Episode 038: 施療札の外配り
差し戻し机の速さが刃になるなら、その刃に触れる前に通すしかない。
セルマが提案したのは、施療院の中だけで使っていた継続札を、外で先に配ることだった。
「本来は院内だけよ」
施療院の裏庭で、彼女は小箱を開けながら言った。
箱の中には、手のひらに乗るほどの薄い札が並んでいる。角が丸く、濡れても裂けにくい紙だ。表に患者名、裏に施療の継続と最低食当の必要を書き込める。
「だから今までは、院内へ入れた人だけに渡していた」
「でも院へ入る前に折られている」
「そう」
セルマは札を一枚つまみ、爪で角を軽く叩いた。
「だったら外で配るしかない。入れなかった人間の継続を、内側だけで書いても意味がない」
規則としては危うい。いや、規則通りにいえば危ういどころか明確な逸脱だ。施療院外で出した札は、「施療前の先回り」として叩かれるだろう。
だが、今はそこを気にしている場合ではない。列の途中で折られ、院へ届く前に消える人間がいる以上、院の中だけを守っても足りない。
リーゼは箱を覗き込み、札の枚数を数えた。
「少ない」
「少ないわよ。乱発したら一日で終わる」
「じゃあ誰に渡す」
セルマは一拍置いた。
「熱がある、咳が続く、粥が必要、昨日も来てる。そこまで揃った人だけ」
厳しい条件だ。だが厳しくなければ守れない。救いたい人すべてに届かないからこそ、札は重くなる。
アシュレイは札の裏面に残る薄い傷を見た。古い束だ。州都が新様式へ寄せる前から使っていたものだろう。
新しい制度は、たいてい古い道具を無効にしようとする。
それでも、古い道具だからこそ助かる命がある。
昼前、施療院の前に二つの列ができた。
一つはいつもの受け口。
もう一つは、セルマが自ら立って作った小さな列だ。昨日、配給小舎で折られた者、差し戻し机に回された者、院へ辿りつく前に戻された者だけを拾う列。
列に並ぶ者は少ない。少ないが、その顔は明らかに違う。昨日の疲れが残り、今日もまた並ぶのに慣れた顔だ。制度に二日続けて削られた顔、と言ってもいい。
「名前」
セルマは一人ずつ聞き、手の速さを落とさず札を書く。
年齢。熱。昨日の受け口。配給印の有無。最低食当の必要。
横でアシュレイは、配られた札の番号と時刻を控えた。
「そこまでやるの」
リーゼが問う。
「やらないと、『勝手に配った札』で終わります」
「面倒な男」
「助かるためには面倒が要ります」
彼女は鼻で笑ったが、否定はしなかった。
外配りの札は、最初のうちはよく通った。
差し戻し机に行く前に「施療継続対象」の名が見えるだけで、完全な追い返しをしにくくなるからだ。前庭の書記官も、そこまで露骨には跳ねにくい。
だが通り始めた瞬間から、向こうは次の手を考える。
午後には、査閲補佐室の兵が二人、施療院前へ来た。
「院外配付札は本来運用ではない」
片方が言う。口ぶりからして、文言を覚えてきただけだ。
セルマは手を止めずに返した。
「本来運用で拾えない人が増えてるから出してるの」
「停止を命じる」
「紙は止められても、熱は止まりません」
兵は顔をしかめたが、すぐには札を取り上げられなかった。列にいる人間が見ているからだ。こういう時、向こうは一人の兵に悪者役を押しつけたくない。制度の顔をしたい人間ほど、露骨な奪い方を嫌う。
その隙に、セルマは四枚を配り終えた。
小さな勝ちだ。
だが、こういう勝ちほど次の反動が大きい。
日が傾くころ、グラムが持ってきた。
「差し戻し机が、今度は外配り札だけ先に弾き始めた」
早い。予想より一日早い。
向こうも外配りの効きを理解したのだ。なら次は、札そのものではなく、札を出した時刻と必要性を結びつける必要がある。
アシュレイは控え帳を見下ろした。
外で配る。
外で書く。
外で記録する。
制度の内側だけで人が救えるなら、こんなことは最初から要らなかった。
施療札の外配りは、規則の綺麗さを壊す。
だが綺麗な規則で人が死ぬなら、先に壊すべきは綺麗さのほうだ。
問題は、どこまで壊せば、まだ戻せるかだった。




