「今は?」
「人が先に消される段取りを見てる顔」
言い返せなかった。
段取り。まさにその通りだった。
生者の混入は偶然ではない。死へ近い場所へ先に置くことで、あとから「そこにいるべきだった」と言いやすくする。制度は、死んだ事実より前に、死ぬ位置を配っている。
なら次は、その位置配りを止める。
名前を戻すだけでは足りない。生者を埋葬勘定へ入れる入口そのものを塞がなければならない。




