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処刑台帰りの下級書記官は、死簿に載らない死を読む 〜辺境州で消される名前を紙と印で取り戻す〜  作者: ねむりネコ


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Episode 015: 施療印の余白

 夜番の翌朝、施療院の空気はいつもより薄く感じた。疲れているからではない。救われた者が一人いるぶん、失われかけたものの輪郭が逆にはっきりしたのだ。


 昨夜、木箱から引き上げた若い男は奥の寝台に寝かされていた。熱は高いが、呼吸は続いている。セルマが煎じた苦い薬湯の匂いが、部屋全体の湿気に混ざっていた。


 アシュレイは入口で足を止めた。施療院は監査小屋と違う。死を後から数える場所ではなく、まだ死なせないために手を動かす場所だ。ここでの一つの書き損じは、監査小屋よりずっと速く人の身体へ返ってくる。


 セルマは薬杓子を洗いながら、こちらを見もしないで言った。


「寝てないでしょ」


「半刻ほどは」


「それは寝たって言わない」


 返す言葉がない。首の奥は重く、指先はまだ少し痺れる。だが昨夜押さえた荷の意味を、施療院側の紙へ落とす方が先だった。


 セルマは机の上へ札束を広げた。施療印、投与札、隔離札、返送札。紙の種類が多いのは、ここで失敗の責任を一枚へ押し込めないからだ。


「木箱の男、名前はヤレク。停留名簿だと『発熱・要経過観察』。でも州路札では『労務転送待ち』」


「両立しない」


「両立させてるのよ、あいつらは」


 セルマの怒りは静かだった。声を荒げるより、薬札の角を揃える方へ向く人間の怒りだ。


 アシュレイは彼女の机に近づいた。乾いた薬草の粉、砕けた陶片、布切れ、煤けた湯瓶。どれも使い切られる前提の物ばかりだ。州都の施療監査室なら、こういう小物は背景になる。ここでは背景の方が人を生かしている。


 《死簿照覧》が施療印の余白で灯った。


 赤い欠けは、印そのものではなく、押されなかった場所に出ている。隔離札を出すべき患者に投与札だけが付き、返送札へ移るはずの者に何も付かない。抜けているのは量ではない。判断の跡だ。


「セルマ、この余白は誰が決める」


「本来は施療補佐官。でも冬は州都から来ない。だから現場で仮に振り分ける」


「仮に?」


「ええ、仮に。で、その『仮』が州路へ行く頃には、誰かの都合で決定に変わってる」


 役所言葉として、美しい壊れ方だった。責任の瞬間だけが移動する。


 ヤレクの札束を辿ると、さらに一つの妙が見えた。投与札の番号と薬包控えの番号が逆順になっている。普通なら有り得ない。先に薬を出してから札を書くなら、連番は前後しても一つか二つだ。ここでは五つ飛んでいる。


 セルマがアシュレイの指先を見た。


「その順番、気になる?」


「ええ」


「私も」


 彼女は棚の下から、煤で汚れた木板を出した。仮書き用の施療順板だ。


「本帳へ移す前、先にこっちへ書いてる。夜は灯りが足りないから」


 板には走り書きの痕が残り、布で拭った跡の上にまた字が重なっている。そこにだけ、ヤレクの名前が二度あった。片方は「停留継続」、もう片方は「州路返送」。


 二つの進路を同時に持たされている。


「誰が書いた」


「最初は私。後から補助の役人が触ってる」


「名前は」


「知らない。いつも名乗らない」


 それが一番腹立たしい類の人間だと、アシュレイは思う。権限だけ持ち込み、責任の名前は置いていかない人間。


 セルマは一度だけ深く息を吐いた。


「昔ね」


 急に、彼女は薬板の端を指でこすりながら言った。


「弟がいたの。冬に熱を出して、停留のまま待たされた」


 アシュレイは黙った。こういう時、急いで返答するとたいてい間違う。


「薬が来ないんじゃなくて、札が回らなかったの。来る順が一回ずれただけ。そう言われた」


 セルマは笑わなかった。泣きもしない。ただ事実だけを、古い棘みたいに取り出した。


「一回ずれただけで、人は死ぬのよ」


 その言葉で、昨夜押さえた木箱の意味がさらに重くなる。州路の途中で止めた一便は、一つの悪意の現場であると同時に、現場が「一回ずれただけ」と言い続ける構造そのものだった。


 アシュレイは板の上の二重記載を見た。死簿に来る前に、施療で既に消される命がある。


「これを写します」


「写したら、向こうは燃やすかも」


「燃やされる前提で残します」


 セルマはそこで初めて、少しだけ表情を緩めた。


「役人らしい返事」


「嫌味ですか」


「半分は」


 その半分は、もう拒絶ではなかった。


 昼過ぎ、ヤレクは薄く目を開けた。まだ話せないが、水は飲める。セルマが匙で飲ませ、リーゼが寝台の足元へ新しい布を差し込む。救えた、とはまだ言えない。だが昨夜の木箱のままなら、今朝には死簿へ来ていただろう。


 それで十分な救いではない。だが次へ進む根になる。


 アシュレイは施療印の余白を、別紙へ清書し始めた。押されなかった印、逆順の番号、二重進路の記載、名前を残さない補助役人。ここまで揃えば、ただの違和感では終わらない。まだ告発ではないが、告発草案の骨になる。


 窓の外では、昼の雪が少しだけ緩んでいた。緩んだ雪は歩きづらいが、轍は残る。


 夜を越えた命が一つあり、その代わり次に消される線が少し見えた。粗末な世界で許される希望は、たぶんこの程度でいい。だからこそ、余白一つでも取りこぼせない。

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