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処刑台帰りの下級書記官は、死簿に載らない死を読む 〜辺境州で消される名前を紙と印で取り戻す〜  作者: ねむりネコ


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Episode 001: 死簿の監査小屋

 北州ルンケルの州境にある監査小屋は、砦と呼ぶには低すぎ、物置と呼ぶには人が死にすぎていた。


 馬車から降りた瞬間、アシュレイはまず匂いに顔をしかめた。濡れた灰、薄い酢、古い木、そして雪の下から遅れてくる肉の臭い。どれも別々には知っている匂いなのに、ここではひとつに混ざって、冬そのものが腐り始めているみたいだった。


 頸の傷が冷気で刺されたように痛む。帝都を出るときに巻かれた粗い布はすでに湿っていて、呼吸するたび擦れた。喉の奥には、処刑台で吐いた血の味がまだ残っている。


 監査小屋の前には、人ではなく荷が並んでいた。藁を被せた細長い荷。端から覗く足首。凍って曲がらなくなった指先。アシュレイは数を数えかけてやめた。数えた瞬間に、仕事になってしまうからだ。


 州都の役所なら、こういう荷にはまず札がつく。到着時刻、搬入経路、保全状態、処理待ち件数。ここにはそのどれも揃っていない。荷が先にあり、記録が後から追いかけてくる。役所としては末期の状態だった。仕事が遅れているのではない。仕事の順番そのものが壊れている。


「降りろよ、役人様」


 御者が鞭の柄で荷台を叩いた。


「ここから先は紙の仕事だろ。お前みたいなのが一番好きなやつだ」


 皮肉として言っているのは分かったが、半分は当たっていた。アシュレイは紙の人間だった。剣も魔術も人並み以下で、家の中ではいつも末席だった。州庁では机に向かっている方が役に立った。その机が、いつの間にか首を吊る台へ繋がっていただけのことだ。


 監査小屋の前に掛かる札には、州境保全監査所と掠れた字が残っていた。保全。いい言葉だ。守るものが実際にある場所なら。


 けれど札板の四隅は、何度も打ち直した釘で割れていた。冬の前に繕われた跡もある。そのくせ庇の雪落としは雑で、入口の踏み板は斜めに沈んでいる。予算か人手か、その両方が足りていない施設だとすぐ分かった。帝都の役人はこういう場所を「耐用年数の延長」と呼ぶ。現場ではただ、潰れるまで使うと言う。


 扉を開けると、乾いた熱が頬に当たった。小さな鉄火鉢が一つ、弱い火で赤くなっている。部屋は狭い。左に棚、右に長机、奥に死簿の束。壁には州境各村の埋葬許可札が釘で留められていたが、半分は紐が切れて床へ落ちていた。


 床を踏む音に反応して、奥の机の女が顔を上げた。煤と灰で汚れた手袋の片方を外し、爪で紙の角を揃えている。髪は焦げ茶で短く、頬骨のあたりが少しきつく見える痩せた顔立ちで、目の下に疲れの影が濃い。


「新しい監査係?」


 歓迎ではなく確認の声だった。


「アシュレイ・ヴェルンです。本日付で配属と」


「へえ」


 女は立ち上がらずにアシュレイの首を見た。包帯の下の痣を見て、事情を半分は理解したらしい。


「まともに死ななかった人間が来るって聞いてたけど、あんたか」


「そういう言い方をされる程度には、その通りです」


 女は鼻で笑った。


「リーゼ・ドラン。ここで埋葬と死簿の写し取りをしてる。埋める方が本業。記録は余った手でやる」


 余った手、という言い方に、この場所の順位が出ていた。死者を埋めるのが先で、帳面は後だ。帝都では逆だった。帳面さえ合っていれば、埋葬の粗さなどどうでもよかった。


 リーゼは机の端の束を顎で示した。


「昨日までの死簿。あと埋葬票。運べるやつは運ぶ。凍ったやつは午後。火鉢の炭は半日もたない。薪は三日分切ってあるはずだったけど、今朝見たら半分になってた」


「盗まれたんですか」


「盗まれたか、最初から来てないか、その両方。ここじゃよくある」


 帝都なら、ここで責任の向きが始まる。誰の印で出され、どこで消え、誰の署名が抜けているか。だがこの小屋では、薪が半分消えているという事実そのものが、もう十分すぎる危機だった。責任を探す前に、夜を越す火が尽きる。


 長机へ近づいた瞬間、頭の奥でまた紙を裂くみたいな音がした。視界が一瞬だけ白く揺れる。死簿の上に、赤い欠けが浮かんだ。


 文字ではない。書かれているはずのものが削り取られた痕だけが、ひびのように残っている。欠落は線となって、埋葬票、薬札、州境通行控えへ伸びていた。


 《死簿照覧しぼしょうらん》。


 声として聞こえるわけではない。ただ、喉の傷口の奥へ冷たい水を流し込まれたみたいに、その名だけが立ち上がった。


 死簿に書かれた死亡者七名。埋葬票は九枚。施療札は十一。州境通行控えでは、三名が「別村移送」扱いになっている。


 数字が合わない。


「顔色悪いぞ」


 リーゼが立ち上がった。


「帝都で何をされたか知らないけど、ここで倒れられると運ぶ手間が増える」


「ありがたい気遣いです」


「気遣いじゃない。こっちは埋める数がもう多い」


 それでも彼女は、火鉢の横の黒い湯を差し出した。焦げた麦の匂いがする。アシュレイは一口だけ飲み、喉の痛みに顔を歪めた。


「この九人、全員埋めたんですか」


「朝の時点で七人。二人は雪道で止まってる。橇が戻ってきてない」


「でも死簿は七で、移送控えは三ある」


 リーゼの眉がぴくりと動いた。


「見ただけで分かるのか」


「見ただけではなく、数えただけです」


 半分は嘘だ。《死簿照覧》がなければ、この速さでは気づけなかった。だが異能から説明を始めるには早すぎる。


 リーゼは乱暴に票を捲り、三枚を抜いた。羊皮紙の縁に泥がつき、血の色が薄く残っている。そこにも赤い欠けが見える。埋葬地欄の下、木札番号の脇。番号が飛んでいる。


「木札も足りてない」


「死ぬ人間が多すぎるんじゃなくて、減ったことにされてる」


 リーゼの声は低かった。怒りより先に、慣れた諦めがあった。


 その瞬間、棚の薬札にも赤い欠落が走った。解熱札、消炎札、鎮咳札。必要な束だけが不自然に軽い。


 死者の数は削られ、必要な薬は別の欄へ逃がされている。


 単に物が足りないのではない。足りないように見せるための移し替えがある。


 そこまで分かった瞬間、アシュレイはぞっとした。処刑台で見たのと同じ構造だ。数を誤るのではなく、数え方そのものを差し替える。そうすれば責任は霧みたいに広がり、誰の手も赤く見えなくなる。州都で自分を殺しかけた技法が、そのままここで日常業務になっている。


「施療院はどこですか」


 リーゼは目を細めた。


「着いたばかりの役人が、もう全部分かった顔をするな」


「分かったわけじゃありません。ただ、死簿だけ見ても止められない」


「……表へ出て左。木柵の向こう。セルマって娘がいる」


 埋葬票の三枚をこちらへ押しやる。


「持ってけ。失くしたら埋める前にあんたを埋める」


 紙を受け取ると、指先に冷えが戻った。怖いのは寒さではない。この紙が、今日まで何人分の死を「減らして」きたのか想像できてしまうことだ。


 監査小屋の扉を開けると、白い息が一気に押し寄せた。橇には二つの荷が載っている。その後ろで、若い兵が肩を震わせながら立っていた。鼻先まで巻いた布の下で、目だけが赤い。


 まだ死んではいない。だが、このままなら死簿へ来る側だ。


 見えてしまった以上、後回しにはできない。


 帝都で自分を殺しかけたのが記録なら、この辺境で人を殺しているのもまた記録だ。なら、最初の仕事は決まっている。死んだ人間を数え直すことではない。まだ死んでいない人間が、どの欄から消されかけているのかを読むことだ。

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